わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

斉藤環『承認をめぐる病』を読んで

ということで題のごとく、斉藤環さんの『承認をめぐる欲求』発売当初から気になっていたのですが、気付いたら半年。そろそろ読まなくては、という半ば義務感で購入。斉藤環さんってことで、やっぱし表紙とはそぐわぬ堅さでした。

 

とりあえず、かなりアカデミックなところは斜め読みして、大枠で感じたことをまとめてみます。

承認をめぐる病 承認をめぐる病
(2013/12/23)
斎藤環

商品詳細を見る

 

ね。こんな表紙なのに。

 

内容は、一貫した論文というよりはいくつかの論評を「承認欲求」「現代人のキャラクター化」というようなテーマで数珠繋ぎにしたオムニバス論文集。現代の若者が置かれるコミュニケーション偏重な社会システムの問題、秋葉原通り魔事件から見るその性質と加藤受刑者の環境、DV家庭の問題点やそれを取り巻く精神的考察、今の時代における精神科治療のあり方、キャラクター化というものの本質的な意義などなど。

 

かなりバリエーションに富んでおり、その内容もかなりアカデミックだったりジャーナリズムに寄ってたりで、まったく飽きることなく最後まで(とりあえず)読みきってしまいました。

 

ここでは学術的考察というよりは、あくまでサブカル拗らせて学生してて、ちょっとそういう通院経験もあったSNSにはまってるごくごく普通の社会人がこの本読んでどう思ったか自分語りをなるだけ排して、ざっとそんな話だけしたいと思います。

 

まず、総じて感じたのは流石は精神科医師。なんていうか評論家が社会を語っているっていう感じでなく、「患者とどう向き合うか」「病理現象を明らかにする」という発想が根っこにあるので、論調がとてもシンプルかつ本質的と感じました。

 

特に、現代の学校や若者が属する社会システムへの指摘はまさにその通りで、僕らの世代が感じてきた、ぼんやりとした不安みたいな温度感やコミュ力が重視される空気、そういった環境がどんな問題を孕んでいるのかを的確に突いていました。

 

氏はそんな「空気が読める、笑いがとれる、人をいじれるいわゆる「コミュ力」がある人間こそがヒエラルキーの上部として承認されるコミュニケーション偏重主義に問題がある」と指摘します。そういった「コミュ力」には「キャラ」としての承認が伴います。こいつはイジっても良い、あいつは振れば面白い事ができる。その承認がクラスの中で与えられることで、やっと当人の居場所が担保されます。

 

しかし、それに依拠した振る舞いが期待されてしまう、否半ば強要されるような空気、これが現代の特に学校の空気感そのものだと。そうした「キャラ化」が一般社会において生活する上での必要条件となってしまい、そこに違和感を感じてしまう人が、現代においては何かしらの病を抱えてしまうと。

 

その「キャラ」と「承認」は、自身も思い返せばハマっている表現と思いました。承認を得られなければ、誰からも見向きもされない。そんな恐怖感はどこかで抱えているような。特にmixiの流行以降、その承認は数字やコメントとして目に見える形となり、「友人からどう反応をしてもらうか」という部分について、

意識的または無意識的に画策していたことを思い出します。

 

まぁ、今もツイッターなんかではそんな感じかなとか。ちょっと思ったりもします。

 

また、本書の中でピックアップしたいのは、秋葉原通り魔事件の加藤受刑者をはじめ、上記のようなコミュニティにおける「承認」に失敗し、何かしらの要因で、突出した行動をとるようになってしまった人たち。そうした人をどう考えるべきなのか、DVやモンスターペアレンツのケースも踏まえながら触れています。

 

「キャラ」の中で人は「これが正解である」振る舞いがあり、そこから抜け出したい自分、またはそう振舞わなければならない自分の間で葛藤します。加藤受刑者もその間で葛藤し、承認を得るため自らを卑下した設定下で振る舞いつつも、最後は自身のプライドとの間で破綻してしまったと。

 

逆に、モンスターと呼ばれる人たちは、大きな社会システムを動かす「キャラ」の正解を信じます。あるべき教育の姿という大きなシステムに捉われ、そのエージェントたる教師への批判を募らせる。そうした「人間」から乖離した「キャラ」への妄信が、理想のシステムの利益を享受できていないという不安につながり、理不尽な怒りへと人を駆り立てるという指摘をしています。

 

以前、柏の通り魔事件でブログ記事を書いた際にも、承認を受けられなかった人をどう考えるべきか。という題材で文章を書きましたが、生きる意味たる「あるべき正解」を追い求めて、自らの中で葛藤または他人を敵視してしまう人に対して、「正解がなくとも生きていられる」という生き方の提示が出来るだけで、何か変わったのではないかと。そんな事を僕も改めて感じました。

 

そして、本書の終盤、V・Eフランクルを引用考察する論評があります。『夜と霧』における有名な一節。「人生の意味を問うな、あくまで人生から自分が何を期待されているかを考えよ」という「問い」めぐる文章を引用します。

 

そこで語られるのは、人間本来の「固有性」の問題です。社会的身分や地位といった「社会一般からの特殊性」が価値とされるものに対し、人間は自我を持つ人間として唯一の存在である時点で「固有であり価値がある」という考え方です。

 

「何がしたいかを問うのでなく、何が出来るかを問う」

 

前者は自身の無力さと向かい合いがちなのに対して後者は自身の固有性に基づいた可能性を示唆しています。ここでも著者はしっかりと一線を引き、それはあくまで耳触りのいい「あなたはあなたのままで」といったような論調でなく、あくまで「自己の価値を追及する限り」という条件をつけています。

 

要は、キャラは所詮キャラであり、承認を求めてしまう人間の代替をすること、同一となることは不可能であると。フランクルの言う「人間は固有である時点で価値がある」という言葉は、自らの生を自分の視点から、価値あるものとする。この見方の重要さを説いていると論じます。

 

フランクルのこうした文章を引用して、社会のために人間があるのでなく、人間の固有の価値から社会を見直すこうした人間主義ともとれる論調が読めたのは、正直意外でした。斉藤環さんが最後に行き着く自己肯定こそ、こうした人との比較によって生じる特殊性からの「相対的価値」ではなく、人間本来が自身の人生観によって会得する「絶対的価値」であるとそのような思想のバックボーンを共感を持って、知る事が出来たのは大きな喜びでした。

 

とまぁ、こんな感じでしたが、ここまで本当に上っ面だけです。是非、実際読んでいただきたい。学生社会人老若男女とわず、今の日本社会を考える上では貴重な参考資料になることは間違いないと、僕は思いました。

 

また本書で挙げられるコミュニケーション偏重主義への指摘や理解も、思想というより「処方」として扱うような印象が強いです。医師だからこそのリアリズムにも触れることが出来ます。社会の摩擦との中で病んでしまった人をどう改善させるのか。その最終的な責任を負っている医者という職業として、社会科学のニヒリズムで終わらないプラクティカルな論が沢山詰まっています。

 

我々が日頃スルーしてしまいそうな、空気感や温度感、そこに抱いてしまう違和感など。一度目を向けて分解するいい機会なのではないかと思います。

 

梅雨の鬱蒼とする中、ちょっとメランコリックに考え事をする意味でも読書のおススメでした。