わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

自分の事はクソだと思っても、周りよかマシだと思ってる

12/28、弊社は今記事を書いている今日で仕事が納まった。大方の社会人の皆様も今日か明日で年内の業務は終了するだろう。まぁ、いろんな職種の人がいるので一概には言えないのだが、ある程度の年末挨拶等も終え、いよいよ年越しを迎える、という感を受ける。

 

もし貴方がオタクであれば明日から冬コミ本番。待ったなしの戦場が目の前に繰り広げられるわけで。僕自身も一応3日目にサークル参加する身として徐々にその実感が沸いているそんな年の瀬真っ只中。年内の最後の記事として全くコミケには関係のないことを書くつもりだ。先日ふと思いついた「他者と比べることなく自己肯定するにはどうしたらいいの」ということについて、出来る限りシンプルに書き残して本年のぼやきを終えたい。

 

・「自分への絶対評価は低いが相対評価は高い」

年末の挨拶でバタバタする今週。ふと通勤の電車の中でこんなワードが頭を掠めた。何もこんなウキウキするシーズンにクリティカルな自責などする必要もないのだが、突如頭めがけて飛び込んできたのだから仕方がない。

 

僕自身もともとメンヘラ感がある人間の為「自分って駄目だなぁ」とかそんな事をよく考える機会は多い。仕事の内容から、人とのコミュニケーションの所作、あるいはプライベートにおける振る舞いまで。何かと「何故こう上手くできないものか」と自問する機会というのは、日々を生きている中で多々あったりする。それが積もり積もると、いい塩梅に「落ちる」。こんなダメ人間って他にいるんだろうか、とか。所詮こんな人生なんて価値がないんだろう。とか。こんなメンヘラだけでなくこうした内省は基本的に誰だってあることと思う。

 

その中でもおそらく僕は頻度も高めだと思うのだが、ふとそういう気持ちを紛らわす為、自己防衛的に引き合いに誰かしら知人だったりを思い浮かべ「でもこんなヤツよかまだマシだよな」「あいつよかコミュ力はあるよな」とか思ったりする。普段はそういう気持ちすら無意識的に働いてしまうので、特段その流れを気にすることもなかったのだが、改めて自分の心の動きを見つめなおした際、見出しの「自分に対する絶対評価は低いが相対評価は高い」という逃げ場のないワードが捻出されて「うっ・・・」となったわけだ。

 

要は「人と比べることでしか自分の価値を見いだせないクソ野郎じゃねえか」ということで、またしばらくネガティブ内省を繰り返し、苛まれていたのだけど。ふとじゃあ逆に。人は自己肯定というものをどのように行うべきなのか。それを真摯に考えてみようという思いになったのである。そして多分だが、いろんな人と話をしていると掲題のように「自分はクソ、でも周りと比較すると」と自我を保っている人って、自分以外にも結構いるように思えた。あくまでも純然たる自分への肯定って、難しい営みなんじゃないかとそう感じたのである。

 

・スコア競争は所詮、相対的な自己建設でしかない

ふと考えると、これまでの学生から社会人の中で。基本的にアイデンティティや自己肯定感というものは相対評価によって構築されやすい。例えば学力。テストで良い点を取り、自分は頭がいいと自負する。当然のことながら点数はあくまでも相対的な評価軸の中での得点である。「偏差値」なんて言葉からもわかる通り学生の頃に競争の種となった「学力」は相対的にその人物の知能を測るだけの機能しか持ち得ていない。なので、そこに自己肯定感を持ち込むと、必ず自分よりも低得点者の存在が必要になる。だって、みんな100点のテストで100点を取ったところで「俺ってすごい存在かも」とはならない。自分よか低得点の人がいるからこそ「俺は特別な存在なのでは」「他者とは違うんだぞ」という感慨を得ることが出来る。

 

わかりやすい例として学力を挙げたが、運動能力でも芸術でもそうだろう。「誰かより勝っている」「だれかより優れている」そういう発想というのは自分自身の存在以上に、自分より劣っている誰かを基礎として成り立つものである。それは社会人になれば年収だったり結婚だったりといわゆるステータス化しやすい面で目立ってくる。

 

