わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

堀江由衣ツアー「文学少女倶楽部」に行ってきて嗚咽し続けた話

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おっさんの自分語り多めなのとセトリバレもあるので注意してね。

これまで自分のオタク活動を振り返れば、きっかけは大抵、堀江由衣だったのだと思う。初めて買ったアニメ関連CDは『ほっ?』だったし、最初に定期リスナーになったアニラジは「堀江由衣の天使のたまご」、最初に行った声優ライブ、入ったファンクラブも黒ネコ同盟だった。オタクとしての経歴だけでない。このブログを「はてな」に移して最初バズり、文章を書こう!と気合が入ったのも「堀江由衣プリキュアを演じること」というエントリがきっかけだった。何かにつけて(オタクとして)前に進むときには「堀江由衣」という声優がそこにいたのは確かだった。

 

・7年ぶりの「現場」ゴルフコンペを断る

そんな過去からの思い出に浸ってばかりいてもしょうがないので、そろそろ現在の話を始める。12月15日(日)大宮ソニックシティホールにて行われた堀江由衣のライブツアー「文学少女倶楽部」に行ってきた。

堀江由衣 LIVE TOUR 2019 文学少女倶楽部

 

社内のゴルフコンペとモロに重なり参加も危ぶまれたが、幹事である上席に勇気を振り絞って「参加できません」と返答。案の定呼び出され「なんだ、結婚式か?二次会じゃねえだろうな」と問い詰められたものの、正直に「中学時代から推しているアイドル声優のライブツアーに、7年ぶりの参加なんです」と真っ向勝負。まぁすげえ微妙な顔してたけれど、自分が見せるべき漢気は見せた。先方の心象なんか知らん。こちとら7年ぶりなのだ。周期を考えれば五輪の騒ぎではないし、次がある保証もない。

 

この夏に新作アルバムである『文学少女の歌集』を発売し、そのタイミングにて発表されたこのライブツアー。その報を受けた瞬間の感情をよく覚えている。言ってしまえば、その知らせを聞くまで堀江由衣のライブはもうないと思っていた。思えば彼女が17歳になって20年強。何を言っているのかわからないかと思うが、自分でもよくわからないので穏便に流してほしい。

 

ほぼ同年代、空中に吊られながら腹からCD音源でおなじみ水樹奈々氏を見ればわかる通り、ひとつのライブを貫徹する為には鍛えあげられた肉体が要る。そう、ライブって大変なのだ(小並感)。引き合いとして出した水樹氏は極端な例にせよ、普通のアーティストでも歌いながら、踊り、それを2時間あるいは3時間継続する。普段カラオケで騒いで疲れてすぐ喉痛める我々一般人感覚からすれば、並外れたものだとわかるだろう。

 

堀江由衣に関しては、前々からそもそも体育会系でもないし、ライブにおける運動量もそこまで多いほうではない。そろそろ大々的なライブはもはやキツイのでは。と感じていた中での発表だった。「これは歴史の証人になるしかない」高確率にチケットを入手するため、ここからのFC加入も考えたが、今はコルホーズの玉ねぎ畑一本・・・堅気な性格が邪魔をし通常先行にて応募。(捻じ曲がった)思いが通じたか、何とか大宮ソニックシティ公演のチケットは入手することができた。

 

・人は嗚咽し続けると死にかける。

ライブ当日。既に14日の初日に行った友人と現地で落ち合う。話を聞けば「アニメ関連ライブで過去最高」「近年稀に見る偉大なライブ」「お前は絶対泣く」などと僕の顔を見るや否やあの頃のボージョレ並みの賛辞の嵐。

 

いや、確かに楽しみにしてきたわけだが、ここまで持ち上げられると逆に訝しむのが面倒なオタクの性である。「おいおい、そんな期待値上げられたら、泣けるものも泣けなくなるだろ。流石にもう我々大人だからな」と宣言して、延々薄ら笑いを浮かべる友人たちを横目にいざ会場へ。

 

まず衝撃だったのが、生バンドである。ファンならおなじみだが堀江由衣はバンド演出をまずしない。(1stツアー以来)過去何があったんだというほど、今までのツアーでもバンドによるライブは見ない。その時点で高まる期待。なるべく情報を遮断して来たため、前日セトリもまるで分らない。ただ基本アルバム発ツアーというわけなのだから、アルバム曲が主体だろう。そう準備した自分が完全なる間違いを犯していた。

 

早速ライブ開始。冒頭は新アルバム収録の清竜人楽曲『春夏秋冬』、真っ当かつ今回ツアーのコンセプト楽曲にひとまず安心しながらその姿に見惚れる。5月にも清竜人ハーレムフェスタ(イベントレポ参照)にて、この曲を聴きつつ正気を失いながら叫んでいたのが懐かしい。さて、少しずつエンジンもかかり始めた堀江御大。どの辺りでブーストがかかり始めるだろうか。とこちらが身構える間もなく、2006年リリース『ヒカリ』いやいやいや。冒頭2曲目、すぐ13年前のアンセムやっちゃうの。え?ウソでしょ。元来4つ打ちの気持ちよさが売りのこの曲、生バンドをバックにしたことで更に洗練されて聞こえる。実質アンコールかよ。と脳内でツッコミを入れるも、すでに目頭が熱い。ワンサイドゲーム確定な感も否めない。

 

一旦呼吸を落ち着かせて、次の曲に備えた刹那、すでに膝から崩れ落ちていた。2006年のライブツアー「堀江由衣をめぐる冒険」ではラスト楽曲として演奏された『笑顔の連鎖』だ。何を隠そう、僕が最も敬愛するアニメ作曲家、故・岡崎律子氏作曲の本作は最大のお気に入り曲で「これが聞けたら今回は死んでいいな」と思っていたところに、トドメが入った形。3曲目でもうトドメなのだ。殺す気か。泣くならまだしも、呼吸がままならない。ただ、こんなところで死んでしまっては、ライブに来た甲斐がない。まだだ、まだ終わらんぞ。

 

終わった。いや終わったね。端的に言えば、その4分後に終わった。そしてその5分後くらいにも、また終わった。4曲目は初期の名曲、12人の妹が突然できる系アニメの主題歌『Love Destiny』から、5曲目まさかの2000年の人気曲『桜』である。おっさん、完全に嗚咽。声が漏れそうでタオルを齧る。隣の人の心配そうな目線が刺さる。一体自分でもいつからこんな情緒不安定になってしまったのだろうと心配するも、全部堀江由衣が悪い。いや、キングレコードの三嶋さんが悪い。

 

ライブレポとしては、嗚咽し続けて酸欠で死にそうになり、以後少しずつ記憶が遠のいているためこのくらいにしたい。(最後はフラフラなまま会場を出て、会場に家の鍵を落とし、さっき大宮の交番まで取りに行ったほど)

 

堀江由衣御大が今回のツアーを称して、14日は「近年稀に見るライブ」と呼んでいたらしいが、15日になると「今世紀最大のライブ」に変わっていた。あぁ、納得だよ。確かに今世紀最大だわ。あんたが大将だよ。薄れゆく意識の中で僕は、彼女のパフォーマンスをひたすら泣き顔でスマイルを保ちながら眺め続けていたことだけははっきりと覚えている。

 

・アイドルとしてステージに立ち続けることの凄み

こっから少し内省。この年末のコミケで10年ほど続けた自身の同人誌発刊を最後にした。一応やりたいことの区切りがついたということもあるが、正直何か作り続けることに自信を失っていたのが正確なところだ。またこのブログも「果たしてこんな行為自体に意味があるものなのか」と自問しているうちに、何も書けなくなっていた。

 

今回、堀江由衣ツアーライブに参戦して。諸々の感情を背負いながら、2016年に少しだけバズった「堀江由衣プリキュアを演じること」という自分のエントリを久々に覗いた。完全に言ってることはバカみたいなことばかりだし、結局熱量だけで前後編にわたり長々と堀江由衣への愛やら妄執を語っているだけなのだ。でも、僕が本来書くべきことというのはそういうものだったのかもしれない。

堀江由衣がプリキュアを演じる事について(前編) - わがはじ!

 

中学時代。オタクになりたてだった僕は、麻疹みたいなもので、ほぼ1週間すべてのアニラジを聞き通していた。その中で透明感ある声と、ちょっと変なキャラクター性に惹かれ、堀江由衣という声優に対しておそらく恋をした。いや、もう完全に痛々しいキモオタの述懐なのだけれど、それは事実だから仕方がない。様々な出演作を見て、ラジオや音源を何度も聞いて、ライブ現場に足を運び、部活動や受験勉強で折れそうだった時、何度助けられたか分からない。

 

そして、昨日。7年ぶりに見たステージ上。堀江由衣はあの頃と変わらないクオリティを保ち続けていた。それどころか、ダンスも歌も凄みが増しているように見えた。完全にやられた。15年前、いろんなメディアを通して励ましてくれた人に、まさに目の前でその時と変わらぬパフォーマンスを見せつけられ、感動をしてしまっている。三十路を超え、社会の様々な事情のなかで、徐々に自分を引っ込めにかかっていた自分が恥ずかしく、情けなくなった。それと同時に本当に嬉しかった。

 

年月が経ち、堀江由衣を好きだ、という純然たる気持ちは変わらないものの、それ以上に「彼女に負けないよう頑張らねば」という感情に変わってきたように感じる。そう思うと、3時間弱。そのありがたみに涙が止まらなくなってしまった。

 

・生まれ変わることはできないけれど、変わってはいける

ライブ最後の定番『CHILDISH♡LOVE♡WORLD』を会場全体で歌い上げ一旦の終幕。アンコール枠で再登場した後、まさかの曲を歌った。「自分の曲ではないけれど」と前置きしてから暗転。観客が自然と席に座る。ステージ中央にスポットが当てられ、流れるイントロは岡崎律子作曲の『For フルーツバスケット』だった。

 

堀江由衣ボーカルver.は、2003年リリースのキャラクターソングベスト『ほっ?』に収録されており、当時の僕はこの曲に完全に魅入られた。これがきっかけで岡崎律子という作曲家も知ったし、そこから数珠繋ぎ式に様々な作品あるいはアーティストに触れた。ある種、僕のオタクとしての原点のひとつがこの曲なのだ。ソロライブにおいて生で聴けるとは思ってもいなかった為、案の定この日6度目くらいの嗚咽を何とか耐えつつ鑑賞。

