わがはじ!

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失点に対する恐怖心

先日のW杯コートジボワール戦が先日、6/15に行われました。先制したものの、その後後半に入り矢継早に2点を入れられ、結局逆転負けという結果に終わりました。

 

どうも日本は失点をされると浮足立つ印象がある。そう前回アフリカ大会においてチームを分析した、元日本代表監督であるジーコ氏の談話が再び注目を集めました。

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140616-00010000-theworld-socc

 

必要以上に失点を恐れる。点を取られればすべてが終わってしまうかのような恐怖感がチームにはあると。そしてそれは、代表チームの問題というよりは、日本人の国民性に由来しているものではないか。そんな談話を残しています。

 

その指摘は、サッカーに限った話でなく、どうも日本人の生活に深く根差した指摘ではないかと。ふとそんなことを思ってぽつぽつと書き始めてしまった次第です。

  

ジーコ氏に「失点を恐れている」と感じさせたこと。それは、失点そのものに対する嫌悪感というよりは、逆境でのふるまい方を知らないという印象なのではないでしょうか。

 

逆境の振る舞い方と言っても、サッカーの歴戦の雄を集めた日本代表。そうしたビハインドのゲームなんてものは何戦も経験済みだろう。といった単純な話ではなく。現代の日本人が生活する環境下で、逆境というものは、なるべく排されるようなむしろ禁忌と考えられるような社会システムが存在している。そんな指摘のようにも聞こえました。

 

 

貧富の差や家庭環境、身体のハンディや性差など。社会にはさまざまな差があり、それは同時に逆境を孕んでいます。時にそれは、社会問題化し政治による是正が求められ、その流れは日々のワイドショーの中でもおなじみの光景となっています。

 

しかし、それでも政治や法で是正しきれない問題は多々あり、フィルタリングが及ばなかった格差はそのまま個人に降りかかります。往々にしてその格差は、努力値であるとかそうでないとか。そんな基準に照らされながら、受容されていきます。それを最も顕著に表している単語こそ、人生における「勝ち組」「負け組」という考え方ではないでしょうか。

 

人生のスタートである家庭環境から紐解かれ、学歴や異性遍歴、最終的には職歴といった部分にスポットが照らされ、そうしたいわゆる「スペック」で人生形成が決まっていく。経済成長後の現代日本での生活において、人々が優先するものは何かと言えば、生活と精神における「安定」の比重は大きいでしょう。

 

近年の若者が「安定志向」だと言われることは、「近年の若者論」の典型として反駁はしたくなりますが、その風潮は確かに存在します。

 

サッカーでの失点は、人間生活における失敗です。人生そのものの得点が減点方式のようなルール下にあり、下ブレをいかに防いでいくのか。そんな発想が一般化されているような。自分もこの時代の人間として、「ハングリー精神が足りてない」とか安易なことは言いたくありませんが、経済成長が止まり、持続可能な成長が標榜されている中で、いかに失敗を少なくするのか。

 

観念レベルで、失敗に対する恐怖心というか、ぼんやりとした不安を抱えているという指摘もできるかもしれません。徐々に下っていく坂道を、僕らはどう転げ落ちずに進むことができるのか。そういった思惑がどうしたって無意識下で働いてしまう。

 

 

ジーコ氏の談話を読みながら、僕らはこの呪縛のような発想から逃れられているのだろうか。そんな疑問と向き合わされました。

 

日本代表の試合を揶揄しながら、果たして自分は、失点や失策を恐れすぎてはいないだろうか。そんなふと内省に浸ってしまった日でした。