わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

C100だよ!夏コミ新刊総集編「'00/25 essentials」の話。

入稿出来たー。

本題の前にとりあえず、本日、星街すいせい1stソロライブがブルーレイ化したよ。

www.animate-onlineshop.jp

 

言いたいことも言えたので、意図せず溜めてしまった話題をようやく書き出す事にする。タイトルの通り、夏のコミケで出す予定の新刊の話だ。

 

気づけば8月も目前。コロナの感染者数は高止まりの中、そもそもコミケはやるんか、できるんか。という一抹の不安はあるが、まぁ印刷所にきっちりとデータ入稿・入金してしまったので、現物は否応なしに出来上がることだろう。コミケがもし中止になったら、どこかで泣きながら手売りするので、その際は是非なにとぞよしなに。

 

 

それにしたって今回は、冒頭に表紙を掲げた通り「総集編」だ。「壁サー」「売り子レイヤーとアフター」の次ぐらいに、全同人作家の憧れ的存在とも言っていいのではないか。「総集編なんて、誰だって出そうと思えば出せるじゃねえか」と言われればそれまでなのだけれど「総集」と名付けるからには、過去にそれなりな冊数、本を出していなければ恰好が付かない。

 

当方、気づけば2010年頃から細々ながら、同人活動を続けてきた訳である。その姿勢くらい褒められたっていいのでは、とたまに思い、時おり自分を褒めることにしている。もちろん、深夜に酔った勢いで「っぱ、俺すげえな…」とひとり呟くと、ものすごい虚しいし、死にたくなる。

 

アルコールで正気を飛ばし自己肯定を図るのは、あまり効率的ではないのは確か。ただ、そうでもしないと、需要も定かでない本を、自らのリビドーに任せて作り続けるトチ狂った趣味など、真っ当な精神でやってられねえのである。

 

と、ほぼ書いていることが愚痴になったところで、早速今回作った本を簡単に紹介してみよう。

 

「総集編」ということで、当然過去の本のまとめだ。これまでに当サークル「わがはじ!」で作った同人誌は下記のサイトをアーカイブにしているので、まずは覗いてみて欲しい。

sukumizumi.tumblr.com

上記のリンク先でも分かる通り、一時期特殊性癖まっしぐらな創作着ぐるみエロ漫画を描いてたりもしたが、主だっては対談メインの雑誌シリーズ『'00/25』という本を作って同人活動を行ってきた。今回はそちらの総集編となる。

 

手前味噌ではあるが、たまに過去に発刊した同人誌を読み返すと、時間が経っても尚、対談の随所に「あ、ここ、いい言葉だな」「本質を突いているな」と思う箇所がある。そうした部分を少しずつ集めたというのが企画の趣旨だ。

 

また今回選別の対象としたのは、本格的に対談雑誌として作成した「Vol.3~Vol.10」まで。特集内容を並べれば「着ぐるみ」「オタク」「フェチ」「女装」「近未来の下ネタ」「中野の飲み屋」「秋葉原」「ケモナー」などなど。まぁ、自分でも少し引くくらい色々やったなとは思う。

 

ピックアップさせて頂いたラインナップはこんな感じ。

実際、これだけ見てもなんのこっちゃという事だとは思うので、当日は足を運んで、ぜひ手に取って頂きたい。抜粋した短いやりとりの中でも、ど下ネタから創作の本懐、オタクの生きざまから、秋葉原の趨勢まで。中々に含蓄ある対話が詰まっているのは確かだ。オールモノクロ、56P。頒布価格は多分700円くらいの予定。加えて、Vol.4、9、10あたりはいくつか家に既刊もあるので、持参するかと思います。

 

8/13(土)お盆なのに実家にも帰らず、親不孝かましているオタク諸氏は是非スペースまで遊びに来てくださいな。スペース場所やら頒布物詳細やらについては、逐一下記アカウントにて固定ツイートで宣伝するかと思うので、よろしくお願いします。

尿道責め専門店特集・巨乳白書スペースに挟まれるという、素敵な性癖評論島にぶち込まれております)

すくみづ🎪/C100/土/東フ/11-a (@suku_mizumi) / Twitter

 

 

ということで、宣伝も終わり以下余談。あとがきとも重なる所もあるけれど、同人誌でそこまで読む御仁もそう多くないだろうから、書いてしまうことにする。

 

今回、総集編を作る中で改めて「よくぞ、こんな趣味を続けてこられたもんだ」と感慨に浸ったりして。勿論、時には買っていただいた方から褒めて頂くこともあった。それは大きなモチベーションになるし、自分の作った同人誌が人から評価してもらえるのは純粋に嬉しい。

 

ただ、僕の作っている同人誌は見てわかる通り、純粋な創作ではない。人にインタビューをし、寄稿を募り、一冊を組み上げていく雑誌だ。なので一つ一つ記事への評価は、本来インタビュイーや寄稿者に向くべきものであり、編者というスタンスをとる限り僕は裏方に他ならない。周囲の人の言葉を借りながら、同人誌を作らせてもらっているに過ぎない。

 

そういう意味でも、冒頭書いた通り「自分で自分を褒めるしかない」という帰結になるんだけれど、それはそれとして。詰まるところ、人からどのように評価を受けるかという事だけを眼目に置いていては、こんな趣味続けてられん。という話である。

 

それでは、こんな酔狂な雑誌作りに、僕自身何を求めていたのだろうか。

 

今の時代。昨年開催したオリンピックで某ミュージシャンが激しく炎上した通り。雑誌やメディアに言葉を残すというのは正直リスクでしかない。90年代のニッチなサブカル誌の対談から、あのような大きな騒ぎになった事は、世の中の片隅でこんな小規模同人誌を作っている自分にとっても少なからずショックだった。

 

誰の役にも立たないどころか、協力してもらった方々のリスクだけを生成していたとなれば、今までやってきた事はなんだったのだろう、とちょっと落ち込んだりもした。

 

それでも、今回「総集編」を作るに至ったのは、やはりこれまでの対談を見返して純粋に面白かったからだ。「自画自賛乙」というちくちく言葉も、既に妄想ながら脳内に突き刺さっている。ただ、言葉を残すリスクにただ怯えるより、言葉を残す可能性を信じてみたかったというのが素直な所だろう。

 

世には出ないけれど、本質的な事を語ってくれる人は案外身の回りにいる。「有名な人をこぞって集めた」のではなく普段、Twitterであいさつ交わすような身近な距離感の人から得られる言葉を集め、そこに現れる価値を見る。そこに、ある種、人間関係そのものの可能性を信じてみたかった、というのが動機の根本かもしれない。

 

やはり人と話すと、会話特有の空気がそこに生じる。それは、コロナ禍においてひと際実感するに至った。LINEやSNS、メールでのやり取りとは異なる。ましてや、セクシュアルな来歴や、自分の性癖にまつわること、オタクとしての生きざまなど。普段思っているけれどなかなか言う機会に恵まれない言葉には、力がある。力はあるけれどそれが、真っ当に伝わるかどうかは、それを読んだ人次第。

 

詰まるところ「キモイ」と「エモい」は、紙一重なのだ。往々にして、その差異の判断は受け手の側に委ねられる。そうした意味で、モノを作って発信する上では、誰しも性善説に立たざるを得なくなったりする。普段、僕はあまり性善説的な物言いは嫌いだったりするので、本を作ることで「どこか人に希望を持てた」という感覚が心地よかったのかもしれない。

 

ある種、モノづくりの本懐には、作りたいというリビドーの裏に「誰かに届く」という期待があるような気がする。そうした気持ちのやり取りこそ、あらゆる創作を受け入れるコミケという場に対して、僕が抱いてしまう愛着の本質なのだろうとか、思ったり思わなかったり。

 

 