 

約3時間。本当にいいライブであったのは間違いない。ただ、僕個人としては遥かにそれ以上の意味を持ってしまったライブだったと言える。冒頭掲げた通り、様々な「きっかけ」を与えてくれたのが、堀江由衣という声優だった。今回、何かにつけて色々なことから遠ざかろうとしていた精神状況の中で、この曲のサビの歌詞が改めて身に染みた。

 

「生まれ変わることはできないよ だけど変わってはいけるから」

 

自分の嫌なところも、案外悪くないと思うところも、リセットすることは出来ない。才能の有無を嘆き、周囲の環境によって流され、何かを諦めていく。過去何度もこうした葛藤の中、結局踏ん張れてきた。それは、恐らく自分にとって大切な歌や、推しがいたからなのかもしれない。今回、再び。様々なことに対して内心の芽が萎みかけていたところに光が当たった心地である。陰気なおっさん声豚が、長年の推しに対して、静かに、そして深く感謝を抱いてしまったという話でした。

 

 

長くなるとは思っていたけれど、少しだけ長くなってしまいました。そして、痛々しい内省をさらしたわけだが、幾分か気分はスッキリしているもんですね。まぁ、引き続きこんなことも書いていこうと思うので嫌いにならないでください。

冬コミC97新刊告知 シリーズ最終巻『ヒトとケモノとものがたりと』 

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いよいよ「'00/25」シリーズ最終巻になってしまいました。

本ブログもいつ以来の更新だろうという話。確実に格ゲーのやりすぎですね・・・ただ、そんな中でも、ちゃんと冬コミ新刊は作っていたのです。マジでえらい。早期入稿常連勢として、入稿はもちろん終わり、そろそろ印刷も済み、今回も無事新刊を用意することができそうです。ここで本対談雑誌シリーズも第10弾を迎え、いよいよ最終巻となります。ということで、表紙もアビーロードパロにしました。

 

毎度ながら、僕の身勝手なわがままに付き合っていただき、対談参加者も最後にふさわしい豪華ラインナップでございます。詳細は下記の通り。

 

・タイトル 「'00/25(にじゅうごぶんのぜろねんだい)Vol.10  final issue」

 特集:ヒトとケモノとものがたりと ~Where do we go from here?~

・ジャンル オタクとフェチ、ケモノとヒトと物語を考える対談雑誌

・サークル わがはじ!

・参加日/スペース 12月30日(月) 3日目 南ホール ム28-b

・予定価格 ¥1,000(総ページ数108P)

編者ツイッター:すくみづ https://twitter.com/suku_mizumi

 

2010年から続けてまいりました『'00/25』(にじゅうごぶんのぜろねんだい)というサブカル対談雑誌ですが「10号までは続けるかー」と以前から思っていた通り、本作その節目を迎えたため最終号としました。そして「せっかく最後なんだし、とことんこじらせてやる」と意気込んだ結果、サークルカット「ヒトってなんだ(仮」という仰々しい特集予定を書いてしまい、自分でも方向性を見失い、途中大変なことになりました。

 

ただ最終的には、協力いただいた皆様のおかげもあり、ケモノやオタク、そして創作という話題からきっちり「人とは何か」という疑問に近づけたのではないかと思っています。現状、なんとなく生きづらかったり、ふとヒトという存在に疑問や虚無を抱いたり。そんな人に読んでもらえれば、恐らく元気の出る1冊になったのではないかと思います。

 

ということで今回の対談ラインナップの紹介です。

 

佐藤東弥(ドラマ・映画監督) Twitter : @touyasato

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テレ土曜9時枠のドラマ制作に長年携わり続け、現実にはありえない「フィクション」を具現化させることに 執念を燃やし続ける佐藤東弥監督。年始に迫る『カイジ ファイナルゲーム』の公開を前に、今回はそんな「フィクション」を作ることの本質について、自身の過去を振り返りつつ赤裸々に語ってくださいました。『銀狼怪奇ファイル』の「首なしライダー」の裏話から、『ST 赤と白の捜査ファイル』の真意まで。また、着ぐるみ界隈やキャラクターショーといった話題にも触れつつ、他ではなかなか読むことのできない対談となっています。特にモノづくりに携わる人は必見です。

 

 

 ②岸本元(仏教専門紙記者・ケモナーTwitter@bowwowolf

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仏教専門紙で記者として働きながら、プログレッシブロックに精通、80~90年代漫画にもめっぽう詳しく、そして完全にケモナーである岸本元(きしもとげん)氏を招き「仏教とケモノ」という観点から対談を行いました。岸本氏が幼少に目撃したエゾシカのホモセックスを切り口にしつつ、動物が多く登場する仏教説話集「ジャータカ」を紐解きながら、当時のケモノ表現はどんな存在だったのかを考えます。更に、昨今のペット供養の話題にも踏み込み、結構強めの下ネタを交えながら、宗教と人と動物の関係性について改めて考える試みとなりました。耐性は要りますが、読み応えは確実にあります。

 

 

伊藤恵夫(美術解剖学生命科学等非常勤講師他) Twitter@itou_da

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女子美術大学を始めとし、多くの大学そして学会、時に大怪獣サロンで美術解剖学生命科学を教える伊藤恵夫氏。「波打ち際になぜカエルがいないのか」など、人間のみならず動物全般の進化に対する興味を軸に、様々な生き物やその生態について豊富な知識量を持ち、多方面から骨の専門家として知られています。そしていつしか付いた通り名は「骨の伊藤」。今回は、その「骨の伊藤」がどのように成り立っていったのか。ルーツにある好奇心と、それに紐づく「オタク心」を伺ってみました。その一言一言からは、徹底した好奇心から生じる「面白さ」と、日々疑問を抱く大切さを改めて教えられます。

 

 

④まんぐ(ケモノ文化、社会学研究者)Twitter@mangluca

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東大にてケモノ文化や社会学を中心に研究を行っているまんぐ氏。彼が2011年に発刊した『kemonochrome』というケモノ文化やフェティシズムに触れた同人誌を読んで、僕自身このシリーズの作成を開始しました。そういった意味で言えば、僕にとって原点回帰の対談となります。改めてケモナーや着ぐるみといったフェティシズムを通して、お互いの過去を覗きながら「人が別のものになる」という行為の意味を探ります。また、昨今のケモノコンテンツ群にも触れつつ、今のヒトと動物の距離感を改めて考えてみました。フェティシズムという観点からも興味深い内容になったと思います。

 

 

おたっきぃ佐々木(ラジオ・番組制作者)Twitter@otasasa

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個人対談パートのラストをお願いしたのは、伝説的なアニラジディレクター、パーソナリティとして知られるおたっきぃ佐々木氏。2015年に発刊した『Vol.4 今、オタクであること』において、対談を行ってから4年越しの再戦となりました。4年余りで時代も変わり、昨今、何をもってコンテンツが「面白い」といえるのかが不明瞭な中。改めてサブカルとは何ぞやということを正面切って対談させていただきました。SFすら警鐘にならない空気感において、もう一度、シンプルにオタクであることを考える、本誌らしい重厚感ある対談となりました。じっくりと読み解いてほしいと思います。

 

 

⑥金腐川宴游会(同人サークル) Twitter@kinyuukai

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本誌最後のエピローグとして金沢発の同人サークル「金腐川宴游会(かなくさりがわえんゆうかい)」さんとの座談会を掲載しました。2016年の文学フリマにてお隣に配置されたことがきっかけとなり、親交を持たせていただいている評論雑誌サークルで、そのメンバーの圧倒的なオタク知識量はもちろん、圧巻なのは高校時代のパソコン部がきっかけとなり、20年以上経った今もなお会報誌として本を作っているその在り方。まさしくそれこそ「同人文化」そのものではないか、と感じ締めとしてお話を伺いました。そこから見えるのは、やはり本を作る楽しさ。知識をぶつけ合ってひとつの完成物に至る喜び。同人誌作成という趣味の本懐を、この座談会から感じてもらえればと思います。

 

 

 

以上6つの対談・座談からなる雑誌となりました。最後ということで、これまでの本を振り返るちょっとしたペーパーやらコピ本なんかも作れないか、自分の時間と相談しておるところです。

 

また、既刊としてはC94にて頒布した「Vol.9 秋葉原特集」を持参する予定です。詳しくはこちら。かなりの重厚感ある同人誌となっております。まだ読んでおらず秋葉原に興味関心のある人は、こちらもおススメです。

www.wagahaji.com

 

委託についても、規模は小さいかと思いますが、別途ツイッターなどで紹介させていただく予定ですので、よろしくお願いいたします。

 

更に、最後ということもありますので、来週あたりツイキャスやらYoutubeを使って「わがはじ!Vol.1からVol.10までの9年間を振り返る、新刊告知配信!!」みたいなこともやってみようかなと。詳細についてはやっぱし追々ツイッターで。https://twitter.com/suku_mizumi

 

ということで12月30日。是非、コミケに参加される方は遊びに来てね!!

