「金色のガッシュベル!!」(C)雷句誠/小学館・フジテレビ・東映アニメーション
・アラサーなのに「大人」になれない
今回はタイトルそのまま。この歳になっても、まだ大人になれてないなぁと感じる機会が増えてきたという話。なので「ガッシュベル」も千綿ヒデノリさんも実際関係ない。そう、勘のいい方なら既にお気づきかもしれないが、俗に言う「釣り」というヤツである。
その割に保身ばかりが先立ち「このタイトル、JASRACさん的にどうなんだろう」とか「むしろどこまでが引用アリなんだ」とか「言いたいことも言えない世の中だなポイズンめ!!」「「ファイト!戦う君の脚を、引かれるくらい舐めまわしたい」は、引用以前に人としてセーフだろうか」とか、延々考えてしまう。
ここまで読んで既にお分かりの通り、全然大人になれていない。そろそろ怒られそうなので、ふざけるのもここら辺にしようと思うが、だいたいアラサー年齢になってくると確実に一度はこれから挙げるような会話をしたことがあるのではないだろうか。
「小さい頃に抱いていた30歳って、もっと大人だと思ってた・・・」
「親父が今の自分の年齢には、もう既に俺を産んでたんだよな・・・」
親世代を見て自分が抱いていた「大人像」と今の自分を比較し、到達点に至っていないことを嘆く話題である。結婚や出産、収入といった分かりやすいステータス面から、精神的にも「より責任ある立場ぽかった」という「大人像ハードル」をクリアするのは、いざ当事者になってみると難しい。マリオカートで言うところのレコードタイムのゴーストにいつまでも追われている感覚に似ている。
それなのに、現実社会は止まらない。いつしか始まった労働は日々巡り、目は悪くなり、気付けば白髪が少しずつ増え、体力面でも25歳超すと自分の想像と実際の動きにズレが生じ始める。僕の場合、周囲よりもそれが早い気がして、早々にポンっと逝くのではとか考えたりもする。
上の世代が聞けば「この先はもっと加速度的に」というお決まり反駁があるのは分かっている。ただ、過渡期の真っ只中だからこそ、その実感はやはり大きいモノがあるのだ。精神に対して時間は止まらないんだなぁ。それを感じ始めるのが、このアラサーという年齢だと思い知る毎日である。
・僕らが抱いていたのは「'95~'00年の大人像」
さて、ここからが言い訳コーナー。今日、実際に友人と話をする中で、やはり上記のような「大人になれていない」話となった。ただ、ふと僕らが、ならなきゃと感じている「大人」って「いつの大人」だ?と思ったのである。
仮にだが、ある程度自我を持ち始め、親の仕事にも理解を示す10歳を「大人像」を構築しだすラインとしてみよう。そう考えると、おおざっぱに15~20年前ほど、そうした時代の大人像を抱きながら我々世代はすくすく成長したことになる。当時を考えれば、ネットもねえ、スマホもねえ、ぎりぎりピッチがブールブルな時代だ。そりゃ、今のアラサー世代が抱く「当時の大人」と現状の自分「実際の大人」像にズレが生じるのは致し方ないのではないかと。
こんな末端ブログを待たずとも、世代格差の話などネット上では耳タコ話題なのは承知している。収入水準の低下、それに伴う晩婚化や出産への不安の増大、人口減というマイナス要素が確実に将来待ち構える中「最近の若者は」と老害が軽口を出そうものなら「おい、お前らの世代と思考のフレームワークが全然ちげえだろ!むしろ誰のせいでこうなってんだ!!」という反駁が一瞬にして挙がる。ウェブ上ではもはや馴染みの光景だ。
じゃあ、なんでお前はこんな話を改めてしたの?ということだが。上記のような世代格差論は現在、アラサーやアラフォーの世代が、団塊の世代周辺、要は自分より上の世代への攻撃材料として用いる場面が多い。ただ、その反面。「自分たちがどういう大人であるべきか」という話の中になると、使われる事はなんだか少なくなるな、と思ったのである。
・「言い訳」から見えてくる現実