最後は、まとまってもいないし、言いすぎた感も否めないけれど、やはりエモさに任せて文を書くと、キモさと隣り合わせになるというのは改めて実感した。危ない危ない。ということで、とかく簡単ながら、宣伝は出来たと思うので、今週の更新はここら辺で勘弁頂きたい。ほんとコミケが無事開催されることを祈って。

 

「宗教二世」の為のブックレビュー

この歳になると、読めなくなる本もあるよなと最近思う。

 

先週ここでも告知もさせて頂いた、おたっきぃ佐々木さんとのトークイベントが先週無事終わった。あまり何を喋ったのか詳細は覚えていないのだけれども、来て頂いた方、スペース覗いて頂いた方は本当にありがとうございました。久々楽しかったので、またやるかと思います。その際は、また是非よろしくお願いします。

 

 

ということで、今週も水曜更新。夏コミ新刊の原稿作業もほぼ終わり、印刷所へ入稿出来る状態にまで仕上げた所で、ようやく新刊の話題でも。と思ったのだけれど、再び別の話題。この頃、ニュースやらTLで盛り上がっている話題に少し触れて僕の立場から、言える事をここに残してみたい。

 

件の銃撃事件があってから、日常において「宗教二世」というワードをよく見るようになった。犯人のプロファイルが進む中でどうしたって触れなければならないワードだろう。そうすると案の定、ネットやらSNSで様々な人の語りが沸いて出てくる。思った以上に、この手の話で悩んでいる人は多いのだと驚いた。

 

と、かく言う自分もその一人。あまりこれに関する事を外に漏らしたこともないけれど、近頃余りにその単語が目に入り、多少のガス抜きをしたいと思ったのが本音。とは言っても。増田みたいな匿名の空間だったり、その為だけにTwitterアカウントを作っては、過去の恨みつらみをぶちまけるような真似は、芸風でないので避けたい。

 

端的に今自分の立場だけ書くならば、生まれてこの方、母が属する国内某大手宗教団体に僕も属しており、その組織に敵対心を抱いた訳でもなく、何なら思想や教義には賛同している。ただ、母は熱心、父親一族が猛反対という中で育ち、幼少から色々考え続け、挙句にはメンタルぶっ壊れたりして、ちょっと疲れたので今は明確に距離を置いている。というのが現況に関する簡単な説明だ。

 

ちょうどいい距離感でこの件を語るには…と考えた所、宗教二世の一人として悩みつつ「この本は読んで良かったなぁ」と感じた本をいくつか挙げることにしてみた。勿論、自分も解決済みの問題はない。だからこそ、こうした列挙が誰かの、何かの参考になれば。加えて、それを通じて僕のスタンスも整理出来れば有難い。すみません、ちょっと長くなるかも。

 

<原因療法的>

ここでは原因療法と書いたが、今抱いている直接的な悩みというより、信仰そのものについて考えるきっかけを与えてくれる作品をいくつか例示してみる。どれも、正直言って「信仰の限界」を示す作品ばかり。ではあるけれど、二世にとっての葛藤の根本は、親から与えられた絶対者、あるいは絶対的な法に疑問を抱いていいのか、端的に言えば、裏切っていいのかという点にある。

 

その葛藤を解きほぐすには、所与の信仰を一度自分の言葉に落としこむ必要があり、それは理屈のみで納得できるほど容易なものでない。ネットではこの話題について、論破やら対策と、あたかもライフハックのように解説しているのを見るけれど、信仰が本当に根付くのは、ロジックや理屈でなく、感情であり生活だ。そして、その生活にまで浸透して、信仰を考えるヒントを明示してくれるのは文学作品だと僕は思う。という訳で、ベタなチョイスになるけれど下記4選を示してみる。

 

 

1、『カラマーゾフの兄弟ドストエフスキー

信仰を問う物語としては、ここに始まり、ここに終わるという感。学生時代に読んでそれきりなので、ぶっちゃけ詳細は忘れかけている。個人的には新潮版が読みやすかった気がする。「古典中の古典」というイメージがあるかもしれないけれど、この手の悩みを抱えている人にとっては、かなり具体的事案として読めるのではないだろうか。特に兄弟がいれば尚よし(良くはないんだけれど)。僕個人はアリョーシャとイワンの関係性に痛い程共感した。やはり名作とだけあって物語のスケールも大きく、人生に残る一節も多い。悩み関係なく、一度読破しても損はない作品と思う。

 

2、『沈黙』遠藤周作

これも構図としては一緒。遠藤周作自身も『カラマーゾフ』を「名作」と掲げている通り、遠藤周作の立場から神という存在への疑問を問うた作品。2016年にはM・スコセッシ監督が映画化もしており、そちらでもいいけれど、文字で読んだ方が内省には向いている気がした。キリスト教弾圧下の日本にやってきた宣教師の葛藤を描く作品で、ひたすらに救われない。「何故この場面で神は救いを齎さないのか」という疑問に読者も向かい合う羽目になる。構成もシンプルかつ短く、日本の話なので『カラマーゾフ』より読みやすいとは思うが、案の定タフではある。独特の読後感と共に、自らと向かい合えると思う。

 

3、『疾走』松重清

高校時代、個人的には現代版の『沈黙』のような気持ちで読んだ気がする。端的に言ってしまえば、主人公がひたすらに報われることなく、人生の坂道を転がっていく話。その転がり方も『疾走』のタイトル通り激しく、むごい。10代で読み、トラウマ化した作品。個人的には、ちょっと過激な描写から本筋とは異なる興味関心を抱いてしまい、拗れてしまったのはまた別の話。とかく、この物語を通しては、そもそも「人が救われるってなんだろ」みたいな内省と向かい合う事になる。親や環境、逃れようのない「不幸」という概念の泥沼で「救い」とは、どのような概念なのか考えさせられる一冊。

 

4、『るん(笑)』酉島伝法

2020年に発刊され、各所に鈍いタイプの衝撃を与えたカルト系日常SF小説。展開も奇抜で非常に引き込まれ面白い。読んでよかったとは思うけれども、やはりしんどかった。スピリチュアルと科学が逆転し、迷信が常識化した近未来の日本社会のリアルな描写に、自分の過去が過ったり、色んな人の顔が浮かんだりしてくるのもキツイ。この作品では、むしろ信仰云々というより、「信じる」という事と「社会の繋がり」がいかに密接なものであるのか、嫌な角度から抉ってくるので、一度身の回りや自分のスタンスを冷静に見つめなおすにはいい薬であると思う。

 

 

と、以上挙げた通り4作。どれも基本的には宗教に対して懐疑の目を抱くような作品で、フェアじゃないと怒る人もいるかもしれない。しかし、これは二世の立場をフラット化させるための処方箋であり、そもそも二世の人生自体、信仰を考える上でフェアな土壌にない。

 

親に、教養やバランス感覚が備わった家庭であれば、また違うのだけれども、大体泥沼まで悩む羽目になる家庭はそうでない。生活や家族の形を維持する為に宗教が必須になっている家庭だからこそ、子は悩まざるを得なくなる。そして反論や懐疑は、そのまま家族を壊すことになる。

 

そうした中で、上記4作は信仰や迷信、また自分ではどうしようもない生まれによる絶望を扱っている。しかし物語におけるバッドエンドや絶望というものは、案外、現実における絶望から人を救ったりする。古来から人は同じようなことで悩み、足掻き、裏切られているという事を知ることで、自分の懐疑や裏切りが多少許された気持ちになる。正直、この気づきは大きい。だからこそ、原因療法的。まずは、文学による追体験を得て、自分を狭い罪の檻から解放するという事が重要だと感じる。

 

<対症療法的>

ここからは対症療法的な本を列挙する。何をもって対症療法なのかと言えば、こうした二世の生育の中でしこりになるのが、自己肯定感の歪みによる生きづらさだったりする。教義が幼少から日常に組み込まれ、成長する中でそこから外れていくことは、自己乖離的な感覚に繋がる。いつまでも「絶対的な正しさ」に沿って歩ければいいのだけれど、道を踏み外した時の自責の念は、通常の反抗期や親離れと比べ大きいものになり得る。