 
 

絶望とチープさを兼ねそろえた『三体』が問う「知」へのシビアな目線

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kindle版なら『三体』も軽くて済むね



昨今、売れている本と聞いて、真っ先に上がるタイトル。それは劉慈欣(りゅう・じきん)の著作『三体』であろう。現代中国SFの最高峰との呼び声高く、先月ようやく早川書房から満を持して発売された。

wired.jp

3部作ということで、今回その1部がようやく和訳化したわけである。すでにマニアがざわついていた前評判通り、発売と同時にベストセラーとなっている。僕としても「そんな売れてるっていったってSFでしょ?」と斜に構えつつも、会社の後輩から「え、まだ読んでないんすか」と煽られ即購入。正直、海外SFとか詳しくないし、モロ文系のため科学にも弱い。読みきれるのか不安だった。

 

そして本日読み終え。いやー。面白い。素直になってよかった。あらすじというか、序盤の物語の高まりは先に示したWiredの特集ページから覗いてみてほしい。(4章から一部本文が読める)もうね、古典作風でありながら、回想と展開が恐ろしく早く、考証についても高濃度で、かつ、いい意味でのチープさを兼ねそろえた、SF好きにとってはサービス満載な作品。おそらく、本作は今の中国だからこそ生み出せた内容だと感じる。すでに2部、3部の発刊が待たれて仕方ない。

 

読んでて脳内によぎった作品をここに列挙していくと、小説なら『神は沈黙せず』(山本弘)『バナナ剝きに最適な日々』(円城塔)、アニメなら『天元突破グレンラガン』『ザンボット3』、映画なら『コンタクト』『ゴーストシップ』というなんだか、もう中華料理の満漢全席コースみたいなSFでした。まだ1部なのに。

 

ということで、今日はこの『三体』について。ネタバレは極力避けつつ、エッセンスだけを拾って書いていきたい。と言いたかったけど、最後の方はネタバレ気味なので、注意して読んでね。とかく現代中国発のSFが我々に問いかける問題意識や、絶望と希望について素人発想ながら精いっぱい考えていきたい。

 

・「文革」という人類への不信感

冒頭。60年代の中国において起こった文化大革命が最初の舞台となっている。壮絶な内ゲバ。弾圧を受け、時代に翻弄される知識階級。そして秩序的でありながら、無秩序なエネルギーに満ちた中国の描写にしょっぱなから引き込まれる。その渦中、科学者の父を殺され、人間に絶望を抱きだすエリート女性科学者・葉文潔のモノローグから本作はスタートする。

 

この「知」への歪んだ時代の態度が、後々本作における本筋につながっていくわけだが、実際の時代についてはWikiでとりあえず捕捉しておいてほしい。

文化大革命 - Wikipedia

 

いわゆる「文革」と呼ばれるこの運動。多くの学者、科学者を葬り、中国の文化レベルに大きな後れをもたらした社会主義革命として語り継がれている。この件について、僕が何か語れるわけでは決してないが、個人的な「文革」にまつわるトラウマがひとつある。今回、本作を読みながらそれを思い出してしまった。

 

それは、もう10年ほど前の大学時代。英語のほかに第二外国語の単位を取れ、というベタな指導に乗っ取って、授業を受けてみたのが中国語である。今では「私は学生です」と「私は日本人です」という文しか覚えていない。ましてや、現在僕は学生ではないので、全知識の50%が無意味になっている。

 

当時は比較的、授業へのモチベーションもあったもので、前のめりに講義を聞いていたせいか、女性の中国人教諭とも普段から会話を交わすなど良好な関係だった。そして、授業最終日。多少の時間が余ったため、質問コーナーが用意され、各々中国文化や土地についての質問がいくつかなされた。そして僕が、今思えばあまりに不用意に。多少気の知れた関係という思い上がりもあった。「文革ってどういう時代だったのでしょう」という質問を投げてしまったわけである。

 

少しだけ教室の上の方を仰いだ彼女は、一息吸い込み話しを始めた。僕はそれを見て、嫌な予感がした。案の定、その女性教諭の父は学校の先生をしていたらしく、具体的な事案として文革の渦に巻き込まれた一人だった。そのころの話をしているうちに、教壇からは少しずつ上ずった声が聞こえ、しばらくするとそれは嗚咽に代わった。言葉にならなくなったのは、わずか3分ほどだったと思う。話の詳細は正直覚ええていない。ただその時間が永遠に感じるような罪悪感と、自分の無知による浅はかさを思い知ったことが、今でも脳裏によぎる。

 

多少モノローグが長くなったが、今回『三体』を読む中で、最も感じたコアはこのような、文革という時代が引き起こした歪みと人への基本的な不信だ。僕が学生時代に不用意に触れてしまったその「時代」という溝そのものを、再度認識させられるに至った。

 

冒頭でも触れた通り、SFミステリーとしても痛快で、山本弘を想起させるような大胆な展開、そしてミリタリ、コンタクトというSFにおけるチープが本作にはある。それでも文革、そして威圧的な政治が物語の「いかり」として存在し、常に地に足ついたストーリーテリングが維持されている印象を受ける。中国という地の文脈が必然的な重みをもたせているように思う。

 

 

・SFを読むことは絶望を考えること

また、この本の特徴としては非常に時代と舞台が前後左右に広いことが挙げられる。これぞSFミステリーといわんばかりに過去への回想、そして未来への思惟が、中国、世界、そして『三体』と名付けられたVRゲーム世界、またリアルな宇宙という具合に飛び回る。

 

そうすると、否応なしに描かれるのが、時代にただ翻弄される「人間の小ささ」と、結局は自分本位でしか物事を考えようとしない「人間の傲慢さ」である。先の文革という「知」を否定した時代の大きな嵐が収まり、科学や知識が重宝される時代が再度訪れる。しかし、そこでも結局資本主義をベースとした自然破壊が起こってしまう。結局は人間が自らのためにしか行動しない種である、ということが鮮明になった結果、冒頭触れた女性科学者の葉文潔は人間の知性に絶望する。

 

そこで問われるのは、果たして人間の 「知」とは何か。という問いである。時代によってその在り方を変え、結局は自己都合の便宜を図るための道具にしかならない。そのように客観視すればするほど、人間が知性を持つこと自体が絶望的なことではないか。平等的な善を叫ぶ社会主義と、自由的な良心を誓う資本主義の狭間で、結局人の存在自体に疑問を抱く。『三体』では、大きな勢力を含めて考察しているため、SF的な問答に収めているが、フレーム自体を見れば、過去から今の今まで、我々が問われ続けている問いそのものだ。

 

本作を読んでいて思ったことは、むしろ登場人物の絶望に対する共感だ。自分が知識エリートだといいたいわけでもなく、ただただ、この今の日本において純然たる人間として、生きていくことへの希望を持つ要素は、案外少なかったりする。結局「自由」の名のもとに己心が優先され、自分ひとりのエゴへと帰っていく。作中では、そのエゴに対する形で、大いなる主、そして地球外生命体への渇望へと繋がっていくわけだが、その思いが案外、笑えないのだ。

 

SFがSFとして価値を生むのは、そうした現代の疑似装置を使った思考実験だと言える。ふとした日常世界が宇宙につながっていたり、そして日々の落胆が本当の落日を予見していたり。フラクタル、と言うとまた笑われそうだけれども、結局そうした相似的な関係性を見出して、今ある絶望を見つめなおす作業。これがSFの真価ではないかと、久々に本作から感じさせられたという具合である。

 

 

(この後は完全にネタバレます。)

 

まぁ、1部ということもあって、何を言ったところで中国本土の既読勢からすれば片腹痛いのだろうけれども、なんだかしっかりとしたSFを読んでしまった結果、何かしら青臭くとも文章にしたくなった次第である。最後に本作1部のラストシーンに触れて終わりたい。こんな絶望だらけな序章に、ひとつの希望が灯される。

 

進んだ知性と科学力を持つ三体生命から虫けら扱いされた人類。主人公の科学者汪淼が落胆しているところに、同じ組織で警官の史強から、イナゴの大量発生を見せつけられた上で「あいつらは俺ら人間より知性がない。ただ、それでも人間に負けたことはない」と言い放ち、史強は人間の強さを示そうとする。結果、汪淼が再度熱を取り戻す、というこの思わぬ少年漫画張りの「アツさ」に僕もヤラれた。

 

先の知性に対する絶望に対し、生きる強さを示すこと。これは人間として生きることの大きなヒントだろう。絶望はいつだって出来る。すぐそこにある。誰の前にも転がっている。そんなとき、絶望の対義語はもしかしたら希望ではないのかもしれない。むしろただ、強くあること。人間くさい史強こそが、絶望に対する一つの答えなのかも。

 

そんな事をふと考えさせられた『三体』序章。早く続きが読みたくて仕方ないけど、おとなしく待ちます。

 

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先の中国語の授業が終わってから、僕は教諭に謝りにいった。そうすると「もう大丈夫です」と微笑みながら「勉強できるこの時間を大切にしてください」と返されたのを覚えている。歴史とSFは、目の前の人の事を考えるために摂取するものなんだなと、ふと10年越しに思い返すに至っている。

 

 

『天気の子』感想~「面白い」と「好き」って違うよなという面倒な述懐~

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映画『天気の子』公式サイトより

何かアニメや映画作品を見たときに。単純に「面白いか、否か」が「好きか、否か」に直結するわけではない。

 

過去から、ブログ内でもいろいろな作品のレビューなんかを書いてきた。その趣旨としては「作品を見て得た感情を、なるだけ伝わりやすく文章に起こす」ことに注力したつもりだ。実際、この「好き・嫌い」あるいは「面白い・面白くない」という評価軸的な話をすると、自分の感情の整理を含め面倒なことになるので言及はしたくなかった。ただ、今回『天気の子』を見て。この評価軸を自分の中で一度整理しなければ、この作品について語れない、そう思ったのだった。

 

つまるところは、評価ポイントの設置場所によっては「面白くない」と宣言できる、そして公開前に新海誠監督が言っていた「叱られるものを作った」というコメントそのまま「倫理的に反している」と批判もできる。もちろん、人の価値観なんてそれぞれなので、全て作品はそういうもんだろ、というご指摘もその通り。

 

そんな中、この『天気の子』はその「視点バイアス」的性質が特に強いと僕は思った。正直、物語として理不尽かつ納得のいかない点はかなりある。僕はそれでも「好き」と思ってしまった。そんな、やはり面倒な話をなるべく簡単に集約しつつ、そして余分な要素をなるだけ排して書いてみようと思う。

 

 

 

※ということで、ここからネタバレ余裕なので、視聴後あるいはみる気のない方向けです。 

 

 


僕が何となく脳内に持っている映画などの作品に対する評価軸は、あまり明確な区分ではないものの、大雑把に分けると3つある気がした。

 

1つ目は「物語の整合性・納得感」

2つ目は「映像作品としての美しさ」

3つ目は「作中のエゴ・作家性」

 

というものだ。そして、冒頭掲げたように必ずしも「面白い=好き」ではない。これが毎度、作品評を物凄く面倒にする要素となる。

 

