わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「障害者」と「健常者」とは何か。<浦河べてるの家の当事者研究から>

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ハマっている、という言葉が適切かどうかはわからないけど、関連書籍を一気に2冊も読んでしまった。もう10年前くらいの本なのだけど、今読んでも新しい。本当に読みやすい上、面白いのでおススメ。読んでみて。多少長くなりそうなので、丁寧に見出しとかつけるよ。

 

・「浦河べてるの家」ってなに。

画像は双方いかにもお堅そうな、また個人的には就活で落とされたので嫌いな医学書院から発刊されている『当事者研究の研究』『べてるの家の「非」援助論』という書籍だ。一応医学書扱いになる。そして「べてるの家」とは北海道の浦河という過疎地にある精神障害を抱えた当事者が共同生活をしたり、商売をしたりする施設のこと。詳しくはここで。

bethel-net.jp

 

別に読んだ本で本書が紹介されており、興味を持ったのがきっかけだった。「当事者研究」とは、端的に言えば「精神障害を抱えた当事者が自らの障害について自覚し、発作のきっかけや目的を研究する」ということ。

 

これまでは医者から病名を与えられて、その治癒を目的とした服薬・管理に基づく精神医学が主流だったところに「病気を自分の個として捉え、当事者の共同体を作り、生き方を見つけよう」という姿勢が90年代当時には非常に珍しく、全国の関係各所から注目の的となる。

 

・「当事者に苦労を取り戻す」「病気で順調」「弱さを絆に」

すでに関連書籍を読んだ人なら、何度も目にしたキャッチフレーズだろう。上記の通り一般的な精神医療の眼目は「回復」にある。それこそ入院すれば、あらゆることが管理下に置かれる。そして当事者から「苦労」や「悩み」を取り除き「症状」をなくすこと、そして徐々に「社会性を取り戻す」ことが治療の目的となる。しかし「べてるの家」では病気を治さない。むしろ、そのまま、そうした当事者同士で積極的に交流を持つこと、更には起業し、地域社会への貢献を考えること(!)から当事者に苦労や悩みをあえて与えていくというやり方がこの「べてるの家」の方針である。

 

「起業って、そもそも社会生活が無理だからこういう施設に入ったんじゃないの?」という懐疑も当然だが、それぞれの人が自らの「弱さ」を自覚、そして共有することで、自然と相互扶助の地盤が出来る。そして毎日行われる当事者同士の「ミーティング」により、自分の今の状況を話す。時には地域の人も巻き込み、個々の「病気」を公開していく。そうする事で、問題は常に発生するものの、結果的に商売は繋がり、良い循環が生み出されている。現在では浦河地場産業として「べてるの家」はなくてはならない存在になっているという。その一連の流れが世界的にも先進的と称賛を浴び、種々メディアでの露出も多い。

 

・病気のもっている「役割」

最初は僕もそうした「地域社会・経済活動でも成功した障害者施設」という本の触れ込みを見るたび「いや、精神障害って言ったって軽めの人でしょう」と思っていた。母親が介護関連の仕事をしており精神分裂症の人の話をよく聞いていたからである。

 

「バスを見つけるじゃない。マジで突如猛ダッシュするの」「人格が10以上あって、今日は5歳のマリコちゃんだった」「トイレから1時間、本気で出てこない。恐る恐る入ったら全裸だった」そんな人たちが「仕事をする」という事がイメージできなかったのである。

 

しかしながら、本で見る彼ら当事者はまさにそのままというか。レベルとしては、むしろ本書のが上というか。712人からの幻聴が聞こえたりとか、実家を燃やしちゃうとか、本気で自分を日蓮と思い込んでる人とか。

 

いやぁ、マジかと。大丈夫なのかと思った。でもここで重要なのは、本書内での彼らは幻聴や妄想を、自分の言葉で言語化できているのである。つまりは自分の症状を理解し、当事者同士で説明している。周囲も理解を示しあうようになる。そして、周囲からの理解が得られると、自分に攻撃的だった幻聴や被害妄想も「話し合えばいいやつ」「暇つぶしになる」と当事者は語っている。理解し、自覚すると、病気というものには役割があると気付ける。

 

実際、僕の母が担当した分裂症の人も「自分に宿る人格をすべて説明していた」というし、そして「タカシ君っていう子は唯一、お母さんに反抗出来る」と言っていたという。つまりは本人の中では折り合いがあり、それぞれの人格に役割があるのだろう。きっと、不用意に服薬などで安易に「別人格」を切り離すと、その人にとっては逆効果になるのかもしれない。

 

そして本書の中で「病気は人の心のベースを守るための装置である」と書かれている。つまりは、病気とは防衛本能なのだ。逆に病気になった人は正しく、その装置が機能しているといえる。社会との軋轢から身を守る為の装置。風邪を引いて熱を出すのと一緒なのだろう。そのように捉えると、病気もまた正常な人としての営みに思える。