 

また、愛着に関する問題も生じやすい。そうした家庭で親が子供を見る時、どこかで信仰というフィルターが掛かっている。子が何を言ったところで、最優先されるものが別にある。大体、こうした目線に子供は気づく。直接的に、親が自分を「直接見ていない」という事を薄っすら理解してしまい、少しずつ自己愛の形にズレが生じたりする。なので、大人になってから、承認や愛着以外のアプローチで自分を肯定する事を学び、少しでも安心できるような本を、また4冊ほど列挙してみたい。

 

1、『当事者研究の研究』石原孝二(編)

当事者研究」とは、精神障害などを持つ当事者が、自分の精神障害について研究をするという試みで、20年ほど前、北海道「浦河べてるの家」という共同生活の場で始まったものだ。それについての論文集がこの本。一応医学書扱いという事もあって身構えたものの、読みやすく、衝撃を受けた。保護を受け、病気を治し、社会復帰を果たすという想像しやすい「回復」はそこになく、障害は障害として、自分の一部であると受け入れ、開示し、共有する。それが決して綺麗ごとでなく、生きる上で必要な手筈であるとひとつひとつの論文が丁寧に教えてくれる。自分含めたあらゆる人を肯定する上での重要な示唆が詰まっている。

 

2、『断片的なものの社会学』岸政彦

社会学者であり小説家でもある、岸政彦さんの手がけたインタビュー兼エッセイ集。本筋の研究の合間から漏れ出てきた「社会学とまではいかないけど、社会の中で生きる人を考えるには重要なエッセンス」を少しずつ集め、一冊の本に纏めたという本。大阪をメインに展開される軽妙で多種多様な人々との掛け合いからは、誰しもが、独自の人生を、自分の足で歩んでいる事を痛感させられる。同氏が編集した『東京の生活史』というクソ分厚い本も同様。多様性をそのまま喰らい、誰かの人生を静かに覗くことにより、時に重要な知見を得る事が出来ると思う。

 

3、『野の医者は笑うー心の治療とは何か?ー』東畑開人

臨床心理士の東畑開人さんが、沖縄で怪しい民間療法師やらヒーラーと出会いながら、その本質に迫る一冊。とはいっても、悪徳業者を切る!みたいなテンションでは決してなく、自ら積極的にその施術を受けて回り、取材をしたりしながら、現代の心理療法そのものが実は曖昧なものではないかという問題提起に繋げる面白エッセイ。勿論、上記で掲げた『るん(笑)』のような世界観が裏にありながらも、その実態を見れば極めて人間的。何を信じようと、どんな思想だろうと、そこに在るのは、結局色々な人生。今まで憎んでいたはずのモノすらも、憎めなくなる東畑さんの作風は、他の著書にも通じていて全般おススメ。

 

4、『ゲーテ格言集』

急に古典かつ、どストレートな本だけれども、結局僕はここに帰ってきてしまう。学生の頃から、読む本がなくなると持ち歩き、本の端を折るドッグイヤーをし続けたら、ほとんど折れ曲がってしまい意味がなくなってしまった。それ程にツライ事があるとこの本を開いていたのだと思う。相談できる人も、頼れる親もいない時に、やはりこういうザ・文豪の一言には力がある。ふとした時に力を貰える。この存在に何度助けられたか分からない。こういう「この本の前では親以上に素直になれる」一冊というのは、持っておいて損はない気がする。

 

 

ということで、以上4冊を挙げてみた。最後を除いて「多様性」を受け入れる論調が強い。やはり、承認や愛着といった角度以外で、自分を肯定するには、まず他者を肯定できる心を持つのが安定的だと思う。誰かを許せるから、自分も許すことが出来る。こうした気持ちにさせてくれる本をピックアップしてみたつもりだ。

 

そして『ゲーテ格言集』においては、頼れる思想を手元に抱くことが精神的安定を生んでくれるという好例。親は所詮、どこかで交わった男女でしかなく、家庭環境という意味では大きな存在だが、所詮生きていく上で必要な「何か」を確実に与えてくれる保証はない。勿論、親に対する感情は人それぞれなのだけれど、家族によって追い込まれた時に、自分を支えてくれる親以外の存在が、僕にとっては読書だったりした。活字は、いい意味での逃げ場を作ってくれることもある。

 

その場に居て自覚するのは難しいが、今見えている環境が全てではない。そこから得てしまった短絡的な決心は往々にして、悲劇しか生まない。実際、そうなりかけた場面も多くあった。そんな時、少しでも余裕を得るためには、ネットで恨みつらみを吐き出すでもなく、信頼のおける本と向かい合うことを是非勧めたい。上記だけでなく、沢山の良書がある。人の世はとことんクソに思えても、案外捨てたものではないと教えてくれるかもしれない。

 

 

と、珍しく時事に絡んだ事を書いてみた訳だが、思った以上にタイピングが進んでしまい、案の定長くなってしまった。僕自身も色々と溜まっていたのだと思う。こういうことは余り書くべきことではないのかもしれないが、共有する意味が多少なりともあると、ここ数日のネットを眺めて思ってしまった次第。

 

とかく、週一ペースでこんな気負っては続けていけないので、次週以降はまた気を楽に持って何かしら、気になった事を書いてみたい所存です。コミケ、ちゃんと開催されるといいなぁ。

 

 

「多様性」という言葉と心根について

情報過多な一週間だったような気がする…
更新に先んじて、明後日イベントがあるのでここで宣伝。7/15(金)たまーにお誘い頂いて不定期配信をしている、おたっきぃ佐々木さんとオフラインでトークイベントみたいな事をやります。性癖やらオタク話をしながら飲むというイベント。秋葉原で開催予定ですので、お暇な方は是非に。

 

ということでここから本題。毎週水曜に更新しているわけだけれど、こう1週間で余りに大きな出来事が続くと、何を書けばいいのか分からなくなる。周囲の関心を集められそうな時事ネタに寄せるべきか、はたまた硬派に、まるで関係のない話題でいくか。
 
 
そういう時、潔くスパッと決められればいいのだけれど、結局のところいくつかのテーマを浮かべては消し、浮かべては消し。ぼんやりとそれらから共通項を見出してみては、ちょうどすべての話題と等間隔にあるような言葉を抽出し、テーマにしてしまった。今週も色々な事を頭に過らせながら、比較的短く、簡単に書いてみることとしたい。
 
 
 
ここ数年、よく聞くようになった言葉の筆頭として「多様性」というものがある。今回の参院選でも争点のひとつとして捉えられていたのではないだろうか。
 
 
この言葉は、旧態依然とした一律的な発想を抜け出して、性差や趣味趣向など幅広く他者を認めていこう、というスローガンに使われることが多いように思う。近年セクシャルマイノリティの主張を皮切りに、働き方改革やこのコロナ禍を経て、一気に社会に広まった言葉の一つだ。
 
 
そして案の定というか、やはりこの言葉を巡って、ネットでは様々な議論を見ることが出来た。やれフェミニズム勢が女性の権利を叫ぶための論拠にしてみたり、あるいはガラパゴス化・硬直化した古い日本産業や文化の批判に用いられたりと、なかなか万能なワードである。
 
 
ただ一方で、そうした主張に対して、こちらも既に手垢がついた反論が投げつけられる。「多様性を掲げながら、他者の権利を妨げるのはおかしい」「ガラパゴスも多様性の一つではないか」などといった具合だ。
 
 
これら応酬を見てわかる通り「多様性」という言葉の性質上、何かを主張する根拠に使うと、それに反駁する他者も認めなければならないという縛りが生まれる。
 
 
そうすると何が起こるのかと言えば、理屈の上で結論に行き着かなくなり、上記の通り議論がぶっ壊れてしまう。正直なんでもアリになる。水掛け論に次ぐ水掛け論。一見万能に見えて権利主張に使うには余程明らかなマイノリティでない限り、何も生み出さない、虚無に近いアイデアでもある。
 