ではまず何をもって、作品を面白い、と言うのか。僕個人の見解で言えば、それは1つ目の「物語に対する整合性・納得感」が大きく背負う部分だ。登場人物の魅力や、その過去、そして舞台設定や環境要因の配置。それぞれの「必然性」がどう語られるのか。物語を形作る要素に対する評価もここに分類される。

 

この『天気の子』において、このポイントはどうだったのか。はっきり言えば納得感に欠ける、そう思う。ヒロイン「天野陽菜」は天候異常の最中、新宿廃ビル屋上にある神社の鳥居をくぐって、天気を操る不思議な力を得た少女。そして、主人公「森嶋帆高」は窮屈な島から抜け出し、東京で生活することを志した男の子。

 

東京という大きな都市において、双方ともに頼るものがなく、その少女の不思議な力を使って自分たちの存在意義を見出しかけるも、結局は天気を操ったという代償を受けて神隠しに遭い、そして元来の天の気分(超自然的な存在)、また人間社会という大きな力に翻弄されてしまう。

 

前作『君の名は。』で語られたような「災いを乗り越える」という大義名分がすっぽり抜けおち、物語の納得感は「男女二人の恋愛物語」に収斂される。ひと夏の出会いと別れ、そしてエピローグとしての再会。まさにボーイミーツガールの典型だ。天候を操る「神」という超越的存在も示唆されるが、あくまでもバックボーンに在るもので、この大きな枠組みにおいて物語は何も語っていないに等しい。物語として面白いか否か、という問いであるならば「面白くない」と脳内AIは答えてしまう。

 

※陽菜の「巫女化」解釈を考えれば必然性が増すか、というお話。確かに、陽菜は必然的に巫女化を余儀なくされていたと考えられる。病院のシーンでは水の魚=使者に呼ばれ、あの鳥居まで導かれたと見たほうが自然。更には「首飾り」議論についても母が既に巫女であり、その継承が「意図的ではなくとも、なされた」と考える。それであったとしても、結局天候の神に飲み込まれ、その後、巫女である事を否定したという判断は、2人の恋愛的情緒に頼った「物語放棄」であると僕は感じる。その放棄に対する答えはまた下部にて。

 

勿論、そのカバーとして登場人物は逐一魅力的に描かれ、会話も軽妙で、笑いもあり、ついつい惹かれてしまう。今作の憎まれ役である刑事デザインも平泉成まんまのベテラン刑事とリーゼント刑事のコンビを用い、カーチェイスパートなどは捕り物劇の古典のようで、あくまでも「アニメ作品だ」という部分を強調しているようにも受けた。そして前作『君の名は。』の両主人公まで登場させるというファンサービスっぷり。こうした心配りが、本作の純粋な「面白さ」をカバーしていると感じた。

 

 

2つ目に移るが「映像作品としての美しさ」これに関しては、新海作品おいて毎度ながら非の打ち所がない。特に今回の舞台は新宿。東京都民なら馴染みがありながらも、どこか人を拒絶してくるような無機質な雑居ビル群、そこで自分の人生だけに執着している人々を、異常気象というモチーフに絡ませて描き切っている。街の看板一つとっても、実在企業からの協力を得て、偽名を使わずに書く執着ぷり。日々の生活圏を見ているような一枚絵の連続は「完璧」と言わざるを得ないし、そして映画館で見て良かった。と思わせるだけの迫力がある。

 

 

そして、以上を経て3つ目の評価軸「作家性」に話を移そう。いよいよ、ここからは僕がこの作品を「好きか、嫌いか」の話だ。簡単に言えば、今回の作品で新海誠はこういう話を書こうとしたんじゃないか、という一番オタクっぽくて、嫌われやすい話だ。だから通常、映画の感想戦、特にネットでこの手の話は極力したくない。まぁ、するんだけど。

 

先に書いた通り、この『天気の子』には大筋となる物語がないように見える。エピローグの長期降雨も注釈で書いた通り陽菜に責任がある、かもしれないが、話の組み立てとしてそこが主眼となっていない。物語放棄をした結果、救えなかった世界が受ける罰が「悲劇」として描かれない、つまりバッドエンドになっていないのだ。(超)自然現象、人間社会、大きな流れに翻弄される中、奇跡を経て出会った、少年と少女のボーイミーツガール奇譚。これだけで本作の物語的要素は殆ど言い尽くされる。

 

ただ、裏を返せば。物語物語とは言っているが、現実世界を日々を生きる我々はどうなんだ。僕らの人生に「国を救う」みたいな「セカイ系」チックな大物語は付随しうるのか。という話だ。

 

先に言ってしまえば、まずないだろう。誰しも内閣総理大臣となって国一つを動かす判断をするわけでもないし、そんな立場すら大きな自然災害、そしてAIよる判断に委ねられた経済危機の前には無力だったりする。逆に言えば『君の名は。』で語られた「隕石落下という災害による被害を食い止める」という要素、僕としては過剰に「物語的」であり、僕らが紡ぐ正常な歴史というような、「主人公」らしい展開に食傷気味だったのは確かだ。

 

ということで、今作のほうが僕は「好き」だ。前作に反し、須賀のセリフにもあったように「世の中はそもそも異常だ」ということを正面切って言いきった。正常な世。祝福され、皆が世界への決定権を持ち、理不尽なき生活を送れる権利を持つ。そんな「物語」への切符を与えられたが、あえて否定し、物語なき現代で強く生きることを示すため、帆高と陽菜が翻弄されるだけの話を置いたように思う。

 

そしてその事を強調するかのように、本編から3年後、エピローグ内で下町が水没した東京が描かれ、かつて出会った人々は、そんな状況でも着実に日々の生活を続ける。主人公の帆高も、戻った島の生活から再度離れ、水没した東京での生活を再開しようとしている。

 

新海誠監督が事前のインタビューで言った「終盤、テレビやネットで言ったら怒られるようなセリフを言わせています」と語った部分。帆高が陽菜を神隠しから救う際「ずっと天気が異常なままでいい」と空中で叫んだシーンだろう。そのセリフは言い換えれば、我々はそんな中でも生きなければならない存在だ、と宣言したようにも映る。世の中がいくら異常でも、それが我々人間が生きる環境であり、その中で生きられるだけの強さが僕らにはある。理想的な物語だけでは語れない「現実における人の強さ」を、このように示したのではないか、そんないちファンの妄想であった。

 


以上、ダラダラと感想を書いては見たものの、アニメ映画として非常に高い完成度だったし、考察なんかも随所で見られる気がする。僕としては「面白いかどうかは置いておいて、好き」という感じ。まぁ、ほんとオタクって面倒だね。まだまだ見逃している点もあることと思うので、再度見に行くタイミングをうかがってみたい。

 

 

余談

須賀の最後のセリフを上で挙げたが、そこでどうしても先日の事件が過ってしまい、ダメだった。世の中は異常だと、納得はしきれない。日々の事柄を物語的に考えることは、人間が人としての意味を見出す術である。但し、やはり異常で無慈悲な現実はそこにあり続ける。その折り合いの難しさを、改めて思い知らされた気がする。

 

「曖昧さ」を絶望にしないための内省

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國分功一郎氏『中動態の世界 意志と責任の考古学』落合陽一氏『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を読んで

冬のコミケの原稿に取りかかろうとしている今日この頃。天候も相まって気が重い。なにかしら思考を動かそうということで内省文でも書き出してみる。

 

ちょうど1年前ほどだろうか、國分功一郎氏の『中動態の世界 意志と責任の考古学』、落合陽一氏の『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を続けて読んだ。それぞれ主題とすることは別個であるものの、その底流にあるものは比較的近似している印象を受けた。今回はこれら書籍を読んでふと思ったこと思い出しつつ、Twitterのアカウント運営もとうとう10年となってしまったので、そんなことを踏まえて書き留めていきたい。

 

まぁ、先に言ってしまえば、令和元年、普通に会社員やってる僕が「将来に対するただぼんやりとした不安」に対して、どうやって希望的に将来を見通すかウジウジ考えた文章だ。単純に考えれば「気の持ちよう」みたいな話である。梅雨空の中、案の定根暗ベースの考え事を滔々と書き始めている次第。

 

・言葉と未来の曖昧さ

まず國分氏の『中動態の世界』から見ていこう。今一般的に扱われている動詞の態は「能動態」と「受動態」であるが、かつて存在したその中間にある「中動態」という概念が哲学的な見地から見直されるべきではないかという本である。主眼として、人の責任論が起点になっており、そんな例示から本文は始まる。我々は何かしら物事を為す際、あるいは為してしまった際。「何をもって、その人の責任であると論じる事が出きるのだろう」という疑問だ。

 

例えば、学生が寝坊をして授業に間に合わなかったケース。方や夜中までゲームをしてしまい朝寝坊したというのであれば、大抵の場合当人が悪いとなる。しかし、両親が働けず、妹の学費を稼ぐ為に夜遅くまでアルバイトをしていたというストーリーが付与された途端、彼にかかる責任は「印象として」軽くなる。そこには、環境における能動性と受動性が関係している。自己選択による責任論だ。後者のケースではやむを得ず彼が家族の為に働かざるを得ない、という共通認識が生じる。そういう場合には、寝坊をした責任にはある程度免責事由が生じる。

 

これら例示が示すのは、どこまで人はその行為を能動的に行いうるのであろうという疑問だ。モノは言い様と捉えられるかもしれないが、寝坊ひとつをとっても、本人の体質が低血圧だったり、ゲーム依存という環境悪であったり、その他「免責事由」はいくらでもそこに横たわっている。うっすらと想像出きる通りこの話の延長にはアルコール依存症や薬物依存といった話に繋がる。本書自体、医学書院から発刊されており、國分氏も本書の着手のきっかけは「ダルク」での当事者との会話から始まっているという。何物にも縛られない本来の「能動」である「自由意思」というものは人間には、選び得ない選択肢ではないか。そうした着想から、動詞の「態」に着目し、過去に存在した「中動態」という存在に迫っていく。

 

