わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

新聞を毎朝とってみて思う、新聞に関するイライラ

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最近、このブログを書くたびに季節が変わっている気がする。

 

寒すぎて風邪ひいた。てか今年も終わるなぁ。と12月のカレンダーに目をやると、今年は天皇誕生日23日(金)からクリスマスまで3連休。独り身で外出したら空気に殺される気がして、熱に浮かされつつ今から連休にやり込むエロゲタイトルを考えている。

 

ここから本題だけど、最近仕事の兼ね合いもあり某Y新聞の朝刊を購読することになった。こんなところで適当言ってるが、一応僕も社会人として幾つかの新聞を併読している。Y新聞に加え、ビジネスパーソン御用達のN新聞はたまに駅で買い、更に会社で業界紙をいくつか。

 

複数の新聞を読んでいますって言うと、なんだかちゃんと働いているっぽい。普段の発言を見て、僕を単なる変態バカだと思ってたヤツ、どうだ。毎朝、新聞とって読んでるんだぞすごいだろ。もっと崇めてもいい。

 

で、そろそろタイトルに戻ろう。毎日こんなん読めるか、クソ。と思い始めていた訳だ。持ち歩くにもサイズは微妙、情報量は過多。社会人として新聞に慣れなければいけないのは分かっている・・・いや、ちょっと待て。なんで読者であるこっちが合わせねばならない。「新聞文化」に寄り添わねばならない。

 

そんな矢先に、昨日10月15日の某読売新聞社説を読み、溜まっていた鬱憤が漏れ出した為、こんな文章を書いてしまっている。

 

・「若い世代の羅針盤でありたい」

この10月15日からどうやら新聞週間らしい。そういうことになっている。それらしい淵源の説明でも書こうかと思ったが、リンク先飛んで調べても「なるほど、分からん」だったので、まぁ、新聞購読に関する標語を決め、全国的に業界団体で会を持つ週間だということだ。

新聞週間、春の新聞週間|日本新聞協会について|日本新聞協会

 

先に挙げた昨日の社説では、新聞週間ということで「若い世代の羅針盤でありたい」と見出しに掲げ、今年の標語に触れながら新聞の価値を説く内容だった。「若い時に新聞を読むことで、広く社会に目を向けるようになった人は少なくあるまい」と。

 

まぁ、こんなとこで言うまでもなく新聞というオールドメディアに対する批判は各所で既に挙がっているし、過去にも色々書いてきた通り世代間論争となるだけ、という話かもしれない。

 

ただ、見出しで掲げた「若い世代の羅針盤」たる新聞が、実際若い世代を向いていないのではと僕は思った。こんなアラサーで思うのだから多分僕よか下の世代は余計感じていることだろう。いやむしろ、感じてすらいないかもしれない。

 

この社説からは「大人になったら新聞は読むもの」という、下の世代が徐々に大人の常識に合わせてくるはずだという楽観視を持っている印象を受けた。だが、それは今の新聞にとって消し去ったほうがいいモノだと思う。それほどネット普及以降、情報に関する常識は逆流している。

 

2016年、仮想現実や拡張現実という単語が日常会話になった今ですら。新聞がその連綿と続く文化自体に胡坐をかいているように思えたので、その違和感を挙げていきたい。

 

・「情報摂取量」に対する不感

最初にも言ったが、毎日この文章量は読めない。そう思った。ここまでインターネットによる情報提供が可能になった世界で、1日に我々が摂取出来る情報量は過去に例を見ない。そんな中、毎朝届くこの情報量自体が「新聞だけで事足りるでしょ?」という押し売りに思えて仕方ない。

 

また、新聞が紙媒体を採用している時点で号外でない限り「速報」を提供する媒体にはなり得ない。これは既にテレビが生まれた段階でそうだったかもしれないが、新聞は常に第二報の扱いとなる。確かに、僕らが小さい頃なんかは「テレビでニュースを知り、新聞で深く読め」みたいな事を言われた。

 

時間的な尺があるテレビよりも、紙面の方がより情報制限は少ない。細かな情報をしっかりととらえることが出来る、というのは的を得た考えだ。しかしながら、時代はその制約をも乗り越える。

 

インターネットにおける情報掲載の容量は実質無制限だ。それでいて映像も併せて提供出来る。その上こんな文字書き気取りの素人すら長々文章を書ける。その力はやはり圧倒的だったらしく、各新聞社は当然のことのようにウェブ上の自社サイトにて断片ながらニュースを掲載するようになった。先の「情報に関する常識が逆流した」顕著な例だと思う。

 