 
勿論、虐げられた人々が権利主張に使うのは合理的だと思うのだけれど、僕自身、一時期この言葉を聞くと辟易するというのが本音だった。詰まるところ「何をしても私を認めろ。」こうした脅迫のようにも聞こえてしまう。強く権利を叫ぶ人の為に、自分の信念を捨てることが「多様性」に従事することになるし、どれだけ阿保らしいと感じた事にも付き合わねばならぬのが「多様性」への貢献であったりする。
 
 
こんな事を考えていると行きつく先はニヒリズムリバイアサンだ。虚無か闘争。多様性に黙るか、多様性で殴り合うか。結局、耳触りがよいだけの無用な言葉なのだろうか。ネットを眺めては、そんな事を考えていた。
 
 
しかしながら、既にここまでこの言葉が世に広まっているということは、どこかで皆が「日本社会に不足しているもの」あるいは「社会は多様であるべき」という認識を持ち合わせているからなのだと思う。では、この「みんな違ってみんな良い」という考え方が我々を引き付ける根本的な発想は、どのようなものだろうか。
 
 
実際、答えはいたってシンプルで「他者を他者として許す」という姿勢のように思える。多様性を自分が強く主張する前提で使うと上記の通り、議論が立ち行かなくなる。むしろ、本来の使い道は、他者を許すことで自分も許されやすい環境を作るという、他者依存的な概念と言える。
 
 
「多様性」というワードの面白さは、この言葉を使う人の心根によって、露骨にその意味が生きたり、死んだりする。強い自己主張に使うと意味は雲散霧消し、他者容認の姿勢になることでようやく本来の意味を帯びてくる。いくら声高に「多様性」を叫んでみても、実際に多様な社会になるどうかはそれを聞いた人の態度によって決まってしまう。最初から言葉の意味に相互性が付与されているからこそ、この語は使う人の態度を如実に示してしまうのである。
 
 
こういう事は、何もこの言葉に限ったことではない。マジョリティをうち倒すためのマイノリティの言葉だからといって、権利を何にでも振り回していいわけでなく、与党を非難する立場の野党だから安易に過激な言葉を使っていいわけではない。公共的な価値を考えるためには、利己を超えて言葉を扱う姿勢や、その人の心根が問われたりする。つまり自分の為だけに「多様性」や「権利」が存在することはあり得ない。
 
 
また「多様である」という事は、先にも書いた通り、誰かが誰かを許すことであり、または誰かが誰かを諦めることだ。自我の執着から離れ、人と自分の間に無を受け入れる事。かなり仏教的な発想であるように思えるけれど、法華経で女人成仏や悪人成仏が説かれていたりするわけで、要するに昨今の人権の多様性重視という話は、誰だって成仏できる、つまり許すと説いた大乗仏教ブームにも近いものを感じる。
 
 
人には皆仏性が備わっているのだから、命あるものを全て救っていく。綺麗ごとのようだけれど、これが多様性の正体であり、本質なのだろう。よって自分の都合で多様性を他人や外部の社会にだけ求める事は、やはりお門違いだったりする。要するに「認めろ」というベクトルの時点でそれは多様性でない。自分を多様の一人として認め、諦め、多様の一人として他者を見る。そういう一種の境涯を示す言葉のように僕は思う。
 
 
 
なんていうか、冒頭にある通り色々と考えさせられる一週間だった。銃撃やら参院選やら。とてつもない事件があり、いやまして選挙の時というのは、とりたてて普段気にも留めないフォロワーの政治信条が垣間見えてしまう。あ、あの人、そういう発想なんだ。こういう考え方なんだ。思った以上に、色々なものが現われる。
 
 
そうすると、こういう発言をしたらあの人に切られるなとか、嫌な思いをさせるかもしれないな、という事も過ってくる。飲み屋でタブーになるのも分かる。色々な意見が存在することに、それを許すべきことに対して虚無感を抱いたりする。しかし、ニヒリズムと隣り合わせでも、やはり世は多様であるべきだと、ナイーブになりっぱなしな自分に喝を入れる。
 
 
同人誌を作っていても、ブログを書いていても「これ、何の意味があるんだっけ」と自省を始め、タイプする指も止まりそうだったけれど。一人くらいこんな人間がいてもいいだろう、という婉曲なセルフ励ましのような話。
 
理屈も話も取っ散らかっているけれども、今日はこんな所で、更新出来ただけ良しとしたい。
 

Twitterを13年続けて。見知らぬ人を偲ぶこと。

13年という時の重さに潰される。

7月になってしまった。毎週水曜ということで今週も更新。コミケに関することを書き連ねるつもりが、Twitterを通じてちょっとした感傷に浸ることがあったので、そちらを優先して書いてみることにする。

 

 

Twitterに日々勤しむ勤勉な方であれば見た事があるだろう。毎年Twitterを始めた日が、勝手に記念日にされ、リプ欄に突如「記念日おめでとうございます」という文字が現れる。ハッキリ言えば、日々の貴重な時間の中で、ダラダラとSNSに依存を続けた年数が如実に示されるという意味で、決して喜ばしい日ではない。

 

画像にも掲げた通り。僕に関して言えば、今年の7月で13年が経過したという。ネットという虚空に向け、140文字以下の情報を淡々と打ち続けて、既に気づけば15万ツイート近い。ふと『コンタクト』や『三体』といったSF作品を思い出してしまった。

 

果たしてその13年という時間で、僕は何を得られたというのか。未知の存在からの返答はあったのだろうか。まぁ正直、そうした虚無感にちょっとした恐怖すら感じた訳である。そして虚無感ついでに「僕はなぜこんなツールを眺め続けてしまっているのか」という自問に至った次第。

 

そもそも現在のTwitterは、見ればすぐ理解できるほどに混迷を極めている。様々な主義主張が乱れ飛び、毎日言い争いや、お気持ち主張を眺めるには事欠かない。そういえば5年前、僕はここでこんな記事を書いた。

wagahaji.hatenablog.com

クソリプ」という言葉が丁度定着した頃だった気がする。バズったツイートに対して求められてもいないのに自分の意見や経験を投げつけたりする「クソリプ」に対する分析と、ある意味それは人間らしい営みなのではというフォローを加えてみた与太話だった。

 

当時はネットマナーをちょっと角度を変えて論じたつもりだったが、最近ではこの「クソリプ」も、ユーザーからはTwitterの基本的な仕様のひとつであるように捉えられている節がある。

 

かなりの人は、引用RTで高圧的なコメントすることに躊躇がなさそうだし、むしろ「聞かれてもいない体験談や意見を、誰かに投げつけつけられるストレス発散ツール」だと考えている人の方が、マジョリティになっているようにすら見える。まぁ、間違いではないのだけれど。

 

要するに、多くの人がTwitterを使うようになり、もはやエンタメニュースとワイドショーを垂れ流していたマスメディアとその性質は何ら変わりがなくなったという事だろう。昭和生まれなら理解出来ると思うけれど、あの頃ミッチーとサッチーの確執を毎日のように報じていた番組と、それを眺めていた視聴者という構図が、現在SNS上で再現されている訳だ。人はやはりどうしたって揉め事が好きなのである。

 

僕らはあの頃のそんなマスメディアを下らないと思って、ネットに引きこもったというのに。もはや安息の地は失われてしまったのだろうか。あれ、考えていたのは、Twitterを続けていた理由だったような…と、こんな調子でSNSへの愚痴を書けば書くほど、タイピングが速くなってしまったわけである。

 

 

と、真面目にこんなツールを使い続けてしまっていることに疑問を抱き、ふと理由を考えていたりしたのがここ最近のこと。そんな折、ある人の事を思い出してしまい、こんなツールが齎してくれた恩恵と、僕がネットの先に何を見ているのかという話が薄っすら浮かんできたので、今日の本題として残してみたい。