また、落合氏の『デジタルネイチャー~』で語られるのは、計算機つまりPCから発展しAIが人間の感覚とマッチした時に、実際のリアルに位置付けされる「物質」とその当人が経験として知覚する「実質」の差異は限りなくゼロに近づいていき、それはもはや自然と見分けがつかないレベルにまで昇華された技術と感覚、そして社会に纏わる話だ。そうした環境やシステムが構築された社会を氏は「デジタルネイチャー」と呼ぶ。実際、氏の思想や試みは単なる思考実験にとどまらず具体的なイベントからプロダクツの域にまで及ぶ。

 

人と計算機が相克するものではなく、その対立をいずれは克服し、新たな関係性を構築するようなイメージを読む人に抱かせる。それは最早SFに近く、円城塔の『Self Reference Engine』が浮かぶ。それは人間と機械という二律の軸すら不要になるほど、機械が超自然的な存在となり、そして翻ってそれを元来設計した人間に回帰していく計算機の末路すらそこに見ることが出きるようである。

 

特に冒頭。暗がりの山中、ナビを頼りに車を走らせる描写は印象的だ。実際、外に街灯もなく周囲にあるのは闇ばかり、そして降っている雨の粒が窓に付着する。自らが移動しているという事実自体も、何に依拠しながらこの道を正しいと進んでいるのかも、全て発達した計算機による導きを信用しているからに他ならない。そうすると今車に乗って移動しているという体験がバーチャルなのか、リアルなのか。何が物質的な経験で、何が実質的な体験なのか。そうした境目にすらあまり意味を感じなくなる。落合氏は自律的な判断を得意とするAIの未来だけでなく、人間の身体性の拡張、あるいは気づけば自然と融和している計算機の可能性を、時に仏教の着想などと重ねながら、積極的に説明していく。

 

・意思とは関係なく進む時代で

触りだけだが、それぞれの本について書いてみた。冒頭掲げた相似点「曖昧さ」という言葉を挙げたが、よりそれを具体的に言えば「主体」という存在の曖昧さだという事が出きるだろう。あまりに多様になった現在という時代において。いまだに大きな力を誇ってはいるものの、人種や国家というくくりも古くさく、性差にすら疑問が呈されている状況である。それは意思の尊重というより、今までの主体を主体たらしめた「意思」への疑問であるように思える。自分の意思で多様な生き方を決められる、自己決定論が幅効かせると聞けば「意思」の存在の誇大化ととらえるのが自然かもしれないが、そうでないと思う。自己決定と自己責任、そして自分の主体。個の主張を叫べば叫ぶほど、その間で我々は徐々に右往左往している印象を受けている。

 

5月、オランダで安楽死を「人生に疲れた人にも適用する」法律が提出されたというニュースがネットで話題になった。当然、高齢者のみなど条件は多く存在するものの、日本のネットユーザーも多く反応をしていた。僕自身、なんとなく気になったのでアンケートツイートをはじめて使い、日本において安楽死合法化は認めるべきか、という投げ掛けを行った。

 結果としてはこの通り。質問にあえてバイアスをつけてはいたり、また回答者がそもそもこの問題に関心を抱いている時点で額面通り受け取れない、というご指摘はその通りなので甘んじて受けるが、それにしてもこの片寄りである。

 

宗教観の差はおおいにあるにしても、この死に関する自己決定を求める意思。僕は違和を感じた。理由をそれぞれに聞いて回れば、恐らくそこには様々な理由が存在することだろう。しかしながら、死に纏わる自己決定を望む時、表裏たる生にたいする「自己決定感」が希薄なのではないかと、そう思ったのである。生きているのが自分の意思だから、終わるときも。というより、生きている事が強いられているのだから、死ぬときくらい。そんなペシミスティックな心象がそこにはあるのではないか。

 

落合氏が指摘する計算機が自然化する状態、つまるところ実質と物質が融和し、本質的な部分にすら侵食する「デジタルネイチャー」という時代。その到来は自然なものに思えるし、決してSFとして消化すれば済むものでなく、今これからの眼前に現れるであろう世界観だ。そして、ぼんやりながら我々も、生きていてそれを意識的にしろ、無意識的にしろ「そうなるな」あるいはそう思わなくても、情報革命を経て、時代の大きな変革を意識せざるを得ないタイミングに差し掛かっている。

 

こうした過渡期のタイミングにおいて、僕を含めた人間が抱きやすい感情として、虚無主義というか「自分の意思とは関係なく世界が進む感覚」というものがあったりする。もちろん、それを主導する側に立とうとする殊勝なクリエイティブマインドをお持ちの方も多いだろうが、AIがここまで進歩した時代、職業によってはその存在価値すらあっさりと否定される可能性がある。誰が悪いと言うでもなく、ただただ時代の進歩が主体たる意思を否定する。そんな倦怠感、厭世をふと感じたりする。

 

・曖昧さという絶望の種

以上は僕自身が否定的な角度から今を見ている、という主観にすぎないが、共感に足らないともいいきれない。将来を見渡す際、ビジョンは明瞭であればあるほど、希望に繋がりやすい。それが例え明確な危機であってもだ。倒すべき敵や対処すべき事案ががはっきり決まっているということは、人の行動原理にとってこれ以上の原燃料はない。それに反して、人類の発展、技術の進歩であるにも関わらず、自らの価値が相対的に目減りしていくように感じるこの潮流に対して、我々には何ができるのだろうか。

 

勿論この先、自然や自らの身体の一部と化した計算機の存在を、無思考に受け入れることもできる。利便性など確実に向上するのであろうが、同時にディストピアの影を感じなくもない。この問いはこうも言い換えられる。我々は「生きている」のか「生かされている」のか。既に身の回りにもAIを使った技術が席巻している現在において、その主体としての自我を自ら問い直すことは、人として生きる上で思った以上に重要な位置を占めている発想であると感じる。

 

そして先に書いた通り、人の希望は将来の明瞭さに比例するという話。むしろこれは、逆の時の方がより真理をついているのかもしれない。要は「将来が不明瞭な時は、不安要素が増える」ということだ。時事でいえば、年金の問題やら老後貯蓄不安、災害リスクや国際社会の紛糾など。考えれば考えるだけ、不確かでありながら我々の生活を脅かすリスクは、全方位に偏在している。その上、身の回りを見ていてもAIのみならず情報セキュリティ技術も発展し、仮想通貨など自分の理解の範疇を超え作動する様々な仕組みが周辺にある。

 

ふと、考えると利便性は不安と隣り合わせであり、そして自分の「主体」も一体何に依拠している存在であるのか、より曖昧な時代に突入する。ここまであえて大きな主語を持ち出しつつ、全世界的な不安だという誇大妄想を広げてはきたが、正直な話で言えば僕自身の不安であり、また個人の小さな葛藤である。日常の愚痴と大して変わらず、そして以下はこれら「曖昧さ」に対する自分への処方として、冒頭掲げた2冊に戻りながら、また考えてみる。

 

・択の不自然さ、それを思考する強さと希望

諸々不安要素を列挙しながら、煽ってきたわけだが冒頭で書いた通り、僕がここで語るべきテーマはその状況をいかに希望的に考えるか、ただそれだけに帰着する。そうしてたどり着いたのは「曖昧さに絶望をしないこと」今日の主題はここにある。言葉にすれば陳腐なものだが。

 

國分氏の中動態にまつわる話に触れる。一様には言えないのだが、この中動態という思想は、その能動か受動か、その2択の間を取り持つ「状態としてある様」を考えるものだ。紹介の中でも書いた通り、「される」か「する」かの二者択一で考え詰めていくと、そこにはどうやっても無理が生じてくる。安楽死の話題に触れたのも、逆に生きることを考えるためだ。「生まれてきたこと」あるいは「生きる」ことは、どちらの態で説明しても、なんだか違和感がある。しっくりこない。文章にすれば「人は自分の意思で生きている」「人は大いなるものに生かされている」つまり「生きる」という動詞はこのように思想というゲタを履かせなければ「能動」「受動」には収まらなかったりする。

 

言葉は思考に直結する。こうした葛藤の中「中動」という状態を示す態の存在は、シンプルでありながら、的確な処方あるように思える。責任の所在をあえて求めない。そこにあること、そう存在すること。これを素直に捉え、見つめることは、今やこれからの「曖昧さ」に対して、重要な視座であると感じだ。「思考停止では」と感じるかもしれないが、半面結論がない分、絶えず思考し続ける意思がそこにはある。

 

また、落合氏の指摘する現在の社会あるいは未来図を想定することも、この「曖昧さ」に対抗する一助になる。恐らく落合氏の本を読んで感じるのは、未来における進んだ社会の希望的展望と同時に、自分不在で成り立っている社会、あるいは全く別次元で構成される社会に所属しているという不安だ。その乖離感覚は、今後より一層強まるように思う。「社会」は親族のような小さなコミュニティに端を発し「町」「市」「県」とフラクタル的にからが重なっていき「国」や「国際」まで最終的に大きな「社会」まで含む包括的なシステムだ。現在では個でありながら、手中にあるスマートフォンで簡単に大きな括りにまで思考が届いてしまう。

 

バーチャルでも体験できる「実質」と、本当に目の前に存在するという「物質」。その境界がファジーになればなるほど、それに対応できるだけの自我の強さが必要になる。大きな社会を思考しながら、自分の生を歩むことは、絶望による憤怒をかいくぐりつつ、脇では虚無を覗きながら縁石を歩くようなバランス感覚が必要になるだろう。今後、技術の発展によってなおのこと本質の所在が曖昧になっていく社会の中で、明確な自覚を持ってそこに挑むことは、現在という地点にいる僕らにとって必然の準備なのかもしれない。

 


ということで、長々と書いてみたわけだが、曖昧なものを語ると自分の主観の置き場すら曖昧になるので困る。あくまでも、自分個人の内省延長くらいの感覚で、あまり細かい精査を無視してしまったわけだが、そうでもしないと書き出せないくらいには、諸々が詰まっていたとご理解頂きたい。あまり人に読ませる話ではないけれども、たまには思考の除湿ということで。

 

清竜人ハーレムフェスタに行って、堀江由衣の話しかしないオタクの述懐

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清竜人10周年特設サイトトップ画像より http://www.kiyoshiryujin.com/kr10th/

