わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

パクツイの根源を考える。

コミケも目前ということで、それに関連する記事でもとは思ったのですが、ちょっと今回はネット界隈に関する時事ネタを。

 

パクツイを始めとしてどうも最近、ネット上やオタク界隈での妬みといったものが、全面に押し出てしまう事案が目に付くようになり。黒バス脅迫の件を筆頭に、TL上でもアルファに楯突くアカウントの発言が日々とぅぎゃられたりと、嫉妬にまつわる話題に事欠きません。

 

そういった、ネット上での妬みつらみは何を発端にしているのか。そうしたことを今日は、ぼんやりと考えてみたいと思います。

 

黒子のバスケへの一連の脅迫事件は、犯人逮捕によって幕を閉じ、どうやらその動機は「漫画家を目指した者による、売れっ子漫画家への反抗」というものらしいと報道によって知らされています。

 

また「アルファツイッタラーにスパムブロックされた!」と主張するアカウントが「数の暴力だ!表現の自由の損害だ!」というイデオロギーを掲げ、反駁する様子もちらほら見かけます。更にはパクツイと呼ばれる、持て囃された人のネタツイートをそのまま真似するような発言の多さ。

 

実際、ネット上では昔からよく見かける構図ではあるのですが、どうもその根底には、妬みといった感情が根付いているのは間違いなさそうです。それらの事案を見ていて透けてくるのは、こんな感情です。

 

「そのネタは(思いつけば)自分にも言えたはずだ」

「そんな作品は(思いつけば)自分にも描けたはずだ」

 

ネタを思いついたというパーソナリティ以上に、その作品やネタの普遍性に目がいってしまう。パクツイなどはその最たる例かもしれません。コピーアンドペーストが普及した世の中では、思いついたこと自体の価値はどんどん薄くなり、そのコンテンツのみに価値が認められるようになっています。

 

要は、誰が発言したかは二の次で、コンテンツが面白ければいい。そういう理屈がまかり通ってると言えます。そうすると、下記のような論法も登場します。

 

「発言のみ注目されているかもしれないが、そんなものは思いついてしまえば、誰が言ったところで同じ」

 

 ちょっと話は飛びますが、ハインリッヒの法則という労働災害の法則があります。保険会社の調査論文によるもので災害の起こる割合は、

 

重大な事件→1

それに付随する軽微な事故→29

その可能性があった被害のない事案→300

 

1:29:300という数字の対比によって表せるという法則があります。逆にその重大な事件を、ネットでの持て囃される作品や発言だとして。現状で「1」を思いついた人に対するリスペクトが生じづらいという状況です。

 

「29」の予備群がそんなことは、思っていたが発言・創作しなかっただけだと主張「300」の人々はその発想の大元は俺らにだってあったはずだと思い込む。それならば「1」というネタをパクッたところで、自分の評価と変わらないものが得られる。そんな自己暗示というか自己認識の形が出来上がっているような気がします。

 

パクるだけならまだしも、その「1」の座に誰か自分でない他の人間が座っていることが許せなくなってくる。なぜなら、そんなことは本来「自分にも思いついたもの」であり、それが早かっただけだから。

 

アルファツイッタラーに対して「数の暴力だ!」と責め立てる人々も全く同じ構図にはまっているものと思われます。彼らは特に、暴力に反抗するための、自分たちが振るっている暴力に気付かず、その「1」の座そのものを敵視するようになります。仮想敵に立ち向かうというその姿勢が、彼らのアイデンティティになり、より自己矛盾を深めるようになっていると思われます。

 

ひとつのネタを思いつくという過程に、何もリスペクトが出来ない人間が、面白いはずがない。僕はそう思います。面白いネタに嫉妬したり、作品を妬んだり。それが生み出されたバックボーンを無視して、自分の批評下に収める。

 

オタク評論気取りにありがちな精神的構図ではあるのですが、ツイッターやタンブラーなど、コピペRTリブログが一般化した社会の中で、その「オリジナル」へのリスペクトがますます失われつつあるのではないでしょうか。それは最終的にオタクというユーモアな存在を押し殺す癌にもなりかねません。

 

誰かの何かが面白いと感じたならば、それを真摯に感じ、次は自分で生み出す。なんかクソ真面目な結論ではありますがどうもそういった精神を改めて自分にも言い聞かせる必要があるなと。そんな事を思ってしまった、寒い夜でした。