それは何故かと言えば「言い訳」になるからだ。攻撃材料にはすれど、自分の擁護の為に世代格差論を用いると急にそれは、大人のハードルをクリアできていない言い訳になる。「結婚しないの?」と親に詰められた際、「上の世代と思考のフレームワークが」とか言ったところで「は?」と返され、余計な心配を増加させるのが関の山ではないだろうか。
むしろ、今回のタイトルで引用しそうになった歌詞をこう言い換えたい。「大人になれない僕らの実態をもうちょっとちゃんと見てみてくれ」と。いや、僕も同じ世代が普通に結婚し始め、子供なんか抱かされている中でこんなことを声高々に言ってることがすっごいサブい事くらい理解してる。うちの親が見たら多分凹むんじゃなかろうか。でも、言い訳をちゃんと言えるということは、大きな枠で物事を、現実をちゃんと捉えられているということだ。(と自分に言い聞かせている)
以下は厚生労働省が毎年作っている「厚生労働白書」平成25年度版へのリンクである。
平成25年版厚生労働白書 −若者の意識を探る− (本文)|厚生労働省
何故平成25年かといえば、この年次に初めて「若者の意識を探る」というテーマで作成されたのだ。10~40代の世代にフューチャーをしながら、世代間での様々なライフスタイルの変化、経済的状況の推移の統計および推察を行っている。暇な時にでも覗くとそれぞれテーマ別に数字を眺められる為、非常に興味深い。
特に「結婚に関する意識」などは見ていても、多様化する現在の様子が実感できる。一様に結婚をすべきという「義務感」は薄まるものの、意思として「結婚への願望」は残っている。しかしながら収入面での障害が過去よりも強いものになっている。結論が一緒だとしても、一度ネット上の「感覚論」から離れてこのような資料的統計を見てみるだけでも、新鮮な発見があるかもしれない。
・これからの「大人像」を
はいはい、わかりました、でもその現実を自分に当てはめてみたところで事態は何も前に進まねえだろ!という即物的な声も当然(幻聴で)聞こえる。
それでは、これまで見てきた「言い訳的現実観測」は実際、なんの意味があるのかといえば、自分の中の「大人像」を一度壊す為の自己暗示である。時代錯誤な大人像を抱いたまま、今の自分の状況に負荷をかけて大人になろうとしすぎると、そりゃあきっと身体と心に良くない。
時代は変わっている。価値観も変化している。そしてそれを、自分も享受すべきである。このように、大人像という発想を一度リセットしてもいいんじゃないかと思ったのだ。今の時代に適った「大人」になれば、それで十分であると。冒頭、マリカーのレコードタイムを例えたが、親世代と競うことなく「違うコースで走る」という選択肢を取ってもよいと、前向きに捉えられないだろうか。と。
正直こんなことを言ってしまうのも、先ほどまで放映していたNHKの「縮小ニッポンの衝撃」を見ていて、打ちひしがれたからである。
これから先、特に東京五輪の後。少子高齢化により東京23区ですら財政難を抱えだす時代。北海道夕張の撤退戦略なんか見させられて、僕らはどうやってこの国で大人としてやっていけばいいのか。すごい不安に駆られた。確実に親世代に打ち立てられた「レコード」は超えられない。そういう時代なのだと随所で聞かされるし、まぁその通りなのだろうと想像がつく。
でも、もしかしたら親世代と同じコースで走る必要もない。そもそも違うゲームをプレイしてもいいのかもしれない。具体的な案もなく、そんなことばかり言うのは逃げなのかもしれないが、今度は僕らを見て、また下の世代は凝りもせず「大人像」を作っていく。そんな次世代もきっと今抱えている僕らのぼんやりとした不安をしっかりと受け継ぐだろう。番組では公共施設の閉鎖が相次ぐ夕張市で、地元高校への進学希望者が激減しているという場面も流していた。
先々の事を考えると、また今の自分を顧みても、なにかと暗くなりがちな昨今。何とか前向きになるには、過去に抱いた正解でなしに、新しい「大人像」を自分でリメイクする必要があるのかなとか。月曜の仕事を前に鬱蒼と考え事でした。