 

 

とある新聞社に福田さんという記者の方がいた。オタク関連の記事を愛を持って書いてくださる文化部メインの名物記者で、Twitterでは(福)さんとして知られていた。個人的には氏の記事を読み、精神的に救われたこともある。僕が評論同人誌作成を始める端緒になった一人だった。

 

まるですべてを受け入れるかのような懐の深さで、コスプレや着ぐるみ文化にも造詣が深い。最早何をきっかけに関わりを持たせていただくようになったかまでは覚えていないけれど、確か僕もそうした趣味の方面でフォロー頂いたような記憶がある。

 

しかも毎度、僕が夏コミ冬コミと発刊する同人誌を購入頂いていた。現地では買えないからと、わざわざ連絡を貰い、ご住所に発送していたのも懐かしい。都度感想も下さった。

 

その中で、一度。ぜひ直接お会いしたかったのと、そのオタク文化への思いについて詳しくお話を聴いてみたかったこともあり、僕の同人誌での取材の申し込みをしたこともあった。丁寧に対応下さったけれど、その時はちょうど忙しい時期が重なってしまい「是非、また」ということで話は流れてしまった。

 

そして昨年21年6月。福田さんは49歳で亡くなった。くも膜下出血だったという。Twitterで訃報を知った僕は、強く、後悔した。「是非、また」じゃなかった。すぐにでも、機会を別で作り、会いに行けばよかったのだ。本当に会いたい人、行きたい場所について、チャンスを逃してはならないと心から悔いた。

 

しかしながら、後悔と共に、ふとこんな事を思った。氏の事をここまで強い気持ちで偲ぶことが出来たのも恐らくTwitterのおかげであることは確かだった。僕が趣味やら生活やらで適当な事を日々吐き、それを福田さんが見つけてくれたこと。それは、ある種の奇跡だった。そして、彼が亡くなった折に、ここまで氏の事に深い悲しみを覚えたのも、SNSを通じて縁が生じていたからである。

 

先月。福田さんが亡くなって1年が経った事をぼんやりと思い出し、まだ残っている彼のアカウントを覗いてはその言葉を追ってみた。人との出会いというものは、自分の意思だけで決められるものではない。結局、会う事は叶わなかったけれども、こうして残された言葉を通して、どこか繋がっている気がする。SNSを眺め、見知らぬ人を偲ぶ。不思議な気分だった。

 

冒頭『コンタクト』や『三体』を挙げたけれど、案外僕がTwitterを続けてしまうのはそういう所だ。この意味のない140字以下の情報が、どういう形でか、得体の知れない人に届く事がある。それによって齎されることは、パニックSF映画のように良いことではない事もあるけれど、少なくとも僕にとって良いことの方が多かった気がする。

 

なんだかんだで、人は一人で生きられない。寂しくなったりする。だからこそ人と人の感情が露わにになる揉め事も好きだし、得るべきでないと分かっている他人の情報すら報酬系は求めてしまう。下らないと分かっていながら、やはり人や人に纏わる何かを求めるのは仕方のないことなのだろう。

 

Twitterというツールを眺めて13年が経った。自分の人生において多くの時間が無駄になっているのは間違いない。それでも、そこでしか得られなかったものまで、否定することも出来ずにいる。言葉がネットの海に残り続けることは、今の時代では勿論大きなリスクだけれども、僅かにでも残る確かな思いと、その可能性を信じてしまうからこそ、適当な言葉を吐き続け、その場所を未だに捨てられずにいるのかもしれない。

 

 

梅雨が本当に明けたのか分からない中途半端な天気の中で、感傷に浸ってしまったお話でした。こんなこと書きながら、怒られないよう徐々に夏コミ新刊の準備も進めております。そろそろ言葉通り、同人誌に関する話題も載せられるよう精進していきたい所存。日々の暑さに疲れるけれども、少しずつ前に進んでいきたい7月初旬でした。

 

「推す」という語の本質を考え出してしまった話

アクスタ初めて買ったわ。

 

クソみたいな暑さが続く。

 

先週「梅雨真っ盛り」と書いたはずなのに、もうその梅雨が明けたらしい。通常、入梅して多少の晴れ間があって、また曇天を繰り返し、7月上旬~中旬にかけて「やっと明けたか」と言っている記憶が強い。

 

最早、何が異常で何が正常なのかも分からない中、週一更新ということで今週も今週で面倒なオタクの内省を晒していくこととする。

 

 

オタクの世界において「推す」という単語は、もはや広く一般化したと言っていいだろう。最近「かつてオタクは好きなキャラを「嫁」と呼んでいたが、昨今ではオタクが嫁を貰う甲斐性もなくなった挙句、一定距離を保って見続けたいという願望から「推す」という所に留まるようになった」なんていうネタをどこかで読んだが、辛辣で笑った。

 

実際「推し」って言葉は、ドルオタ界隈の発祥単語だと思っている。(特段ソースを調べていないけれど)リアルアイドルを前にする現場でいちファンが「嫁」なんて呼称を使った日には、そりゃ同志の間では空気が悪くもなる。「推し」という言葉の距離感こそ、同担を現場内で共存させるには程よい温度感ではないか。

 

そうしているうちに『アイマス』『ラブライブ!』『WUG』『プリパラ』やら、アイドルアニメブームが一気に押し寄せた結果、先のドルオタ文化と重なって、オタク全般好きなキャラに対する呼称として「推し」という語が一般化したのでは、というのが簡単な推測。

 

ただ、僕個人。世代の問題なのか、どうもこの「推し」という言葉に二の足を踏みがちだった。むしろファナティックの略である「ファン」の方がすんなり理解が及ぶ。一方で「現在は好きなキャラやアイドルを「推し」と呼ぶんだから従えばいいじゃない」っていう話もその通り。その通りなんだけれども、なんか「推し」って違うんだよなぁ。と前々から思っていて。

 

ということで今日は、この言葉の意味についてうだうだ書いてみる。

 

 

 

もとより、僕にとって「推し」と呼べる存在は既に居た。ここでも以前散々まくし立てた通り、声優の堀江由衣氏と上坂すみれ氏。それぞれラジオを長時間聞いたり、現場にも行ったし、元よりファンであって、今風に言えば間違いなく「推している」訳だ。

 

ただ、僕は元々アイドル文化がなんとなく苦手であった。元来の人間不信も相まって、昔からテレビで見るようなアイドルには裏があるとぼんやり思いこんでいた。外見がとかく優先される風土もどこか馴染めなかったり、実態がどうだったに限らず、とかくあの商売の形態が苦手だったのだ。

 

だからきっとアイドル的な印象がある「推し」という語に対しても素直になれない気持ちがあったのだろう。それにも関わらず、何故上記声優を「推す」事が出来たのか。その答えは、やはり新たに「推し」が生じる過程を通過する中で気づくことになる。

 

その対象は、ホロライブ所属のVtuberの尾丸ポルカだ。ポルカおるよ、でおなじみホロライブ5期、サーカス団の座長を目指すフェネックこと尾丸ポルカだ。

www.youtube.com

 

そもそもVtuberにハマったのが、昨年の11月。知人に勧められたのが最初であり、早々にVtuber自体飽きると思っていたのだけれど、今もってその熱量は続いていたりする。

 

よく、Vtuberに対しても「ガワを被っただけのアイドル」という批判がなされるけれど、逆に僕には好都合だった。アイドル文化に対して感じていた生々しいルッキズムが、Vtuberとなることでオブラートがかけられたように映る。詰まるところ、3Dアバター化したことにより、僕個人が抱いていたアイドル文化への苦手な点が薄まったのも、この世界にハマった一因だろう。

 

