わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

精神疾患という宗教

先日、何の気なしにつけたワイドショーで。

 

タレントの北斗晶さんが、乳がんとなり右乳房を全摘出手術を受け退院したという報告会見を見た。摘出手術を受けたものの、5年後の生存率は50%とのことで。北斗さんの「生きていたい」という思いが詰まった言葉や、夫の佐々木健介さんとのやりとりには、普段芸能ニュースなど毛ほどの興味がない僕でも、涙腺を刺激された。

 

 

やはり、死を前にすると人は、人生の終わりが怖くなるのだろう。日常が送れなくなるということ。当たり前のことが、当たり前でなくなるということに、それだけの恐怖感が伴うということは、人として当然のことだと思う。

 

 

でも、今死ぬほどのピンチもなく、仕事をし、日々の生活を送っている現状の自分の身に当てはめてみると、この当たり前の日常が続くということがどうも怖い。日々、起きて、仕事に行き、そして疲れて帰る。土日を休めば、また同じ日々が始まる。延々と続く人生そのものに、何か底知れぬ恐怖を感じる。

 

将来を楽観したり希望を持つことが大事なのは、その、うっすらと見える将来の見通しに変化値を与えるからだ。そうでなくてはなかなか前向きに日々を過ごすのも難しい。

 

生きるも怖く、死ぬも怖い。まぁ、個人としては正直いつもどおりではあるんだけど、平日どまんなかということで、そんな感情の板ばさみに合い、気持ちの整理がてらこんな文章を書き始めた。

 

 

とりあえず、そんな事を考えていると浮かぶのは、「生老病死」という言葉だ。仏教用語とされており、釈迦が至った人生についての一つの結論である。生まれて、老い、病んで、死ぬ事。人間として不可避の四大苦悩。まさに上であげた、生きるも怖く、死ぬも怖いを体言している。よく言われるが「釈迦は重度のネガティブ思考」だったと言われる根拠でもある。

 

だけど、このネガティブさは、キリスト教なんかでも一緒で。特に原罪思想なんてものは、人生が苦しいということへの理由付けな訳だ。「なんで人生つらいの→そもそも罪を犯しているから」知恵の実を食べ、色々考えちゃうから人生辛いんでしょ。そう、ごもっともだ。

 

とにもかくにも世界的に大きな影響を持った宗教は、端的に言えば「人生つらい」からスタートしている。宗教と言うと、この国だと胡散臭さが伴うけど、本質的には「人生ってつらいけど、どうするよ」ってことを考えることで、宗教家はそれを実践した人を指す言葉だ。

 

そう考えると、結構やってることは普通なのだ。なので、かなり乱暴なのだけど、ツイッターでつぶやく「つらい」に対して、「せやな」というリプを返すこと。これも一つの宗教的な営みなんじゃないかと思えてくる。生のつらさの放出と共有。ぼんやりとした組織体の中で、人生の憂いを無意識下で消化しようとしている。宗教を避けるあまり、僕ら日本人というものは人生のつらみすら「異常」と切り捨ててしまった感がある。つまり「不安=病気」という図式である。しかしながら、先ほどから見てきたとおり人生ってものは往々にして不安だ。

 

生きててつらい。そんな当たり前のことを真正面から捉え、それに対処する。宗教の必要性というのは、そういう部分ではなかろうかと思う。しかも、人間死ぬのだ。こんなに悩まされた後に、死というゴールが用意されている。救いのつもりかもしれないが、それはそれで恐怖心がある。

 

要は宗教っていうのは、人生を楽にする為にあるもんでもない。楽に生きたいからするもんでもない。真正面から辛みに向き合って、その上でどう生きるか。考えて、行動すること。それに尽きる。

 

案外、その「つらい」という前提を避けだすと、逆に変な宗教に嵌ったりするから大変である。「自分だけがつらい状況にいるのはおかしい」などとひとりよがりになったりすると尚の事だ。状況判断などあったものでもない。

 

宗教って言葉がどうもアレな感が漂ってしまったせいで、この国ではその代替手段を「精神科」が果たすようになってしまった気がする。いや、当然病気として鬱は鬱だし、僕自身も前にここで書いたように医者に通って、お薬もらいながらへーこらへーこら働いている。ブラック企業よろしくの「何がメンタルじゃ」という観点ではないのであしからず。

 

でも「人生ってそもそもつらくないはずなのに、つらいと感じるんです」そういう切り口で、心療内科のドアを叩く人もいるのではないかと思う。

そもそも、僕らが人として乗り越えるべき最初の壁の乗り越え方を、戦後70年という月日の中で、教える土壌すらなくなってきているのでは、とちょっと思った。宗教嫌いのこの国で、いかに生きる苦しみと、死の苦しみを乗り越えるのか。

 

ちょっと難しい課題だなと感じ、ここまで書いてしまったのかもしれない。「人は幸福に生きるべき。」勿論正しい命題なのだけれど、「人生はすべからく幸福だ」というのは成り立たない。自分でそのつらみと向き合うステップを、まずは踏まなければならない。幸福はきっとその先にあるものだ。そして、そのつらみを感じることは病気でもなんでもないし、古来から続く人間にとっての実に自然なことである。宗教なんて、と思ってる人も多い気がするけど、じっくりと自分の人生を考えるとき、そこには確実に宗教心が存在しているし、それを否定すべきでもない。

 

現代における本当の精神の異常とは、幸福であり続けなければならない、という一種の脅迫観念なんじゃないかと。そんなことをふと、自分に言い聞かせてた水曜日の夜でした。