 

・じゃあ、僕らは「健常」なのだろうか

そもそもメンタルクリニック通いのお前が言うな、という話なのだが。彼ら当事者は最初から「そう」であった人は少ない。主に家族、友人、職場といった人間関係や「こうあるべき」という観念との摩擦から、徐々に精神を摩耗させていく。

 

きっと、その日本社会の「べき」論にどこまで順応ができるか否か。それが健常者と障害者と分けるものと、これまでは思っていた。ただ、今の時代、そもそもが生きづらい気がする。目指されるのは「持続可能な成長社会」である。意味合いとしては「リソースの有限性を考えながら」とかそういうお題目なんだけど、僕はかなり嫌いな言葉だ。気味が悪い。

 

もう高度経済成長は望めないから、程よく成長をして、妥協しながら生きてね。みたいな感じがする。アクセルも踏んじゃダメ、かといって完全にブレーキも踏むなよ。中途半端な管理社会の中にいるような息苦しさを感じてしょうがない。そして人々の幸福概念はいまだに「仕事、結婚、出産、仲良い家族」こんな金が回らない時代に、中途半端な形骸だけ残しやがってこの野郎とか思ったり、思わなかったりする。

 

以上数行はただの愚痴なのだけど、あまねく現代人は「責任ある個人として」社会に生きている。しかしながら企業に入れば「成長する組織の中での役割を遂行すべく個を捨てる」という結構複雑な発想が前提にある。しかも、その企業も今では「程よく成長していこう」という空気を読みあう微妙な時代。

 

「社会的役割」と「自分本来の自我」この折り合いがつかなくなると、人は心を病んでしまう。分裂症とはまさにこの通りで、順応していたとしても、大小はあれどかなり多数のサラリーマンがこうした葛藤の中に身を置いていることが想像できる。

 

では、プライベートな自我を捨てて企業に尽くす。それが人としての正しさの様に映るが、案外そうではないのかもしれない。本来の意味での「健常」とは、障害を抱えようが、抱えまいが。自分の人間らしさを、個を、しっかりと自覚しようとする姿勢そのものではないだろうか。そして「べてるの家」の人々が教えてくれる「もう病気で出来ないんだったら、みんなでやろう」という純粋な寄合的人間観は、「個」に生きすぎる今の自分たちにとって「案外普通のはずなのに忘れている」ことを思い出させてくれるようである。

 

・最後に相模原の事件から

最後に。この本を読む上で、頭から外せなかったのがこの事件である。

相模原の殺傷事件に関するトピックス:朝日新聞デジタル

 

僕は正直に言えば、この事件の報を知り非常にモヤっとしたものを感じた。容疑者の危険かつ直情的な思想に対して、全否定出来ない僕の過去の発想が浮かんだからである。

 

僕が小学生時代に電車で奇声をあげながらドアに突進してる人を見たとき。きっと精神疾患だったのであろうが「この人はなんで生きてるんだろう」と純粋に思ってしまったのである。無意識下に感じたその発想は、歳をとるにつれ、頭の中では否定できても、何か心の奥底では、しこりのようなものを残すこととなった。

 

要は「普通に成長をする生き方が望めない人は生きてても仕方ない」こういう「べき論」が僕の中に存在していた、という事実をこの事件は想起させたのだ。

 

僕自身、小さいころにいじめを受け、それら相手を勉強やスポーツで見返した。しかし、逆に「スポーツ、勉強全般こなせなければ、人としての存在に価値がないのでは」そんな脅迫観念にも駆られることとなる。当然、周囲に対してもこうした穿った見方をすることになる。そのいきつく先が先ほどの「この人なんで生きているんだろう」という疑問だった。しかしまぁ、そんな「べき論」がいつまでも続くはずもなく、僕自身も先に書いた通りいくつかの挫折によって精神を摩耗させてしまうことになるのは別の話。

 

これら相模原の事件と「べてるの家」をそれぞれ見たときに。あまりこの複雑な社会に対してうまく順応などせずとも、人として生きるという事をもう一度ちゃんと考えないといけないなと強く感じた。「意味」や「価値」を求めすぎて、何かが狂い出すことは歴史の常だ。

 

間違って順調。折れて成功。我々がいつまでも「持続可能な成長」を目指す限り、何か窮屈さを感じる気がする。「出来ないなら排除する」そんな世界が待ち構えているように思えてならない。

 

そうではなく、出来ないのもまた人。限界があるのもまた人。感動なんかしなくてもよくて、自然にあるのもまた人。人は、生き物である事を、もう一度取り戻すべきなのかな、とかそんなことをぼんやり考えさせられた良書でした。