その上で、明確に尾丸ポルカに対して「推し」を意識したのは今年の1月。彼女の生誕祭ライブイベントだった。普通、生誕祭なのだから主役は彼女だ。にも拘わらずそこでポルカは、自らソロで歌う場面を作らず、前面に出る事を敢えてしなかった。むしろ周囲のメンバーを呼んで、ライブをプロデュースをするという立場を取った。ホロライブという枠の中で自分が見たいものを演出し、我々に提供したのである。

 

勿論Vtuberとはいってもアイドルなのだから、自分が見られてなんぼの世界なのは前提のはずだ。それでも「本当に好きなモノを作りたい、むしろお前らにそれを見せたい」という彼女の思いを喰らった時に「あぁ、この人。オタクとして信頼出来る」と悟った。その後、チャンネルをサブスクし、彼女の雑談配信やらゲーム配信やらを眺める中、生誕祭に抱いた信頼感は一貫して尾丸ポルカというタレントの気質に通ずるものだと確信した。

 

要するに、この「信頼」こそが、僕にとって誰か、何かを「推す」為に一番重要な事であると気づいたのだった。

 

これまで書いてきた通り、僕がアイドル文化に対して苦手意識を抱いていたのは僕個人の身勝手な不信感が原因である。アイドルの二面性(を勝手に邪推したり)や、ファン側からも外見を優先する(と勝手に邪推する気持ち)ことに対し、「そこに双方への愛はあるんか?」と懐疑の目を向けてしまっていた。

 

そんな苦手意識が、Vtuberという枠組みにより、配信で長時間そのパーソナリティに触れ、パフォーマンスの裏側が知れたりした結果、自然と懐柔されてしまったわけだ。声優に対してアレルギーが働かないのも、多分基本的にラジオ文化が浸透しているからだと思う。トークを何時間も聴いた上で、僕は人格として信じられるか否か、つまり推せるか推せないかを判断しているように思う。

 

尾丸ポルカという存在に、アイドルに対する先入観を浄化され「推す」事の本質を、改めて知った気分である。多分そんな事が言いたかったのだろうけれど、余り纏まっていないのでこの辺で終わりたい。

 

自分で言っておきながら本当に面倒くさい性分である。何なら、Twitterのアカウントに「推しマーク」(キャラ毎に推している事を表す絵文字)を付けるかどうかで、当初1か月くらい悩んだ気がする。現在では、しれっとマークを付けているものの、それほどに「推し…とは」みたいな事で悩んだのだ。とことん、どうしようもない。

 

加えて書きながら思い出したのだが、5年前にも『Wake Up Girls』を鑑賞した際、今日と同じような記事を書いていた。まるで成長していない....…

wagahaji.hatenablog.com

絶望しながらも、とりあえず今週も更新出来たので、少しは自分を褒める事にしたい。そろそろ、次週辺りコミケの話題でも出したいところです。

 

梅雨とネットとひとりの独り言

紫陽花が咲くくらいしかいいことないよね梅雨って。


気づけば梅雨真っ盛り。今週も水曜ということでなんとか更新。

 

空を見れば雨がいつ降ってもおかしくない曇天に、全ての毛穴が埋められてしまったようなジメジメ感。なんだか湿気だけで窒息しそうである。加えて、生来の偏頭痛持ちと来た。数か月は持つだろ、という見立てで買った90錠のバファリンがあり得ない早さで消える中、正気を保って仕事するだけで精一杯だ。

 

こんな中、明るいことを考えろという方が無理筋。日々ネットを見ていても、面白くもなく、何事にも興味関心が沸いてこない。むしろ、何かに怒り、吠えている人を見る度、少し羨ましさすら感じたりもする。

 

ということでコミケ原稿を少し脇に置いて、ネットにおける面白さについての暗い内省の話を今回はしてみたい。あまり爽やかな話題でもないので、ジメジメしてても嫌でない方はどうぞ。

 

 

 

昔からあまり仲良しグループみたいなものに属するのが苦手だった気がする。

 

同じメンバー、同じ話題、同じノリ。それらが1、2か月も続くと、大抵飽きてしまっていた。その集うメンバーが変わろうとも、大体5~6人くらい集まって、ワイワイしているとグループならではの組織的同一性が生じてくる。そして「あ、この流れ見たな」とぼんやり思ってしまうと、自然とそこからフェードアウトし始めるというのが、僕の小さい頃からの悪癖である。

 

なので、却って仲違いするような関係は、学生時代からなかったと言っていい。誰とでも比較的仲良くは出来る自信はある。だけれど卒業式など「やっぱり最後は仲良しグループだよねー」という空気が場に流れだすと、もう僕に居場所はない。どこのグループにでも顔を出す事は出来ても、どこにも落ち着きを感じる事が出来ず、結局一人で帰ってしまう。そういう類のぼっちだったという記憶がある。

 

何故こんな薄暗い青春時代を突然思い出してしまったのかと言えば、どことなくSNSというかTwitterを見ていて、そういった感情が沸いてきてしまったからだ。

 

バズるネタ、には人が集まる理由がある。そして人が集まる所、というのは、そりゃ面白いものが生じている事が多い。あるいはそこに多く人が集まったからこそ面白い事になることもある。過去から現在に至るまで、集客力は面白さのバロメーターだ。多くの人が「面白い」と思うモノを目指すというのは、理に適っている。経済的にも恩恵が生じやすい。

 

そして、多くの人が共感をするには、やはり同一のフォーマットが必要になる。違う話題でもどこかで似通ったりしている。人によって感情のポイントはズレているというのは確かだが、ただズレているだけで共通項の方が多い。だからこそ「多くの人が共感を寄せる」という現象が起こる。バズるネタがこれだけ日々流れ、目にしていると「まぁ、この話題はバズるよな」という事が薄っすらと感じられる。そうした共通項の在り処は、SNSによって、かなり可視化されてきている。

 

その末に僕が感じてしまったのは、やはり詰まらなさというか、完全なる飽和だ。あの頃に仲良しグループで感じた「また見た流れだ」という連続。やはり人が多くなればなるだけ、共通項に沿った発信が増える。最近ではAIにお株を奪われているが、ディープラーニングなど長年人間のお家芸だったはずだ。人々は少しでも流行ったネットミームを発言に組み入れ、最新の「バズ」を発言に載せていく。

 

現状生活や収入に対する不満を煽ってみたり、あるいは陰謀論やトンデモ論を振りかざす人を刺してみたり。今、ネットによって私たちは情報を得ているというよりも、集客を得やすい文脈を日々学んでいるといった方が的確かもしれない。人から注目を得やすいツイートの傾向を常に仕入れては、開示する。開示されたツイートから更に、集客を学ぶ。昨今のアルゴリズムは、注目を得ているツイートをTLに表示させるのだから、この傾向は更に加速する。

 

やはり僕は、こうしたグループ内というか、寄ってたかって語りだすような、同じ文脈ありきなネタみたいなものが、あまり好きでないのかもしれない。

 

人は集団化した時点から陳腐化が始まる。家族だろうが、友人関係だろうが、社会が生成された時点で身内ネタが生じる。身内ネタというのはある種、面白さの再生産だ。思考不要で、過去の経験則を踏まえるだけで楽しさを生成出来る。そして、身内の枠が広がれば広がる程に、面白さの共通項は薄っすら伸ばされながら、全体を覆い尽くす。それが今のネットに在る空気感だと、ふと感じたりする。

 

そうした日々に多少嫌気が差している状況で、少し冒頭の中学時代の話、その続きを思い出した。同じクラスに、ほぼほぼ年間を通して不登校だったAというヤツがいた。そんなんだから、大して仲良くもないし、印象にもあまり残っていなかった。それでもAは卒業式に学校へやってきた。

 

突然の登校に多少周囲がざわついたものの、Aは終始俯き加減で、ほとんど誰とも会話することなく1日を過ごした。そして偶然、というか冒頭に書いた通り、僕も卒業式の後は、ぼっちですることもなかったので、面白半分にAに話しかけてみた。「今日、来たんだ」「まぁ区切りだったし。」そんな回答だった気がする。