ラノベタイトルな感じにしようと思ったのに、取調調書の概要みたいな題になってしまった。

 

ということで、5月25日(土)新木場コーストにて開催された「清竜人ハーレムフェスタ2019 10th ANNIVERSARY & 30th BIRTHDAY」に行ってきた。出演アーティストは、上坂すみれ佐々木彩夏ももクロ)、でんぱ組.inc、そして堀江由衣というその筋の人なら一瞬で分かる豪華さ。

清 竜人 10th ANNIVERSARY 特設サイト

 

僕としても、現在すみぺにのめり込んだ挙句FCにも加入、ももクロちゃんライブ映像をリピートしながら苦しかった就活時代を乗り越え、でんぱ組にはデビュー以来「これは沼」と確信し、ハマらないよう日々楽曲を聞いては気を付けており、堀江由衣に関しては「結婚したい!」と中学生時代に冬の海に叫んでいたわけで。そんな個人的な業じみたメンツとなったこのライブイベント。行かざるを得なかった。

 

どのアーティストに対しても上記の通り、元来思い入れがあり、やはり見た結果も素晴らしいパフォーマンスだった。しかし、今回に関してはタイトルのまんま。堀江由衣女史のライブアクトをメインに、というかそれだけについて滔々と書き連ねる。非常に偏った目線と、病んだ過去をねじ込んだため、かなり色んなブレーキが壊れている気がする。同志、もののふ、でんぱ勢各位。マジで堀江由衣の話しかしてない。先に謝る。ごめん。

 

・声豚、ふるさとに帰る

そもそもこの「清竜人ハーレムフェスタ」というイベント、シンガーソングライター兼作曲家として活躍する清竜人氏が、縁のある女性アーティストを招いて行うフェスイベントである。提供楽曲だけでなく、それぞれの持ち曲も聞け、なかなかにレアなパフォーマンスも拝むことができる。

 

もともと僕自身「メンバー全員、清竜人の嫁」というとち狂った設定の一夫多妻制アイドルユニット「清竜人25」のライブにも数回足を運んだことがあり、氏の独特な音楽センス自体にも惹かれていた。そして今回。清竜人氏も敬愛し、楽曲提供をしている堀江由衣御大がこのハーレムフェスタに参戦すると聞き、居てもたってもいられなくなった。

 

簡単に自分の経歴を漏らそう。過去には黒ネコ同盟(堀江由衣FC)に所属、当時声豚の限りを尽くすも、徐々に「オタクはみんな放送作家や声優イベント司会になれるわけではない」と高校卒業あたりで知り、大人になりゆく自我と金欠の狭間で揺れた結果、同盟継続を断念。同時に声豚も卒業・・・と思ってたら色々再発してしまい、昨年コルホーズの玉ねぎ畑(上坂すみれFC)に移籍してしまったという具合。

 

詳細については下記記事を参照。

堀江由衣がプリキュアを演じる事について(前編) - わがはじ!

この12月から上坂すみれのファンになってみた話 - わがはじ!

 

つまるところ、堀江由衣女史に対しては、過去からのトラウマ的ファンであり、現在は上坂すみれ現場を中心に声豚として生計を立てているという二枚舌な塩梅である。そんなダブスタな僕にイベントの入場の際、係員が「誰をお目当てに来ましたか?」と問う。単に集客力の確認なのだろうが、現在の信仰心を試されていると焦った結果「ほっ・・・・上坂すみれさんです・・・」と葛藤を漏らしてしまう。入場前から謎の「ほっ」、不審者感が隠せない。

 

中途半端な心を見透かされたようで、少し傷心気味の僕。「あぁ、どんなに時を経ようと結局のところ、俺は無意識に「ほっ」と言ってしまうのか・・・」僕は、ちょっとした罪悪感とともに、なんだか故郷に帰った心地がした。(そもそもほんとに新木場が地元)

 

・声豚、スピーカー前でむせび泣く

今回、このイベントに意気込んだのには理由があった。それは新木場コーストで行われる、つまりオールスタンディングで行われるということだ。通常、声優ライブイベントなどは観覧できる席が固定されているのが普通であり、席の良し悪しはFCに入らない限り(入っても)運ゲーだったりする。

 

半面、アイドル現場やロックバンドのライブのようなスタンディングのライブハウスでは、気合と体力次第で自分の配置場所はコントローラブルなのだ。要するにこうしたハコで、堀江女史のライブを見られるというのは、恐らくかなり珍しい。これは先を考えても数少ない機会になる・・・そんなチャンスを逃すまいと僕も入場するや否や、前線に陣取った。

 

しかし、30代に入って初となるオールスタンディングのライブ。長くなるであろうイベントを前に不吉な予感が過った。徐々にボルテージも上がる開始5分前、硬い床張り、すでに足腰がキツイ・・・あ、これ体力持たないかも。徐々に鈍痛と不安が増す。負の感情に支配されないよう、脳内で冷静さを取り戻すためシミュレーションを行う。

 

「確実に堀江由衣はゲストの中でも大御所枠。つまり順番は清竜人本人のライブ前・・・トリ前だ。そこまで体力を温存させるか・・・いや、現在推しである上坂すみれを目の前にその呵責は耐えられない・・・そもそも、生あーりんにも発狂する気がするし、でんぱ組初現場は正直めっちゃ嬉しいへへへh」

 

深刻な表情で考える僕。そんな中、いよいよフェスがスタート。そして冒頭司会から「それでは早速最初のアーティストを紹介します・・・堀江由衣さん!!」

 

え、うそ・・・なんだろうか、理性が飛ぶというか、水道管破裂して水吹き上がってるGIF。脳内にその映像が15画面くらい映って、ずっとリフレインしてた気がする。徐々にその脳内エラーも収まり、目の前にはいよいよ本物のほっちゃんが。距離感10mほど。気づけば「ほぁーーーー!!!」と叫ぶ自分。いや、もうそうなんだよ。人類、堀江由衣に近づくと自動的に叫ぶんだよ。嘘じゃないよ。やめろよ、そんな目で見るなよ。

 

そして、初っ端から人気曲『The♡World's♡End』からスタート。高速BPMを伴った複雑なメロディラインを音源のような正確さで歌い上げる御大・・・そしてライブハウスの醍醐味のひとつとして、あまりおススメできないが、舞台袖にある大きなスピーカーからの大音量を目の前で浴びる事が出来る。今回、そのあたりに陣取って御声を存分に浴びた。「・・・あぁ、堀江由衣やん・・・」謎のトランス状態に入る僕。会社での鬱憤、生活費の心配、それらがすべて消え、魂の浄化を感じ出す。

 

そして、2曲目。バラードとポップスのバランスが絶妙に気持ち良い『半永久的に愛してよ♡』では、その御声にリバーブがかかり、音波がより一層ドラマティックに耳朶を叩いているのが分かる。僕は恍惚としながらも、この曲の最後「なーんてね♡」というセリフ部分。とうとう我慢できず、むせび泣く。清竜人、なんていう職権濫用だ!バカ野郎!!ありがとう・・・ありがとう・・・

 

・声豚、人生のやり残し項目がだいぶ減る

そして3曲目には新曲『春夏秋冬』を披露し、会場のボルテージも上がり切ったまま堀江由衣パートの最後へ。ここで「他の色んなファンのみなさんがいる中ですが、できれば皆さんに応援してもらいたいと思っています。」というMC。一瞬で理解する黒ネコ勢。清竜人が初期に楽曲提供をし、未だにライブでも圧倒的人気を誇る名曲『CHILDISH♡LOVE♡WORLD』の予告である。

 

曲の間奏の中「フレーフレーほっちゃん、がんばれがんばれほっちゃん」と応援するパートが直接的に含まれており、清竜人個人のファン心理しかない作詞が根強い人気を集めるカオス曲となっている。ファンとの掛け合いも複雑ながら楽しい。ちょうど声豚活動を離れ、しばらくしてからこの曲が生まれ、僕自身今回はこれが聞きたくて、また応援がしたくて、今回のライブに参戦したと言っても過言ではない。

 

今見ることができるアニメ楽曲関連パフォーマンスで「LiSAの『Catch the Moment』、JAM Projectの『GONG』、そして堀江由衣の『CHILDISH♡LOVE♡WORLD』をライブで聴くまでは死ねない」と常日頃豪語していた自分。思ったより早く前の2つはクリアしてしまい、そして最終項目も今回果たした結果、今回死ねない理由が減ってしまった。

 

激しい掛け合い、そして全力での応援。その結果、やっぱり泣き出すオタク(2回目)半ば放心状態でその姿を見送り脳内で反芻をする。今回のライブ・・・これでもう満足では。十分に来た価値はあった・・・。序盤で精神が尽きかける。ただ本音を言えば、微妙に心残りがあった。

 

清竜人名義で堀江女史が参加している『CAN YOU SPEAK JAPANESE?』というこちらもとち狂った傑作がある。ほっちゃんが先生に扮し、清竜人含む6か国の男性に「愛している」という言葉をいかに伝えるのかを教えるというぶっとんだロールプレイ楽曲なのだが、その外国人勢も一緒に歌っているため、再現不可能と思われた。実際、2012年のEMI ROCKSで一度披露されただけにとどまっている。(このライブの先生役は堀江由衣ではなく、口パクで別の女優が演じている)

 

まぁ、この時点で十分満たされていたため、不満もなく納得。結局、その後のライブも結局、最後まで前線で叫び続けていた。(実際、全アーティスト分思い入れ書きたいけど、マジで文字数)

 

そして、迎える清竜人本人のライブパフォーマンス。何を演奏するのか全く想像がつかない中、幕が開く。すると、そこには学生服を着た6か国それぞれの生徒・・・そしてしばらく間を空けて登場する女教師姿の御大、堀江先生の姿・・・『CAN YOU SPEAK JAPANESE?』奇跡の本人登場の再演であった。あぁ・・なるほど冒頭での登場もこの為か・・・薄れる意識の中、そんな思惟を抱きつつ、その後の記憶があまり定かでないため細かい記載は避けたい。何はともあれ、清竜人の職権濫用ここに極まれりという楽曲。心から存分に楽しむことができた。

 

 

 

