昨晩に書きなぐった「
日本語ヒップホップのカウンターカルチャーとしての必然性(前編) - わがはじ!
再三、先に断わっておくがこのジャンルにおいて僕自身は正真正銘のニワカである。むしろニワカと名乗ることすらおぼつかないかもしれない。ラップバトル番組「
でもでもだって、
前置きはその辺にして、本題に入って行く。昨日までは「
③「地場産業」としてのヒップホップ
ヒップホップを聞いていると、そこまでコアなファンでなくでも「レペゼン」とよく言っていることに気付く。そういや、なんなんだ「レペゼン」。そのレベルなので律儀に調べてみたら「Represent」つまり「代表する」ということらしい。
あーだから、みんなその後に地名とかつけるんだ。とさっき納得したのだけれど、この要素はダンスやヒップホップ文化にとってかなり重要な意味合いを持っているように感じた。
ここで紹介したいのが西成区出身、大阪を拠点とするSHINGO☆西成だ。深夜に延々とこの曲を流し続けるA-buttonというお店の神経は疑うが、一番怖いのは気付いたらハマってたことだ。個人的には、たまの「電車かもしれない」あたりを聴いてる気分になり、なんだか延々聞いてしまっている。
タイトルそのまま大阪の歓楽街、飛田新地を歌った曲だ。延々と店の名前を並べるだけの1番はまさに地場で育ったものにしか出来ない芸当だろう。そして特に大阪西成という土地を背負った彼にとって大阪を「レペゼン」する事は自身の表現そのものであるように感じる。つまり、あえて全国区でない本当にローカライズされた表現に価値を見出す文化がそこにはあり、それが僕にとっては実に新鮮に感じる。
そしてそのレペゼンという文脈を抑えると、急にこの「飛田新地」というアングラ感がプンプン漂うような楽曲が、生活としての記憶やそこにいる人間の姿をぼんやりと映し出していることに気付き、曲の魅力に辿りつけるのではないかと思っている。
インターネットの発達により、文化発信はその土地を選ばなくなってきている。事実として「東京のみが文化の発信地」という実態は一部で残っているものの、その発想自体は徐々に懐疑的な目線も向けられている。あえて話をオタ話に飛躍させればガルパンの大洗の例もそうである。文化発信と一口にいってもその土地その土地で出来ることは異なる。その根幹を辿ればその土地を自然に愛する心や、そこに住む人と共存していく術がそれぞれ違うように。その土地を表現する音楽という発想がヒップホップに本来的に備わっているのだと、「レペゼン」という言葉から感じさせられた。
④「ロック」としてのヒップホップ
最後に「ヒップホップ」が持つロック性について話したい。ヒップホップは音楽のジャンルである。であるからして当然、リズムというのも大きな要素ではあるのだが、
今回ここで紹介したいのは「フリースタイルダンジョン」
現在のロック音楽シーンではパフューム、きゃりーぱみゅぱみゅや相対性理論の登場以降、どちらかと言えば歌詞に強い意味を載せること以上に、リズムとノリが重視されるような傾向が強くなってきた。2010年代以降はその傾向も顕著になり、EDMの流行もその一端である。その系譜としてのバンドを挙げるならば、パスピエや水曜日のカンパネラ、今話題のゲスの極み乙女といった辺りであろうか。
またもう一人この流れで挙げたいのはGOMESSである。
これもまた完全に知識としても受け売りなので紹介するのも恐縮なのだが、自身の患う自閉症やそれに関連する家族、周囲、社会での苦しみをそのまま歌い上げる様には、
僕個人としては先に挙げた2010年代を代表するようなダンスチ
端的に言えば、普段僕も色んなジャンルに渡ってロック音楽を聴くからこそ、今のロックに足りないものを感じており、その渇望していた感情がなんと日本語ヒップホップにあった。ということである。まさか、ロック好きでヒップホップなんか聴くかよwwと思ってた人間が、そこにロックを見出す。本当に面白い体験をした。そんなこともあるのである。何はともあれ食わず嫌いは本当に良くないと痛感している。
以上、長々と2日間にわたって日本語ヒップホップが、現代日本のエンタメカルチャーにおいてどのような位置づけにいるのだろうかという事を懇々と勝手な妄想込めつつ垂れ流してきた。とりあえず謝罪します。すみませんでした。
もうくどいようだけれど、現状アーティストはほとんど知らない、楽曲もようつべで漁ってる程度の人間である。「そんな人間に語られたくない」というフリークの方々の意見が幻聴で聞こえるレベルな事を言い放っており、そろそろ黙って明日のフリースタイルダンジョンを楽しみに待つ事にしたい。