 

加えて聞いた。「実際、何してたの?」と。そうすると、Aは「バイトとラジオを聴いていた」と言う。その頃僕も深夜ラジオにハマり倒していた頃で、周囲に話せる友人がなかなかいなかった。気づけば、短い時間だったけれど彼とANNやらジャンクやら、そんな話題で盛り上がり、Aの話っぷりには少しセンスすら感じた。本来、Aが通学していればもっと話せたはずだったのに、正直惜しい気持ちがした。「なんでこれまで学校来なかったんだよ」と冗談めかして言うと「ラジオ聞いているより詰まらないし」と一蹴。

 

勿論、彼は彼なりにツライ事があって、不登校になってしまったという話も噂で聞いていた。それでも、こんな面白さを秘めていたなんて。

 

中学時代なんてバカやって、クラスの中で人気あるヤツこそが面白い、みたいな風潮の中、Aの在り方は僕にとって一つカルチャーショックだった。たった一人でも、スタンドアロンに面白いヤツっているんだ。その事実を、Aは教えてくれた気がする。

 

むしろ、今。周囲の評価やらネタに流されることなく、本当に面白い事が見れるのはやはり個人の衝動だと思う。大衆の目でなく、一人の意思を優先すること。色んな価値観が過渡期を迎えていて、様々なコンテンツが、様々な形式で発信される中。淡々と何かを為していく人というのを僕は応援したいし、そしてそう在りたいんだよな、という愚痴半分な独り言でした。

 

こんな感じの記事を書き終えてから、ダ・ダ・恐山氏がこんな記事ツイートでバズっていた。そうそう。俺もこういう事が言いたかったんだよ。

正直、このツイートを見てからこの記事を出すのはサブイので、ボツにでもしようと思ったけれど、勿体ないので掲載してしまった。周囲の尖った方々を見ては、ちゃんと自分の尺度を持ち続けなければと思う次第です。梅雨ですが、なんとか生きていきたいところです。

 

紙媒体で同人誌を出すことについて

久々に文庫本を読んだ気がする。


メールボックスやらクラウドサービスを2度見、3度見する。

 

今日アップする記事。書き上げていたはずのデータがどこにも保存されていない。もうアップするだけと思っていたから、酒もある程度飲んでしまった。これはなかなかショックだ。週一回は更新を続けるという意思が3週目にして折れかける。

 

ということで、なんとか途中まで書きかけた文章を引っ張り出しながら、必死に書き繋いでいる。紙ならこんなことはないのだけれど…というボヤキと共に今回のテーマを何とか書き上げていきたい。ということで以下、本題。

 

 

夏のコミケに受かっていた。コミケという文化もコロナで2~3年離れていたら、もはや現実味のないイベントのように思えている。10年近くせっせと本を作っていたというのに、喉元過ぎてしまえばそんなものである。コミケというイベントへの思い入れだったり、具体的な同人誌に関するネタや企画の話はまた今度にする。

 

今回は、そのもう少し手前の部分。同人誌そのもの、「紙媒体」という所に焦点を当てて話しをしてみたい。

 

そういえば「電子書籍元年」そんな言葉を、雑誌や新聞でよく目にしていたのは、今から10年ほど前くらいからだろうか。スマートフォンタブレット端末が世に普及し始め「今後はこれで書籍や新聞、記事を読むんだ!」みたいな、謎の意気込みを感じられる記事が幾らでも読めたあの時代。

 

今から思えば「そんな語調強めなくても、自然にそうなるって。」とは思うのだけれど、それ程までに、人類はメディアとしての紙に依存していた、という事の裏返しだろう。思い出されるのは、小学校時代の勉強机の上。並んでいたのは、使い古された国語辞典や英和辞典に和英辞典、更に何版かも分からない広辞苑が、開かれる事もなく有難みすら伴って鎮座していた。

 

当時の僕はと言えば、未来の知恵たるインターネットがもたらすであろう電子書籍に希望を見ていた一人の少年だったわけで。中学時代からひたすら古本屋で買い漁った文庫本や漫画本が発するかび臭さに多少の嫌気を感じ、「元年」記事に同調するように「つーか電子書籍だろこれからは」と鼻息荒く、各社から発売される端末情報をチェックしていた覚えがある。

 

そんな思い出を頭の片隅に置きつつ、時を今に戻そう。スマホを持つことがひとつの人権になり、iPadやらkindleやらといったタブレット端末を個人で数台保有しててもおかしくない。漫画雑誌が電車の網棚に置かれているのを見たのは、いつが最後だったかも覚えていない。

 

更に消費者目線だけでない。同人誌作りという哀しい趣味に手を出してしまった身としては、同人誌ショップやDLサイトが運営してくれる電子版販売という存在は非常にありがたい。在庫管理の必要もなく、紙のような品質劣化も心配することがない。在庫保有を気にせずとも、定期的に購入者のおかげで月に多少ながら実入りがある。

 

こと「本」という文化圏において。紙としてのメディアの意味はどこにあるもんなのか。電子版の便利さを感じてしまうと、かなり疑問に思うし、紙が駆逐される傾向はいや増して加速していくだろう。それは間違いない。

 

と、そんな日々の中で最近、何の気なく昔好んで読んでいた文庫本を読みたくなった日があった。

 

94年まで存命だったアメリカの詩人で、晩年に大成したチャールズ・ブコウスキーのエッセイ集。老いても尚創作を続けつつ、日々競馬場に通いながら、クソみたいな人生とこれから訪れる死について軽妙に語る一冊。僕もそろそろ人生の過渡期みたいな時期に差し掛かり始め、何だかそんなものを読みたい気分になった。

 

かなり久々に紙の本を読むことにしたが、さっと取り出せた。開いてみると、薄汚れたいくつかの頁の端が折れている。昔から僕は本を読むときドッグイヤーをする習慣がある。気になる頁の端を少し折り曲げる行為で、勿論買った本にしかしない。案の定、この本もいくつかの頁が折れていた。恐らくは働き始めあたりに読んでは折り曲げたのか、保管状態が悪く、単に折曲がってしまったのか。

 

それでも、折れ曲がった頁を開くと、どことなく自分の心情に刺さる言葉と出会えたりする。その当時に自分が悩んでいた事や、鬱屈としていた感情が呼び起こされる。そしてまた今、自分の気持ちに沿った頁も折り曲げてみる。当然ながら、電子書籍にも線を引いたりインデックスを付ける機能はある。加えて僕自身も「紙にはやっぱし温もりがあるから」なんていう安易な旧時代擁護には中指を立てている方である。

 

それでも、何か紙が少し折れ曲がっているだけで、その頁に引き込まれ、かつてその本を読んだ際の気持ちが蘇るというのは不思議な感覚だった。

 

同人誌にしても同様に。夏コミに向け、印刷所にデータを投げ、現物としての本を今作成しようとしている。既刊の頒布については電子書籍頒布がメインだし、今更本を出す、というのも言ってしまえばナンセンスかもしれない。在庫リスクはあるし、何せ運搬が面倒だ。

 

しかしながら、コミケやら同人イベントに行けば分かる通り、時代錯誤と呼べばいいのか自分の作った本を目の前に並べ、通りゆく人に売るという酔狂な場面が広がっている。それは、ある意味でデータで補完出来るものでなく、紙自体が「情報を具体的に手にする」という体験を提供するメディアだからなのかもしれない。

 

今、情報は単に見るものであり、送受信し、拡散させるものだ。その本質は速度や使い勝手の良さが最優先される。そんな情報の一つの在り方として、紙はその逆張りと言ってもいい。現物として手元にあるというのは、それこそ不便だと宣言しているようである。しかし、不便=悪という訳でもあるまい。

 