 

すべての演目が終わり、ツイッター上を眺めるとどうやら友人も参戦していたことを知り、一緒に打ち上げ、月島でもんじゃを頂きながらライブを振り返る。恍惚とした表情で「いやぁ、声豚はもう卒業していたつもりなんだけどなぁ」と漏らすも「いやいや、ていうか全然抜けてないでしょ」とバッサリ。実際、そんなツッコミに何も否定できず、思い出を残したい、と原稿用紙10枚以上のこんな記事まで書き出す始末である。

 

今回は御覧の通り、とかく堀江由衣祭りとなってしまったこと申し訳なく思いつつ、そろそろ月曜が目の前に控えている。夏に控えた、堀江由衣女史の新作アルバム楽しみだなぁ・・・と思いつつ終えようと思う。

堀江由衣の10thアルバム「文学少女の歌集」が7月10日発売決定! | アニメイトタイムズ

 

いや、ほんと他アーティストも好きな分罪悪感すごい。偏ってすみませんでした。

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権利と承認の幸福論~Twitter10年を考える②~

今年でTwitterのアカウントを作って10年になる。その中で、ネットの情報と触れ合いながら考えたことなどを取りまとめ、あくまでも根暗ベースで書いていくシリーズ第2弾。あくまでも持論です。今回はGW10連休の最終日に書き出したということもあって、いつもより2割増しくらい、暗い話を漏らしてみたい。

 

・「子供嫌い」という権利

今年に入って読んだ記事の中で、しばらく引っかかっていたものがあった。

president.jp

 

話題として特段新しいものではない。「NIMBY(Not In My Backyard)=うちの裏庭に~を建てるな」的発想に纏わるエッセイ的記事だ。ごみの焼却炉など、住民と自治体との間でいさかいになるような施設建築の話である。その中でも、最近ネットで往々にして炎上事案になるのが、この記事が取り上げるような「保育所問題」だ。

 

少子化にも関わらず、待機児童が問題となる今の時代。更に拍車をかけるような「近所に保育所を作らないで」という地元住民からの意見は、時たまネットニュースになり、色んな声が向けられやすい。本記事もバズっており「身勝手ではないか」「子供を地域で育てるという発想がない」などという反応を見かけた。

 

昨年末、青山で児童相談所建設に地元住民が反対したという記事も記憶に新しい。この手のニュースを見た際、普段そんなこと考えない僕でさえ住民に対して「子供のためだろ。身勝手なんじゃねえの」と憤りを感じていた。しかしながら、なんとなくクリティカルな反駁が出てこない。歯に何か挟まってるような感覚。「他人の子供のため我慢しろ」・・・果たしてそう言えば済むのか。

 

そんな違和感を抱えつつ。ここで、ちょっと違う話題を思い出してみたい。例えば、昨今の労働に纏わる話。昭和から続いてきた「24時間働けますか」的発想に対するカウンターは「サビ残必要なし」「飲みニケーションへの疑問」「ブラック企業は滅べ」という声が挙がっているように、もはやネット上では通念として定着しかけている。勿論、自分も含めた労働者にとっては良い潮流であり、働きやすい職場、そして生産性の向上という考え方は時代に適したものと言える。

 

では、こうした考えの本質は何か。端的に言えば、それらは権利意識の表れのひとつであろう。雇用関係において、労働者にも認められた権利がある。それを忖度なく行使できる雰囲気を作ることは、確実に悪いことではない。だって、職業選択もプライベートな時間も、れっきとした自分の権利なのだから。

 

そして、冒頭の話に戻ろう。保育所建設反対の意見だ。旧態依然とした「寄合的コミュニティ」を脱した都市部での生活。そこにおいて住む人が、忖度なく自らの権利を主張すること、それもなんら不自然ではないのではないか。

 

プライバシー権日照権など大学での憲法の授業のようだが、保育所拒否を訴える権利。それは、我々の感情論で一方的にはく奪されるべきものでない。いかに「自分勝手な」意見に見えても、彼ら住民が「フェア」なルールに則っているという前提で話を始めなければならない。そして、こうした住民の反対意見に憤っている自分こそ、さっきまで「労働者の権利を」と語っていたのに、その権利という視点を無視するような「ダブスタ」的スタンスにあったことを自覚しなければならないと思う。

 

・不快さを取り除くという幸福追求

苦手な人や嫌いなもの。そうしたものから遠ざかる、遠ざけるのは自然な行為だと思われており、その風潮は昨今強まっている。ブラックなら辞めればいい、いやな飲み会は無理に行く必要はない。そう声を挙げる傍らで、保育所は甘んじて受け入れろ、なのだ。僕がこの問題に反駁したいが、モヤっと感じていたのは、なんとなく「そうすべき」という感情のみで僕自身、自分の理屈を守っていたからだろう。

 

保育所問題から離れて、すこし根本的な話を考えてみたい。つまりは労働をはじめ自らの「権利」を主張する重要性に気付いたネット市民。その「権利」の主張を掲げた末、我々はどこに行こうとしているのかについて軽く語ってみよう。つまるところ、現代の幸福論だ。先日ツイッターで身の丈に合わない主語を使うヤツは信じるなと言っておきながら、これである。ということなので、あくまでも僕周辺の感覚をベースに考えたい。

 

唐突だが、GW久々に母方の叔父に会った。なかなか破天荒な人柄で、バブル期にシカゴで寿司屋を経営。破綻した後、結婚詐欺にあい、心臓を病み、今は近所で生活保護を受けながら過ごしている。その口癖は「とにかく面倒だ」というもの。いや、確かにそんだけの人生を送ってきたら、何かを始めることを厭う気持ちも分かる。

 

最近スマホを持ったものの、競馬情報を見るか電話の二択。何か新しい趣味でもと言えば「新しいことは不快な思いが付きまとうから」と言う。んー頑固なもんだ、と聞いていたが、その言葉からふと感じたことがある。普段、人間というものは趣味だったりそれこそ食欲だったり、基本的に「快楽」を求め、それを種々生活や活動の意欲にする生き物だとなんとなく思っていた。

 

しかしながら、むしろ叔父の発想のように「不快な状況をなくす」つまり「快適さ」を得たいという願望の方が、人としてはより自然な感情なのではないかと思ったのだ。思えば、自動車や家電の発明、種々テクノロジーの進歩はそうした不快さをなくすことを原動力にした営みである。そして一人一人の生活も、居住であれば、住まいがいかに駅から近いか、近くにスーパーはあるか、など「快適さ」が幸福値を表すバロメーターのひとつになっているのは確かだろう。

 

ひいては会社や家族、こうした組織体においても、上司との飲みや、ご近所の付き合いなど、面倒なしがらみをなるだけなくし、個の快適さを優先しようというのが今のトレンドではないだろうか。つまるところ、自分の人生。思うように生きた方がいいでしょ、という話で、この手の発想に頷く人は多い。

 

・承認というローカルブレーキの限界

では、そのように上司やご近所づきあいといった他から煩わされることない快適な生活こそが、現代の「幸福観」なのだろうか。

 

ここで、もう一つ大きな要因を占めるものがある。相反するようだが、それこそ他人から得る承認欲だ。この「権利的快適さ」と「他人からの承認」というセットこそが、今の幸福観に纏わるリアルな温度感ではないかと思う。

 

面白いのは、先に挙げた「権利的快適さ」は人との関係性を薄くしたほうが求めやすい代物だが、ブレーキのように「他からの承認」は存在する。一人でいれば好き勝手に振舞える。社会の中では規律が息苦しい。しかし、一人では得られない「人から承認される」感情を得ることが可能になる。わざわざ言い立てるほどのジレンマでもないが、このバランス感覚こそ、今という時代における人の幸福観と言っても差し支えない気がしている。もちろん、人によってその偏りは大きい。「快適さ」を優先させる人もいれば、「承認」に全振りする人もいる。

 

では、そろそろ本題に移る。何を言いたいかといえば、インターネットの時代において、この「個」と「承認」という対立軸に変化が生じているということだ。「個」における権利追及は先述の通り、加速している中で「承認」の場が、ローカルだけではなくむしろネットワーク上に移ってきているように感じる。会社の上司から承認をされなくても、フォロワーから認められる。家族が疎ましい時にはネット上の意見が自分を守ってくれる。という具合だ。

 

例えば、一人で好き勝手に振舞った反動は大抵、友人や家族など周辺の人のリアクションとして帰ってくる。周辺の人がそれを咎めた結果、承認を失わないよう行動を調整する。しかし、そうした言動をネットに呟けば、様々な第三者がいきさつに評価を与える。「自分の自由に振舞った行動のほうが正しいよ」「周囲を気にするな」など、意見が投げかけられる。

 

当然メリットもある。顕著な例としては、いじめや家庭内暴力が存在する閉鎖状況において。ネット上の第三者からの意見は、明らかに偏った環境に対して修正を行える力を持つ。また広く周知されることによって問題解決の可能性が生じるという意味では、ローカルを超える承認を得る過程は効果的だ。

 

反面。こうした構図に慣れ親しむと、ローカルにおける承認を気にしないで済むようになる。要は「個人の快適さ」の追求に対して、周辺のリアルな関係性に対する相対的な価値を下げてしまうということだ。親と折り合わなくとも、ご近所付き合いなどしなくても、ネットには自分の意見を認める人がいる、と。

 

・今ある快適さと、自覚と。

ネット上における実際の利害を伴わない、ゆるく繋がる承認の輪。自我や個の主張を守る上では有効だろうが、果たして本当にその輪が自分を救ってくれるのかという疑問が立ち上がる。「個の快適さを優先させる」人たちがそう主張し合い、同調する中、ここで醸成されるのは「自己責任」の感覚だ。

 

あくまでも、自分の人生は自分の人生だから。そして、自分を縛るローカルな関係性に重みはない。その主張を掲げながら、いざという時に面倒な人生の中で、本当にツライ状況に置かれた際、一体誰と在るべきなのか。はたまた一人で乗り越えられるのか。昨今の社会問題は往々にして、こうした空気感、あるいは諦観が横たわっている気がする。

 

