わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

世界が敵になるとき。

仰々しいタイトルですが、先日の柏通り魔事件を見て、ふと思ってしまったことをつらつらと。ネットネイティブ世代が、ネットを通して世界を敵に回してしまう構図。そんなことを考えてみました。現状でのネット論や、道徳論、宗教観も混ざってうだうだ書いてます。ちょっと長くなりそうなので、暇な方向けで読んでいただければと思います。

 

 通り魔事件としては、犯人も捕まり、日常の恐怖感は遠のき、世間ではその犯人の人間性について種々報道が為されているような状況です。それに目をやる中で、かなり問題ありそうな家庭環境や生い立ちもフューチャーされていますがどうも「拗らせたオタの狂気」がメインテーマになりそうな様相です。

 

本人のスカイプでの交友関係からの証言、自身のニコ生コミュの説明、それらから垣間見るに、確かにキチガイというには余りある、ぶっ飛んだ性格あるいは精神の持ち主で合った事は間違いないようです。 ただ、ひとつ「突出したキチガイオタの狂気」で終わらせていいものなのか。そんな疑念が自分の中に沸いてきました。

 

というのも、この10年程、ネットという空間の中で顔の見えない状況での交友というのは日常茶飯事となりました。そうした中で、そこまでの奇抜さはないものの、それに近い人材は存在したのでは?と思わざるを得なかったのです。

 

SNS上で誰かのbioを見たときに「この人ヤバくないか?」とか交流を持った際、ウェブ上での会話において「あれ?話が通じない」とかそんな経験をした人は、かなり増えてきているのではないでしょうか。

 

その僕らがふと感じる一つ一つの違和感は、今回の報道で顕にされている被告の周りの現象とまるで同じなのです。ネットで安易に嘲笑される「拗らせたキチガイ」その存在は、実はかなり身近にあり、さらに自覚しなければならないのは、その種になる感情は確実に誰しもが抱いているものだという事実です。対岸の火事は、現在ネットという媒介を通して、意外と自分の足元もすぐに焼きだす。そんな警句が、周囲にも自分にとっても必要だと感じました。

 

 

今回、特にネットネイティブ世代というものに触れたのは若い頃からネットに触れるということが、人にどのような精神形成に至らせるのか。この論調からの安易な「ネット反対論」はたまにマスコミでも見受けますが、実際としてどのような危惧があり、僕らとしてどうすべきなのか。改めて考える必要性があると感じたからです。

 

斉藤環先生の本も早く読んでみたいなとは思いつつ、ひとまずは自分の考えを滔々と漏らしたいと思います。

 

もともとインターネットという世界は、楽天等のECが活発になるまで、個人の趣味しかない世界だったわけで。その個人趣味の世界においては、前時代的オタクの典型的な知識至上主義が蔓延るのも当然の流れです。

 

そしてそこから掲示板での人との交流更には2chといった匿名掲示板での情報交換の仕組みが生まれますが、やはり知識のない者は去れという嘲笑的空気が、払拭されないまま、(薄くはなっているものの)今日まで残っているのも確かです。そんな空気感の中、子供は学校等の実社会とネットでの仮想社会の双方で交友関係を作っていく。

 

僕らもそうでしたが、学生時代において学校や部活以外の場所は遊び場でしかないわけで。(ネットも当然それに含まれました)小学生にとっての近所の公園や図書館と並列くらいの感覚で、ネットという世界が存在している。

 

また、実社会と隔離しやすい性質から「秘密基地」化するのも予想できます。その秘密基地の中で、友人と喋ったり、あるいは情報を共有する、一緒にゲームをする。ここで、2タイプに分かれるのは容易に想像できます。

 

・友人間において更に小さなコミュニティを作る。

・そもそも孤立をする。

 

前者は、クラスの「グループ」と言われるような仲のいい連中の延長。それが、個別に集団化しSNSやLINEを通して交流していく。こちらの極端な例として問題になったのは、昨年流行った「バカッター」と言われる現象です。

 

ここで「秘密基地」化したコミュニティでは、実社会とは隔絶されているため、何を言ったところで、SNS等で繋がっているリアルな交友関係には届きにくいという認識が働いています。そのため、ネットでの情報共有という広範さに想像が及ばなくなってしまいます。また上記でのネットの空気感として挙げた「嘲笑感」も、「自分は嘲笑する側だ」という誤認を生みやすく、いざ、矢面に立ったところで、その立場の危うさに気付くというケースも多い事だと思います。

