わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

排斥主義は誰を排斥するのか

レイシズムというか、ヘイトというか。最近、ツイッター見てても、難民問題に関連してすっごい過激な人が増えたなとか思って。ちょっとシビアなこんな話題。

wedge.ismedia.jp

毎朝NHKの「おはよう日本」を見てから出社するんだけど、結構この難民問題が取り上げられる機会が多い。かなり難しい、答えの出ない問題だ。引き続く内戦、巻き込まれる市民、受け入れ側のキャパ、国民感情、文化的相違。もうキリがないほど「悪くない人たち」で溢れてて、ニュースを見ていてなんとも言い難い感情に襲われる。

 

そんな中、当然のことながらいわゆる難民排斥主義、外国人排斥主義のような人達の声がでかくなっている。まぁ、欧州であれば実際に迷惑被ってることもあるんだろうから感情的にそういう意見を言いたくなるのもわかるんだけど、こと日本においてもそういう主張を展開する人が増えた印象を受ける。タイトルでこんな煽っときながら、個人的にそういう人の主張を読んでると「一理あるかな」とか、考えさせたりもする。

 

今回の記事ではこうした排斥主義の人たちに対して「おまえら人道的に見てひどい!」とか感情的に批難したい訳ではない。正直、難民問題については人道的に酷かろうが、行政や福祉の限界を鑑みれば、難民受け入れという判断が現実性を持たないケースも当然に出てくる。実際、実力のない行政が難民を受け入れたところでパンクするというのは自明の理だ。やはり言われる通りメルケル首相だって、そういう意味においては失策だったのかもしれない。

 

ただし、ことこの日本におけるSNSを見ていると、やたらと煽ってる人がいるわけだ。

イスラム教徒を受け入れたら、彼らの自治区ができ、日本が日本でなくなる」

「日本語が書かれていない看板を見たら吐き気がする」

「韓国人、中国人はやはり野蛮だ」

 

たまにRTで回ってくるこんなツイートを辿ってみると、やはり似たような内容のツイートで溢れていたりする。しかも愛国系のアカウントの人ってやけにフォロワー数多かったりして、ネット右翼って層は実際あるんだなって改めて痛感する。ただ実際、以前知人で中国人嫌いという人がいたが、話を聞けば中華屋に入り、対応が悪いと注意したところ中国人店員と大喧嘩になったとのこと。それならなんていうか頷く他ないと僕も思う。

 

ただ今回、そんな彼ら排斥主義を掲げる人を信じてはいけないと思ったきっかけは「日本人だけの日本を」と掲げてるのに、日本人であるはずの自分と彼らがどうも相容れそうにないなと、ぼんやり思ったからだ。だって、多分だけど一緒に飲んでも、きっと面白くなさそうだなと。いや、公共政策の議論として「難民を受け入れるべきか」というテクニカルな話なら、積極的にやりたいし考える価値がある。ただ、彼らの主張はおそらくそうではない。政策とかそういう頭を使った次元の話でなく「日本国はかくあるべき」みたいな倫理上や国民感情という非常に人間的な発想から主張が生まれているように感じる。

 

まぁ、もし仮にだけど、彼らが主張する「日本人だけの日本」が成立したとしよう。法律でも作って、外国人の永住は認めません、観光だけな。という事が現実になったとする。彼ら排斥主義者にとってはこれ以上ない状況な訳だが、果たして彼ら「排斥主義者」はそんな状況に大人しく黙るのだろうか。と思ったのである。彼らが抱く理想的な「美しい日本」は果たして、日本人だけの国家になったことによって成立するのだろうか。

 

例示として、国内にはすでに数多の宗教団体がある。それぞれの思想系統があり、大所で言えば仏教キリスト教イスラムだってある。それ以外にも諸派合わせてかなりの教団がある。さらに男女の考え方、また、戦後世代、バブル世代、ゆとり世代、ネットネイティブで育った若年層、それぞれの時代によって日本人の中でも持っている価値観は大きく異なっていく。何が言いたいのかと言えば、今の「日本人」という枠を括ったところでその多様性は遥かに強く、彼らの期待する統一的な「日本国」はきっと望めないだろうと思ったのだ。

 

恐らく、この国が日本人だけになったとしても、きれい好きな彼らは排斥を続けるだろう。例えば、そうした主義を掲げている人に娘がいて、韓流スターにはまったとかで「ハングルを習いたい」と言ったとする。多分、それすら批難して認めないかもしれない。つまりは最早人種とかでなく、その異文化の流入すら認めないパターナリズムに陥るということである。ことオタク文化に対する批判でも同じだ。エロ同人に対して「低俗な本」「人として恥ずかしい」とかそうした主張を繰り広げる人は、自分の中で「人はかくあるべし」という理想を掲げている。理想があるからこそ他を排斥する。考えもなしに、ありえないものと言い切れる。それは、もはや難民問題とか人種の壁の話でない。隣人としての社交性というレベルの話になってくる。

 

彼ら排斥主義者は、延々と椅子取りゲームを続けるようなものだ。椅子取りゲームでは座れる椅子に対して数人が多い状況でスタートする。そのゲームで負け、浮いてしまった人達は「全体性が崩れる」「治安が維持されない」としてコミュニティから不要と主張され追い出される。しかし一回ゲームが終わって安心と思いきや、椅子取りゲームというのは優勝者を決める遊びである。つまり最後の一人の椅子になるまで繰り返されるわけだ。この構図というのは、まさに戦中の日本の姿であり、多くの寺が神札を受け取ったその光景にダブるものがある。

 

今回こんなことを書いてきたわけだが、僕は決して左翼的な発想を持っているからこんなことを書いたということではない。右左とかそういう話ではなく、ただ単に、そうしたレイシズムや排斥を掲げる人らは、自らのアイデンティティを「排斥」に依存しているように見えたのである。思考なき排他は人に安心感を与え、一面的な事実しか捉えられなくなる。大きな「日本人」という題目を掲げ、その庇護に隠れてただの「自分の理想に対する排斥」を行っているだけと感じる。目の前で道に迷った外国人を助けられない人間が、国家など語ったところで意味がないという話だ。

 

彼らの主張は最もらしく見える。そして場合によっては、政策として正解かもしれない。ただ、その意見を発する人間性というものをしっかりと見据えなくては、自分すら恐らく思考が止まったレイシストになっているという自戒も込めてそんなことを思ってました。