わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「時代」っていつ変わるのだろう

某氏と飲んでいる際の話で。「この先30年。世界はきっと大きく変わるよなぁ」と、そんな話をした。うんうん、変わるだろうな。と僕も思ったのだけど、ふとこの過去10年を振り返ってみた。多くのガラケーユーザーはスマートフォンに持ち替え、それを支えるインターネット網は限りなく高速化し、その甲斐もあって大手メディアは軽視され始め、小子化はいや増し進み、人口比率もどんどんとそのバランスを崩して来ている。いやぁ、変わった。人々の価値観、世界情勢含め大きく変わっている。すげえ変化だ。

 

しかし、我々はその変化をどの様に受け止めてきたのだろうか。変わったけど「やべえ、今日時代変わった!!」とかそんな日ってなかなかなかった気がする。「日常」の中に紛れ込む変化は、なかなか見つけにくい。毎日会っている人の髪が伸びていることに気付かないようなものだろう。冒頭にも言ったとおり、多分かなり高い確率で30年先の世界は、大きく変化する。今では想像も付かないほど、そして今とは全く違う常識も生じているだろう。だけれども、それに対して僕らは日々明確にその変化に気付き、ひとつひとつ自覚しながら進めるのだろうか。そんな事をぼんやりと不安に思ったのでこんな記事を書き始めている。


少し話しが飛ぶが、今年のお正月。実家に帰った人も多いことだろう。その折に、実母が言う。「ほら、あたしもスマホに変えちゃった」と。それに対して「おお、すごいね。操作大変じゃない?」など、よくある返しをしながら、LINEのIDを交換した人もいるのではないかと思う。ガラケーからのスマホへの機種変更。職場でも家庭でも、それは既に日常的に見られる行為であり、そこに大きな驚きはない。しかしながら、だ。

 

この「実家の母が携帯をガラケーからスマホに変える」という文章が本当に意味するところとは何なのだろうか。「機種変更」というありきたりな言葉の裏には、様々な可能性がある。これから起こりうるバタフライエフェクトを勘案するならば、上記の文章は下記のように変換することも可能だろう。

 

<実家の母はインタラクティブなウェブ空間を自在に操るデバイスを手に入れたことにより、買い物は通販で済ますこともでき、結果チラシや雑誌を見ることもなくなる。ワイドショーもネットニュースで足り、好きなアーティストの映像を動画サイトで眺め、感想を誰かと共有し、最早地元の井戸端会議もLINE上で行われるかもしれない。>

 

深く考えずにつらつらと並べた為、一貫性は特にないが、スマホが実家の母へもたらすであろう可能性の一部の示唆としては十分ではないかと思われる。要は、これほどの変化の可能性が「機種変更」という単純なひとつの熟語に込められている。自分の実家の母だけなら、局所的な変化として全体の中で埋没するくらいのモノだが、恐るべきは、この「機種変更」をしている実家の母は、全国に点在している事が想像できるという点だ。

 

要は、バタフライエフェクトがオオカバマダラの如く群生している状態であり、スマホを手に入れる人が一気に増えるという事は、先に挙げた可能性を持ったサンプルがより多く、当然ながら結果としてのエフェクトも強くなる、ということが言える。


何が言いたいのかと言えば、世界の変化をしっかりと眺めるためには、既に日常化した文言を改めて眺めなおす必要があるのではないか、ということだ。特に携帯の機種変更というような、至極普通となった行為でも、これまでインターネットに全く触れてこなかった人のスマホへの持ち替えは、ある種「人が火を扱うようになった」ほどの衝撃がある。先も言ったが、過去に「普通」となった変化に気付くことはかなり難しい。ある程度の年月が経ったときに初めて「あぁ、時代は変わったんだな」と言えるのである。

 

先のことを見越す為に、最も重要なのは今の情報を見ることだ。因果応報の「因」を見よ、という姿勢だ。そんなことは言われなくても分かっている。と多くの人は言うだろうが、目の前で、日々更新され続ける日経記事の内容は理解を出来ても、それを「世界の変化」として認識できる人はどれほどいるのだろう。こんな事を書いていながら、自分も正直自信はない。

 

しかし、妄想めいた将来地図は、案外直感として正しかったりする。それに対する準備を人は、常にしなければならないのである。言葉や現象は、一時衝撃を与えてもそれが普通になってしまうと脳は案外簡単に見逃してしまう。そして自分に降りかかってきていないことに関しても、かなり冗長である。例えば東京都のアンケートで、来るべき震災にしっかりと備えている家庭の数が案外少ないという結果が出た。以前「東京防災」というかなり完成度の高いハンドブックを全世帯に配るなどして、防災に対して高い意識を見せた東京都でその程度である。個人のレベルで「変化」を実感・予測し自らの行動に落とし込むことがいかに難しいのか改めて実感させられる。

 

この先30年、いや20年。再三言ってる通り、時代は大きく変わることだろう。当然、そこで生活する私達も変化を余儀なくされる。なくなる業態、業種、不必要な経済もかなり洗い出されることになる。しかし、変化は見てきたとおり漸次的にやってくる。毎日、顔を合わせる人の髪が伸びるようにやってくる。それを見極め、散髪のタイミングを提言する事は思ったよりも難しい。常に時代の準備をするという意味でも、やはり日頃の言葉を丁寧に見直すべきだろう。

 

「郵送して」が「FAXで送って」になり「メールで送って」から「クラウドで共有して」になる。これらの例では、実は言ってる人の意識にさして違いはない。「あなたが持っている文書や画像を見たい」という意思表示のひとつだ。こうした日常での変化。それを示す言葉。それらを因数分解すると果たしてどんな変化がそこにあり、どんな可能性を含んでいるのだろうか。やはりこの時代の流れが早い今だからこそもう一度、色んな「言葉」を見つめなおす頃合が来ているのかもしれない。