 

また後者のそもそも孤立しているというタイプ。この類型での問題は、実社会での孤独をウェブ上にて埋めようとするという精神性です。実社会での喧騒に嫌気が差したところで、やはり人との交流を求めてしまうのが人間の性というもの。

 

そうした実社会での交流とは離れた人々があつまることで、また新たなコミュニティが生成される。しかし、ここでも当然コミュ二ティが存在する時点で、あぶれる人も少なからず出てしまうという実態があります。

 

そうすると、実社会と仮想空間において拒絶を味わった人は、自己同一性をどこに置くかといえば、行き場のない怒り、反発する姿勢そのものが自我になります。更に、上記のネット特有の嘲笑性によって、その自分すら匿名の誰かにバカにされているような気がしてくる。

 

そして受け入れられないなら、敵と認識すればよい。そのような精神性は、やはり珍しいものでなく、匿名性の高い世界では自分以外のマスを敵視するという結論に陥りがちです。ここで、最初に触れたかった「世界を敵とする構図」が生じます。

 

ネットネイティブは、恐らくこの「敵視の純化」が非常にされやすく、それまでの人間関係や生活環境のバリエーションも少ないために、敵視が簡単に行われるのではないかと思います。 この純化がより一層行われてしまうと、事態はより悪循環の一途を辿り、他の人を受け付けなく、また、人も該当する人物に触れづらくなってしまいます。

 

この「敵視の純化」というスパイラル。この状況こそ、昨今のネットにおける人間関係トラブルの根幹の一つのような気がします。その上で、僕がこの事件の顛末を見たときに気になったことがあります。それは連行される際に「除悪(彼のHN)連合軍万歳」と叫んでいた事です。散々報道もされたため、印象には強く残っているのですが、「連合軍」という言葉。

 

これを聴いたときに、彼はきっと誰とも「連合」出来なかったのではと強く思いました。最終的に、社会を敵視して復習を誓っても、「誰かと」一緒に立ち上がりたかった。その人の根っこにある感情は、消し去る事は出来なかったと。何か切ない感情を抱いたことも確かです。

 

社会から拒絶された人間が、最後に復讐を果たすも、その実、社会を求めている。彼を受け入れる土壌さえあれば、事は変わったのではないか。ここまで、散々ネットネイティブどうのこうのと書いてきましたが、最終的には、自分をかなり棚に上げているような気がしています。最初に述べたとおり、これまでのネット生活でも、危うい人は見かけてきましたが、そうした人をどうしてきたかと言えば、今回の犯人の周りの人たちのように、無視し、遠巻きにしてきたという自覚もありました。

 

その罪悪感というか、無力感に、不安を覚えここまでの文章を一気に書いてしまったというのもあります。

 

 

だからといって、誰も彼のような人を救えないし、結局はかかわりたくないというのが本心です。道徳が重んじられるこの国では、迷惑をかける人間が叩かれて然るべきで、無償の慈悲は血縁になって初めて生じる。(それも場合による)ネットが拡充し、人との繋がりあいの可能性が格段に増えた現代だからこそ、この「道徳の脆さ」を非常に感じます。

 

道徳とは、愛や慈悲では決してなく「自衛の理」である。A・C・スポンヴィルが『資本主義に徳はあるか』で語ったように、道徳は所詮明文化されていないルールであり、人を愛する気持ちそのものではないと。どうしてもこの国は道徳至上主義に陥りがちで、人から受けた恩は返す、ただ無償の愛は不要である。という論理がまかり通ります。

 

宗教的情緒の必要性は、救いようのない人間をいかに救うか。人の迷惑たる人間をどうするのか。『レ・ミゼラブル』のジャンバルジャンが救われたように。世界を敵に回してしまった人を、どう受け入れるのか。

 

ネット社会というものが、一般化した今だからこそしっかりと考えなくてはならないなと。改めてそんなことを考えてしまう、春前の寒い夜でした。まとまってはいないですが、昨今のネット民がこじらせてしまう事件を見ててこんなことを思っていましたという文章でした。

 

長々とすみません。