わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

承認欲求の向こう側

11月も終盤、いよいよ冬本番というのに鬱陶しい雨が続く。日曜日の夜ということもあり、非常にずーんとした気分に襲われる。週明けに控えているタスクを想像しては、ため息を吐く。調子が良い時には「ギター弾きたい、絵を描きたい、本を読みたい、文章書きたい、てか人生が足りないんですけど」と無性に欲にまみれて不安になったりするのだが、反転するとモノの見事に「何もしたくない」の一点張りで、人生が不気味なほど長くツラく感じる。

 

「それって躁鬱なのでは」と言われる前に自分でも思ったので、前々から診療内科に行き比較的軽いお薬を頂いて、躁がなるべく来ないように安定的な気持ちを保つ努力をしているわけで。それでも所詮は気休めプラスアルファくらいなもので、基本的には自助努力にてこの人生のツラみと向き合うしかなくなる。なんでこんなにモチベーションが下がってるのかについてぼんやり妄想していく。

 

・ゲーム二周目のモチベーション

この前NHKの『ニュース深読み』という番組の「長時間労働」についての特集の折。働くモチベーションについてこんなことを言っていた。「最近までは物欲に指標があった。三種の神器なんて言葉もあるくらいで、生活にこれを揃えるんだという消費意欲は働くモチベーションにも繋がった」と。

 

なるほど、ゲームもそうだけど「何したらクリアになるの?」というルールくらいはあった方がいいということで、戦後以降、テレビや車や最近ならPCという具合に獲得すべきアイテムは比較的明確になっていた。それに比べて今という時代はスマホタブレットなんかが標準装備されちゃった時点で、戦後に比べればもはやプロアクションリプレイ状態。獲得アイテム揃ってるけど、じゃあこのゲームは一体何をするの?って塩梅になるわけだ。

 

そりゃ車だったり家っていうのは勿論いまだに一つのステータスなんだろうけど、都市と地方の差だったり、家族の在り方だって変わってる昨今、その意味合いの変化も大きい。基本的には身の回りの事は、スマホあたりの標準装備で不便なくこなせるし、むしろその維持費にコストがかかるため、次の消費行動にも移りづらい。その上、親世代にも資産がなければたんまりと奨学金という学生ローンも抱えているわけで。アイテムは揃ってるのに、首は回らない。なんか不憫だ。

 

・承認欲求という現代のクリア基準

ここまで書いてると、そりゃ生きるモチベーションを持てって方が難しいよねって事に気づいてくる。そこで我々世代が生み出した新たなゲームクリアのルールこそが、承認欲求なんだなと思ったわけだ。オプション装備で生活上不便はしない、けど上記の通りガッツリ買い物はしづらい、そんな板挟みの中で、手軽に金もかからず、所有欲に替わる快楽を得る。いい感じのソリューションを見出したわけだ。

 

スマホ同士の社会の中で、モノを持つことよりも「チヤホヤされる」事が重要視され、しかもそれが数値化でき、ある程度周囲との差も見いだせる。まさにそこに真向勝負を仕掛ける人もいれば、逆に冷ややかな目で見ることで自我を保ったりとバリエーションは豊か。なんにせよその場で行われる承認のやり取りは、これまでのモノをゲットするという行為より迅速かつエキサイティングだ。

 

ただ、このゲーム。過去と比べると最大の欠陥がある。完全なミッションクリアはなく、ゲームから降りなければ永遠に続くペナントレースになるという点だ。「SNS疲れ」なんて言葉も過去に聞こえたが、そりゃそうだ。終わりがないゲームを続ければそりゃ疲れる。当然「SNSはゲームじゃない」「単なる情報発信ツールだ」「自己表現の為の」みたいな反論もある事だろうが、おそらく中高生から今のアラサーくらいまではSNSの数字に、過敏に反応する感情はどこかで持ち合わせていることだろう。

 

ポケモンGO』の流行も基本線はこのSNSの仕組みと同じように思える。ようやくここである程度の層のユーザーが赤~黄までのMAXのポケモン数をゲットし終えたところで、これから金銀から更に爆発的にポケモンを増やしていけば、きっと終わりのないソーシャルゲームの様相を呈するだろう。RPGとしてストーリーがあったこれまでの『ポケモン』ではなく、完全に他者との「数」勝負となったソーシャルなゲームの代表格として、その質を変えてきている。

 

・「ゲーム」に抗う意欲が欲しい

ここまでぼんやり考えてきたら、もはやこの問いは「モノが飽和した現代はどのように生きていけばいいのか」という問いに直結している事に気づいてくる。モノが溢れたなら、人からの承認を得ればいいじゃない、と。それで所有欲の空白を満たせばよい、と。確かに人間なんて所詮は人との関連性の中に生きる生き物なので、承認欲求というのは生存する為にあるべきものだし、否定すべきものでは決してない。それをモチベーションとして、ネット上においてより明確な形で過去にないほど活用しているのが現代の姿だ。

 

ただ、それをゲームの基準にしちゃうと、やっぱしなんだか虚無い。いろんな人が認めてくれるモノ、事を創った、言ったもの勝ちという訳だ。まぁ、チヤホヤもされる。気持ちも良い。でもじゃあ、その色んな人って誰なんだよ。ってふと思う。共感を得ること、見知らぬ誰かの評価を得ること、そこからスタートしてしまうと、なんだか凄く目的と手段が逆転してる気がする。

 

本来この広大なインターネッツという空間においては、突出した人がこれまでのアナログ時代じゃあり得ない出会いをすることで、より良い作品が生まれ、大きなムーブメントになるということに期待感があった。面白味があった。しかしながら、先にも言った通りその前後が逆転してしまうと、基本線知らない誰か「みんな」のうっすらとした期待感、空気の波に乗っかる、エアサーフィンとでも言おうか。そんな承認欲求の波に乗る行為だけが先行してしまうような気がしてる。

 

いや確かにそれも才能なのは確かだ。そこに需要が見いだせて、きっちり発信できるのはすごい。しかし、自分の承認への期待が先に来てしまうとそれは多分、尖りきらない。つまらない。結局うだうだ言ってるけど、僕が何を言いたいかっていえば、この今自分が抱いている虚無感というのは、自分としても面白いことなんか言えそうにないし、じゃあ手軽な画像とか上げて「いいね!」を稼いでいい気分で布団入って眠ろうか、という思考が過ってきて、それが嫌でしょうがないからここにわざわざ吐き出しているまでだ。

 

安易にこのゲームシステムをクリアしようとしてる頭を一度本当に叩き潰さないと、もう何をやっても意味がない気がして。一度、リセットして月曜を迎えるべきだと思った。完全に独り言なので、誰かに伝えるってことでもないのだけれど。単純に考えすぎなのは分かってはいる。根暗な話ですみませんでした。