「不便さが生むもの」とは言ってみたが、なんだかこの論調自体がオッサンのエッセイぽくてすげえイヤ。ただ実際そうなのだから仕方ない。同人誌を印刷して作るという行為は、不便さを受け入れ、「情報を手にするという体験」を売る側にも、買う側にも与えるものなのだろうなと思った。

 

まぁ、かつてのソフト産業は全てこれが当てはまっていたわけで。CD、カセット、レコード、ビデオ、雑誌…つまるところ所有という体験だ。現在、サブスクや動画サイトなどで、具体的な現物体験を失った人々は、ある意味でこうした同人誌のような「現物がある」世界に、これまでとは違った価値を見出していくのかもしれない。紙という価値は、再度個人の市場において輝く存在になるのかも。

 

などと、久々に文庫本を開いては、同人誌を作るモチベーションを維持させようという駄文でした。

 

それにしても、冒頭書いた通り。本当に昔作った同人誌についてデータが消失しているけれど本は残っているという事案もあるわけで。Yahoo!ジオシティーズが消えた今、あながち、保管という意味での紙媒体の価値は見直されてしまうのかもしれない。

 

よし、今週もギリギリなんとかなった。とりあえずコミケ原稿にも手を付けなければ。入梅の独り言でした。

 

「平等」をコスパが担保する時代

先週。今後は週に一度、ブログでも更新するかなどと気軽に言ってみた結果、案の定自分の首を自分で締める結果となっている。やはり話題なんてポンポンと浮かんでくるわけもなく、眺める先はネットというか、世間の闇たるTwitter
 
 
ただ、そこに何もないかといえば、何かしらは見つかるわけで。ということで今回は、そこでバズッた話題から、少しだけ気になるというか、ふと思い浮かんだ事があったので書き連ねていきたい。
 
 
その話題というのは、イチロー氏とひろゆき氏の比較みたいなツイートである。

 

イチロー氏のインタビュー記事画像を引っ張ってきて「失敗して回り道することが結局は一番の近道になるし、深みも違う」というコメントから、なんでもコスパ重視する象徴的存在であるひろゆきを叩く、という内容だ。
 
 
そもそも比較自体どうなのという話ではあるのだが、分かりやすいぐらいTwitter受けしそうな内容の通りバズってはいた。と、そんな中僕が気になったのは、リプ欄にいくつかついていたひろゆき氏擁護のコメントだった。
 
 
その論調を纏めてみれば「結局の所、僕らがどれだけ努力を重ねようがイチローにはなれない。それであるならば、ひろゆき氏の論調の方が有難い」というもの。
 
 
この言葉には、かなり今の世の中に対する本質的な感情が籠っている気がして無視出来なかった。というのも、ネット世間において、こと30代以上になってくると、アンチひろゆき氏の人口は高い。これまでの発言であるとか、ファクトより論破重視、一貫性のないスタンスにおいて、どうしたって好きになれなかったりする。
 
 
それでも、配信などにおいても一定数のフォロワーを持ち、多少の疑問は抱かれながら、世の中に一家言持ち続けているわけである。一体なぜ。そんな疑問が前々からあったのだが、対して先の擁護コメントは実に的確な知見を与えてくれていると感じた。
 
 
 
今の世の中。Youtuber辺りが好んで言う「コスパ」や「効率」がもたらしているもの、それは今風の「平等」に対する考え方なのかもしれない。
 
 
極端な例ではあるのだけれど、イチロー氏を始めプロスポーツ選手ってのは、彼ら彼女らが積んできたトレーニングも勿論だが、往々にして生まれ持った身体もまた才能のひとつである。それは、先の「努力したってイチローにはなれない」という発想に表れている通り。これは、スポーツのみならず学力でも同様の事が言えるだろう。親の遺伝子、生まれた家の環境、地域、時代。それによって、学力差が生じることに大きな反論はない。
 
 
即ち、よく言われる「機会の平等」なんてものは、教育現場の特有のお題目であって、そもそも本質的には存在しない概念である、というのがぶっちゃけたところだ。この話題を続けると、おおよそ「自助努力」って話題が飛んでくる。いや、そうは言っても「なりたい像」があるのであれば、努力すればいいじゃんって角度の反論だ。
 
 
しかしながら、上記の「格差論」をより進めていくと、そもそも「努力」出来るか、否かについても環境差というものが付いて回る。同じ親の、同じ教育方針でもない限り、子の「努力」に対するスタンスも変わってくるのは間違いない。イチロー氏だって、幼少期からの親父さんによる熱血指導があった。お前、家庭も性格も異なる人間に、同じ努力を強いる方が残酷なのでは?そんな問いすら垣間見えてしまう。
 
 
そこでいよいよ出番となるのが、ひろゆき氏の論調を始めとした「コスパ重視」という発想である。意思が少しだけでもあれば、誰でも、効率的に、結果に繋がるという意味で、それら思想が提供するものは、単純なコスパというにとどまらず、最早ある種の「平等思想」ではないか、ということだ。
 
 
新自由主義以降の「自助努力」に重きを置いた時代の結果、努力値すらも結局、格差のうちに含まれていた、というぼんやりとした失望が覆う中、短い構文だったり、シンプルなロジックで相手を論破していくひろゆき氏の在り方というのは一種の救いに見えなくもない。
 
 
努力や経験、実際的な知能でなく、とかく目先のハウツーが重視されるという意味では、90年代以降のハウツーブーム再来という感もあるけれど、当時が「スキル」としての扱いだったのに対して、現在のコスパ重視のスマートさは、ある種思想的な救いになっているようにすら感じる。
 
 
動画サイトを中心に、インフルエンサーが世の生き方を説いているという形は、もはや説法のそれに近い。そして、自己研鑽で自分自身がひとり上に向かっていく向上心というより、ボトムを引き上げて、誰もが安心を得られる、いわば平等に対する願望がそこに見て取れるようである。
 
 
案外、そうした思想を冷静に見てみると、効率や結果を重視し、初期ハードルの低さを万人に提供しているという意味においては、大して悪いものでもない気がしてきたところで。と、ここでひろゆき氏周辺に対して抱いてしまう胡散臭さについても、簡単に考えておきたい。
 
 
何故、こうした思想の良さを一面では理解できるものの、どうしたって何かこう反発的な感情を抱いてしまうのか。簡単に言ってしまえば、その言行不一致の在り方だと思う。ひろゆき氏ばかり引合に出して恐縮なのだけれど、いくらコスパ重視の思想を説いていたところで、彼自身。顔出しでメディアに出たり、配信を行ったり、そもそもかつては巨大掲示板立上げの当事者だったりするわけで。
 
 
つまり、それ相応のコストやリスクを払っているのだ。常にネット民から全力で殴られ続ける状態というのは、普通に考えれば大きなコストだろう。常人がおいそれと耐えられるものでもない。その割に、説いている話は、シンプルでコスパ重視。言っている事と、やっている事が正直見合っていない。彼が人に説く理屈と効率は、彼の生き方そのものでない。あくまでも、商材なのだ。
 
 
その他、同様に「簡単さ」「単純さ」を説いて回る人間に感じる不信感の根はここにある気がする。効率を重視する割に、表に出るというリスクは払う。自己実現の為の、投資は行う。これ自体悪いことでないのだけれど、そこに対して薄っすらとした矛盾を感じてしまうか否かが、この思想を受け入れられるかどうかの、分かれ道なのかもしれない。
 
 
 
大して、オチもないまま書き続けてしまったのだけれども。僕個人の話で言えば、まぁ理不尽な苦労なんてものは、確実に誰もが経験するものなので、変に効率効率言ってないで、日々実直にやるしかないのでは。というところだろうか。
 
 
そういう意味で言えば、多分イチロー氏の発言に寄るところが大きいのだけれども、今回はむしろ「その効率やコスパが救っているモノって一体」という話をしてみたかったわけで。平等なんて言葉が薄っぺらくなった時代に、自分を支える考えが一体どのようなものなのか、一度整理してみてもいいのではないかと思う梅雨の始まりでした。