朝からあの情報量を読者に投げつけること自体が、無理のあることになってきているというのは、確かなことだろう。休日なら別だが、平日の仕事の合間にこのインデックスもない新聞をまじまじと読むというのは、厳しいものがある。

 

・レイアウトすら疑問に思う世代に対して

話は少し変わるが、現在のアラサー付近の世代は、学校の設備にもよるが小学校の頃にWin95の洗礼を浴び、そして当然のことのようにIEがインストールされている世界を生きてきた。中高生になるころに動画サイトが生まれ、一般のニュースもネットで見るのが普通となっている。

 

要するに今の20台は、新聞をじっくり読むという文化にそもそも触れていない可能性の方が高い。ただ、社会に出れば未だに「今の若者は新聞から離れている」言説だったりを耳にすることもある。だが、離れるも何も僕らはくっついてすらない。ずっと平行線のままだ。

 

その為、冷静になってみると、あの縦書きで見出しが乱立し、不必要に文字列が埋まったレイアウトすら、積極的に受け入れる必然性がないことに気づく。改行してどこにいくんだこれ。みたいな。

 

上の世代の中には情報過多や情報速度に関する批判に頷いても、このレイアウトは放しがたいという人は多いことと思う。それほどに見た目というのは大切なものであり「横書きのほうが楽」という意見には反発する人が多いことが想像できる。

 

ただ逆も然りで、毎朝届く過多な情報量、そしてそれを敷き詰める現在のレイアウト。それに拒否感を示す世代は最早いる。

 

「そんな疑問を抱くのはネットの文化に馴らされすぎたせいだ!日本の文化が廃れる!」という反論も聞こえるが、情報を受け取る側の選択肢は増えている。そんな中、情報提示のあり方やデザインを見直す必要はないと言い切れるのだろうか。

 

時代というのは恐ろしいもので、批判対象すら自ずとすり替えていく。批難されるべきは「新聞の読み方を知らない若者世代」でなく「ネットがメインになる情報文化に合わせられない新聞」を徐々に排斥にかかっているように感じる。僕は少なくともそういった感情を持った。

 

・モンスター消費者の要望

ここまでうだうだと愚痴を書いてきたが「紙媒体でオールドメディアの新聞は滅びる!はい既得権益お疲れ様!この話は終了!」という結論にはならない。なんだなんだこのわがままクソ野郎、という感を受けるかもしれないが新聞文化自体は貴重だ。

 

まず、新聞は紙という現物で毎朝家に届く、そこに一番の価値があると思う。その流通網、仕組み自体が他のどのメディアにもマネが出来ないモノだ。

 

いや何故紙が必要なの?という問いには、その文脈を固定できる点にある。ネット上の文章は、各種SNSでも見て取れる通り種々の報道文が容易に切り取られ、見出しの「パワーワード」のみが歩き出す。そうすると、言いたい事も徐々に曲がっていくし、それだけを見て情報を得ていく人もいる。

 

紙媒体に落とし込むことは今の時代、情報文脈へのロックなのだと思う。字面でなく文章として読む人に届けられる。正直言えば自分自身、ネットでの発表にせず同人誌を作り続けた意義もこれだ。

 

そして、新聞社の存在意義として過去から今も叫ばれ続ける確かな取材に基づく「情報の保障力」は、確かにネットにおける玉石混交状態の比ではない。基本的によっぽどのバカ発言や犯罪予告でない限り放置される人らとは、情報発信の責任の重みが違う。

 

こんな与太記事を書いているが、新聞社やそこで記事を書く人になんら不満もないし、逆にそうした仕事をすることへの尊敬さえ抱く。そして紙面を見れば、大きな収入源たるスリム化しづらい広告の存在も理解できる。そして特集記事もそれぞれ興味深い。いや、毎日読みたいのだ。だからこそ、時代の形に合った情報発信をもう一度検討できないものかと僕は苛立ったのかもしれない。

 

ラテ欄も要らない、速報的な報道も要らない。そんな量もいらない、サイズも出来れば小さくまとめてほしい、ネットにできることはネットに投げてしまって欲しい。コンパクトなオピニオン誌のような。そんなイメージだろうか。

 

新聞製作の内情も知らない素人が勝手なことを宣っているのは分かっている。ただ「若者の羅針盤」というお題目を掲げるなら、もう少し過去を「ぶっ壊す」姿勢もいるのでは。そんなモンスター消費者の欲求をどうも今年の新聞週刊のド頭に抱いてしまったわけで。この時点で僕は罠にまんまと引っかかっているのかもしれない。長々とすみませんでした。