労働の効率化、晩婚化、独り身での生活、少子化、そして保育所建設の拒絶。案外、これらの清濁双方を含む事象やそれに関連する発想は地続きだ。昨今、人それぞれの異なる幸福感は、それぞれに尊重されるべきという風潮の中、自らの不快さはなるだけ排してよいという発想が定着してきている。もちろん手放しに賛同出来るメリットもあれば、疑問も生じたりする。

 

権利を主張することは決して悪くない。ただ、僕らが得たいと望む幸福観の先に一体何があるのか。この問いを自覚的に自問しなければ、恐らく足元にあるローカルという土壌すら消失させている可能性もある。この保育所反対の問題についても、住民の感情は理解出来る。いや、誰であろうとまず「理解しなければならない」時代なのだ。

 

その上で、ようやく失われるものについて、何を犠牲にするのかについて。そこからようやく倫理観を含めてお互い考えていくべき対話のスタートが切れる。すべてがモラルの問題と捉える人、感情で反駁を行い続けていると、自分が欲しているものすらわからなくなる。

 

そんな不安を文字にしてみた、という具合でした。令和という年号を迎え、新しい時代の幕開けに。まぁ、案の定という暗い内省記事。まだ、このシリーズは続きます。

 

人生がわからなくなった時に読む個人的処方箋マンガ選

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気づけば令和。前回から続けようと思っていた話題は、プロットが大きくなりすぎて一旦お休み、お茶濁しと文章を書くリハビリを兼ねて、久々にサブカル系を中心に漫画レビュー記事でも書きたくなりました。各作品「処方箋」ということで短めです。

 

・「わからない」ことが「わからない」ときに読む漫画

学校の授業や勉強をする上で一番の末期症状がこれだ。「わからないところがわからない」果たしてどこから手を付けたらいいのか、そもそも何を聞かれているのかもイマイチぴんと来ない。ていうか「わかる」ってなんなんだ。僕も過去、高校時代の数学でこの沼に陥ったことを思い出しては、鼻の奥がツンとなるような心地がする。

 

そして現在。時代も平成から令和へ。僕自身も三十路に突入、増える白髪、遅くなる筋肉痛、随所に現れる老化現象を逐一見ないふりして日々を過ごしている。そんな中、最近再びこの「わからないところがわからない」現象に見舞われている。うん、そう、人生で。

 

経済的なひっ迫、現在の仕事、趣味、結婚、家族・・・油断すればユニコーンヒゲとボイン』の「仕事とはなんだ、人生とはなんだ」という一節が頭の中を延々ループしている。新時代、いったい何から手を付ければいいの。

 

まぁ、こんなことを考えだすということは大概暇なのであり、せっかくのGWだし、ぐーたら漫画でも読もうじゃないか。ということでそんな「人生のどうしたもんかなぁ」と思った時、僕が処方箋的に読んできた漫画を簡単に振り返って紹介してみたい。毎年、夏コミ作業詰めのGW。今年は、お休みしたことによりなんだか落ち着かない。そんな手持無沙汰さを、そんなレビューをもって共有させてほしい。

 

・『西洋骨董菓子店』(全4巻)よしながふみ 新書館

www.shinshokan.co.jp

ふと諸々、人生が重くなってきた時に読む安定剤みたいな漫画。思えば、前時代では椎名桔平藤木直人滝沢秀明阿部寛という豪華メンツでドラマ化もされた本作。イケメン4人が小さな洋菓子屋で働くよしながふみの真骨頂みたいな話。もちろん同性愛はのっけから物語の核心になってくる。

 

往々にしてよしながふみ作品は顔がいい前提で話が進むので、そこはご愛嬌なんだけど、それにしたって、登場人物各人の人生の機微を過去から現在まで、短いながらきっちり描いてしまうのはさすがの一言。基本線日常系でありつつ、それでいながら、本筋にはミステリの要素なんかも加えちゃって、とっちらかるかと思いきや、まとまりのある全4巻。

 

同性愛関連の話が非常にフラットに設置されていたり、登場人物の重たい過去が比較的軽妙に描かれていたり、オムニバスに近い展開もあって、いい意味でストーリーを押し付けられない感が心地よい。サラッと重い話が続出する度「そうだよな・・・人生の問題って案外悲劇としてでなく、オフビートに進むよね」と納得し、悩みが軽くなるような気がする。ほんと、よしながふみって人生何週目なんだろう。とはよく思う。

 

・『雑誌『ヨミ』』(『白い狸』収録)横山旬 エンターブレイン

www.kadokawa.co.jp

コミックビームで『変身!』を連載していた横山旬の短編集。表題の『白い狸』は、まさに筆者の得意分野という感じの読み切り伝奇ミステリ。こちらも好きなんだけど、これに収録されている「雑誌『ヨミ』」という短い漫画が僕にとってのカンフル剤的処方箋だ。

 

話の筋としては、中学3年の受験前。主人公と友人Aで雑誌制作を思いつく。学校の「一物抱えた」人間に声をかけ、原稿を募るという同人誌作成の話だ。最初は面白そうと進めてみたものの、編集から原稿集めなどに苦慮し、受験を控ながら「なんでこんなことしてんだろう」的葛藤を抱える。それでも最後、表紙を頼んだ知人から完成した絵を見せられた瞬間、その出来に感化を受け「本にしなければ」と思い新たにし、完成にまでつなげるというひと夏の青春群像。

 

見た通り単純ではあるものの、横山旬の独特な絵柄に完全に心を掴まれて仕方ない。そして、僕が続けてきた同人誌作成の流れとほとんど一緒で、僕自身「なんでこんなことしてんだろ」と沼にはまりそうな時、完成へのモチベーションを思い出させてくれたりする。集まってきた話や原稿を見つめなおし「あぁ、これ世に出したほうがいいな」と。結局、完全に一人よがりなんだけど、何かものづくりを行うことなんて詰まるところ一人のエゴで十分なんだなと、毎度教えてくれる貴重な作品。

 

・『変身のニュース』(短編集)宮崎夏次系 講談社

kc.kodansha.co.jp

当時気になる絵柄ということで、手に取ったら久々後頭部殴られたような衝撃を得た本作。他の作品も好きなのだけど、最初に読んだ宮崎夏次系作品ということでこの1冊を挙げたい。

 

処方箋、ということでピックアップしているが、結構強いオクスリという感じ。漫画や小説を読んでいて「これ書いてる作者、大丈夫かな」と心配することがたまにあるけれど、その筆頭。人間が生きていて、ふと感じる「もうイヤ」みたいな感情を、無表情なキャラに語らせ、その人生を捨てる瞬間を、あまりに軽く、ファンタジーとして描いちゃう。この短編集では、直接「死」という帰結には繋げないが、そんなおとぎ話的救いが逆に恐ろしいくも、儚い。

 

1冊通して、我々が日ごろの生活でふと抱く絶望の先を「はい、こんな感じ?」と示してくれているような印象を受ける。だいたいあってる。あっているが故に狂っているし、そしてその狂気には、希望だとか安心も宿っている。日常的に過ぎていく日々が、たまにあまりに不条理に感じる時。僕は改めてこの本を読みながら、ちょっとした安心感を得るのだと思う。

 

・『G戦場ヘブンズドア』(全3巻)日本橋ヨヲコ 小学館

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個人的に一番、即効性があり効果があった処方箋と言えるかもしれない。漫画家を目指す漫画は、いろいろ作品はあるのだろうけれども、3巻完結ということもあり、ここまで熱量の密度が高い作品も他にないだろう。何かが詰まると、粛々と読みだしてしまうほどにはお世話になっている。

 

こちらも短いゆえに話の筋はそこまで複雑でない。ただ、2人の主人公を置くことによって、創作に対するそれぞれのスタンスを書き分け、そして大団円では1本の線に紡いでいくその過程は何度読んでも鳥肌が立つ。そして、本作でのキーパーソン、漫画雑誌編集長、阿久田が言う「誰も生き急げなんて言ってはくれない」というセリフ。数々の漫画のセリフの中でも、人生訓としては、非常に重たく、またその通りな一言。

 

創作という道自体、普通に生きて得る幸せを放棄することと宣言しながらも、ラストでは様々な問題や葛藤を超えて、2人は漫画の道に至る。そこまでの覚悟がお前にあるのかと問われれば、めっそうもないです・・・と消沈するのが常なのだけど、趣味だとしても何かを作る、書く、発表する、その重たさと価値を感じさせてくれる作品。高校生とか、本当に読んでほしい。

 

・『ファミリー・アフェア』(『おかえりピアニカ』収録)衿沢世衣子 イーストプレス

www.eastpress.co.jp

短編集を主に主軸に活動している衿沢世衣子という漫画家。どの作品も瑞々しい感受性で描かれており、しがらみながらも、嫌味のない人間関係は彼女にしか描けない独特な空気感がある。そんな中で、本作もカンフル剤的に、自分の歩く方向を確かめる際に読む1本がこの作品である。

 

原作はよしもとよしともだが、衿沢世衣子の作品集にキレイに収まっているあたり、話の筋としても親和性が高かったと想像がつく。ごく普通の家庭が、父親の会社の倒産を機に過渡期を迎える。引きこもりの兄、女子高生の姉、主人公は小学生女子で「こどもだから分からない」と家族の問題にも目を背けている。ただ、両親の関係含めて少しずつ、家族が自分の道を歩み始める。その過程が丁寧に描かれている。

 

その中でも「何かに夢中になっていれば他のことなんてどうでもよくなる」「一番大事なのは自分で決めるってことさ」というセリフが象徴的に使われるが、日ごろのノイズが多い生活の中で、迷わない指針がここにあると読み返すごとに痛感する。本作品集通して、大人になりかける子供の話が多い。我々がとうに忘れた「大人になる自分に何を感じていたか」ふと思い起こさせられるようで、背筋が伸ばされる心地になる。

 

 

 

ということで、とりあえず簡単に挙げてみた5冊ほど。こういうレビューテイストは、まぁ、ふとした感情で書けるのでたまにはいいもんだなと思う次第。ということで、自身も挙げた漫画を読みつつ、徐々にやりたいことに向けて頑張っていかねばと気合を入れ始めたい。季節の変わり目に体をやられないよう気を付けなければ。