ただ、それを批判しようにも他に自分が他者と比べて特別だという区分をする為の物差しは確かに見つけづらい。それどころかグローバル化も久しい現代社会においては、平均年収は下がり、人口も減少が当たり前、経済状況も「持続可能な低成長」を目指すという中で自己を顧みたときにただただ「社会の歯車」っぽさが強く感じられたりもする。よりスペシャルな自分像をクリエイトするよりも、下を見たほうが自己肯定も基本「俺はまだマシだ」という我慢で済むし、確実に自己建設が可能となるいうのもわかる話だ。

 

・人を褒めよ、励ませよ

夢も見づらい、何をしても特別にはなれない。学力や年収、結婚や子供そうした目に見える「ステータス」でしか他者との区別を図れない現代。僕らは相対的なもの以外に、何によって自己肯定感を得るべきなのだろうか。「自分ってクソだな」というスタート地点からそれを脱却する為には何をすべきかという考えが、意外と難しい問題なのだということが分かってきた。

 

しかしながら、そうは言っても最終的に答えはシンプルなモノに帰っていくと気づく。やはり自己肯定は他者を媒介にしない限りなかなかに成り立ちにくいものだと思う。それこそ、自分の好きなものをとにかくやりこんで他者も関係なく「ここに価値あり」と宣言できる人というのは、かなりの稀有なケースであろう。それは完全に一つの才能である。そうでない人にとっては「誰かに影響を与える」ということは大きな自己認識の糧になると僕は思う。

 

言ってしまえばそれは承認欲求の異名である。何かと最近悪者にされがちな承認欲求だが、それは「あいつよか俺のほうが認められてる」という相対的なモノに浸食されているから、どうも歪んでくる。SNSで拡散された数字を競うのも、基本的には先述した学力のケースと変わらない。いびつな競争原理のみがその欲求を支配してしまう。ではそれをどう捉えなおすべきなのか。

 

承認欲求を正しく働かせる為には、価値の基準を「人に良い影響を与えられたかどうか」に置き換える必要がある。例を挙げるなら「人より速く走れる」事のみを自意識に置くのでなく「人より速く走って、それを見ている人に勇気を与える」というような具合だ。その事象のみでなく、それが人にどのような好影響を与えるのか、そこまで深く考えられる人は絶対的な自己肯定感もそれだけ強まるものと思う。

 

「そうは言ってもこれといって特技もないし出来ることもない」「感動を与えることも出来ない」というかもしれないが、そこで見出しに挙げた「褒めろ、励ませ」という行為が重要になってくる。ツイッターなんかでもたまに「コミケ後、同人誌のレビューを呟いてください。それが絵師にとって次の本の貴重なエネルギーになります」という発言が拡散されるのを目にする。その通りなのだ。誰かのふとした一言で、人はおおいに元気を得たりする。自分の矮小さを嘆いたとしても、その矮小な人の一言は大きく響く場合もある。

 

褒めること、励ますこと。それは人へ強い影響を与える。そうした相互扶助の姿は「自分より劣った誰か」を探す構図ではなく「誰かをエンパワーメント出来る自分」の存在を発見できる唯一の道程であろう。僕らはこのネット社会で、思わぬ人と繋がれるようになった。作り手本人に直接エンカウントする機会も増えたことだろう。その時に「この人より自分はクソなんじゃ」と卑下するのでなく、その人を素直に褒め称える自己を持つべきなのである。そうすることによって、自分もその創作の一助になり、また自身の価値もそこに投影されていく。

 

非常に理想像的発想であることは分かっている。いろんなところに嫉妬は渦巻くし、自分よか下を見ることで安心する人間の心は太古の昔から恐らく変わらないものだ。ただ、自分の価値をしっかりと見るためにも、良いものには良いといい、また落ち込んだ知人には手を差し伸べる。そうする事で、きっと乱反射的に自己肯定は増殖する。過去にないほどコミュニケーションが複雑化する現在社会であるからこそ、こうした基本的な他者媒介の自己形成の姿という発想は、非常に重要なものだと感じられたのである。

 

2016年ももう終わるけど「情けは人の為ならず」というか。最近本屋に行くと「自分を見失わない為に」とか「メンタルを強く持つために」とかそういう新書もすっごく増えてきて。目次を見ると「気にしない」「自分を貫く」という強硬派の意見ばかりが目立つのに対して。他者をしっかりと気遣える、その為に自分の意見を言うというような相互扶助をベースに、自分の価値を見出すことも大切だろうと感じたのでこんな与太話を年内最後にしてしまった。とりあえずいろんな人が、よりよき年末を過ごし、よりよき1年を始められるよう祈って。