わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「格差社会」だから何なんだ

僕、結構こう見えて真面目なので、そんなことについて考え事をしたりする。

www3.nhk.or.jp

 

・格差は続くよどこまでも

上記のNHKニュース。なんだか、数字だけ見てると小学校高学年の算数の問題に出そうである。

 

「たかし君たち上位高所得者8人は貧民層36億人分の資産額を持っています。たかし君たち大富豪は一人当たり、何人分の貧民層の資産を抱えているでしょうか。」

 

うーん、エグイ。答えたくもない。それはさておき、この手のニュースを見たとき、我々は果たして何コマンドを押すべきなのかとよく考えたりする。「再分配すべきだ!」「いや、これが資本主義である」「まぁ俺には関係ない」「社会主義革命を!」沸いてくる感情は色々あるんだけど、何にせよこんな問題を解決するにも一小市民が何をしようと、無力であることには変わりない。タックスヘイブンからを金を盗んで、ねずみ小僧よろしく、貧しい村に小判をばらまくみたいな、そういう話でもない。

 

でも、ビットコインをハッキングして貧民層の端末にばら撒く「海外版ねずみ小僧」みたいなハリウッド映画あったらちょっと面白そう。ブロックチェーンをどう破るかとか見てみたい。

 

たしか昨年にも爆笑問題が司会のNHKスペシャルで『マネー・ワールド 資本主義の未来』という特集を組んでいた。アメリカの一部の富豪が政治家に組みすることで、結局資本主義の富の循環作用であるシャンパンタワー効果が起こらないという指摘がなされていた。貧しい人は貧しいままで、富める人は余計に富を集中させる。うん、番組を見てても確かに平等じゃない感じがする。日本においても正社員と派遣労働者の格差は広がる一方であり、同一労働同一賃金の議論も活発化している。

 

しかしながら、恐らく今後経済状況が好転しないまま、システムだけ「分配の平等」を取り入れようとしても、余計に社会主義的というか。「みんなで貧しくなろう」「みんなで我慢しよう」の流れになってしまい、それはそれでデストピア感が溢れてしょうがない気がする。これってどうしたもんかね、という悶々の中で面白い新聞記事に出会った。

 

カースト制度は単なる「格差」の体現ではない

日本農業新聞というニッチな業界紙があるが、訳あって毎日読んでいる。その1月15日付。明治大学の岡通太郎さんという講師の方の記事が載っていた。紙面をそのまま掲載するのはおそらく著作権的にアウトなので文字オンリーだが、タイトルは「インド農村から日本農村を見る」というもの。普段は流し読みだが、なんだか気になって読み込んでしまった。簡単に要約してみる。

 

僕の中でのインドのイメージは工業発展も著しい半面、中国のように国土・人口ともに莫大な為に国内格差が大きく、カースト制度といった階級差別もまだ地域によっては残っており、都市化は一部に限られてると思っていた。どうもそれは正解のようで、岡氏が研究したのも、そんな農村から都市化を半分果たしたようなグジャラート州という土地。もともと1~2割の富裕農家が土地持ち、7割以上の貧民層を使うような農村地帯であったという。そのグジャラート州の半分は農村から都市化(工業化)に成功。住民の平均所得は90年代の3倍以上となった。残りの半分は農村のまま所得は1.5倍から据え置き。つまり発展は遅れていると言ってよい。

 

しかし都市化に成功した方を見てみると、地域を治めていたのは商業知識がなく、下層の人とは関わり合いを持たない武人カーストの人たち。下層カーストの人が病気をしてもほったらかし。そこに工場が出来た所、農村との人材取り合いに。所得はアップ、エリアは都市化を果たす。しかし若者が農村から流出し農業は衰退。また工場での児童労働は絶えない。

 

逆に発展が遅れている地域を治めているのは、農業知識のあるいわゆる商人カーストという人たち。そこの上位層の人は、下層カーストの人へ農業訓練をするし、教育にも熱心。病気や冠婚葬祭の際には無担保・無利子で融資も行う。「下層カーストを助けるのは上位カーストの役割であり、これを果たさないのは恥」という文化が根付いている。その結果、農村として所得は大幅に変化はないものの、先を見た先人の考え方により若者は根付いているという。

 

・格差是正より求められるは、コミュニティと文化の在り方

この記事を読んで驚いたのはインドの「カースト制度」にも、しっかりとした封建制のポジティブな役割があったという点である。どうしてもカーストと聴くと勝手なイメージで奴隷制度とか日本でいうなら部落問題やらを想起させるような後ろめたさしかない文化と思っていたのだが、それも違うようである。

 

何もこれを読んで「日本も封建制を取り戻すべき」とかそんなことを言いたいわけではない。要はとかく所得の格差を是正したところで、それによってあるべき生活圏や家庭は取り戻せるのだろうか、という話である。

 

現在、日本においては晩婚や出生率の低下、核家族化など人と人を結びつけるコミュニティ自体の在り方が徐々にエントロピーが増大するように、その秩序を失ってきている。確かに、子供を育てるだけのお金がない、親を養うだけの余裕もない。国民の所得向上、格差是正はそれに対抗できる策の一つであることは認める。しかしながら、いくら所得向上・格差是正を掲げたところで、本当の生活の質を上げられるのだろうか。そして上記のインドのケースは何も特殊な例示ではないだろう。

 

日本においても結局は経済主体の「孤立化」を防がなければ、個々がそれぞれの生活のみに埋没し、繋がりのないままに労働し利益だけを求める。むしろ「先の富める者は弱きものを助ける」という文化が根付いたカースト制よりも低次元だと言える。よくわからない平等な「チャンス」のみがそれぞれに与えられただけの個人主義は、結局社会自体の衰退を招くというのは自明の理ではなかろうか。

 

また「格差社会」というがその格差社会にイラついているのはただの妬みの類ではなかろうかと自分を顧みて思ってしまう。確かに経済的に苦しい。奨学金なんていう学生ローンだって払い終わるのは東京五輪など遠い昔となった頃だ。そんな中、同じ社会に裕福な人がいるという事実は、何かこう気持ちをザワザワさせられるのも痛いほど分かる。

 

しかしながら、過剰な再分配というシステムも同時に問題をはらんでいるのは、歴史が見事に物語っている。僕個人としては大きな政府の方がいいとは思うけれども、格差社会の是正を!などとはあまり叫びたくない。目の前の弱者を見て「政府が悪い!」などと叫ぶのも、なんだか違う気がする。お前が舵を取れ事案であろう。

 

そしてインドの事例を見れば分かる通り、相互扶助システムをいかに個人あるいは自治体が保持できるのか。そこが肝だと思う。所得は向上しても上を見ればいくらでも格差は生じている。格差なんて言ってしまえば正直キリがないのだ。日本においては特に、所得以上にコミュニティにおける地位をそのようにフォローできる体制が「格差社会」という仮想敵を消滅させられる唯一の方法ではないかと。オールウェイズ3丁目な時代に戻れとは言わない。しかしながら、それすら唾棄すべきというのは、やはり今後の社会においても無理は生じるのだろう。今回岡氏の記事を読んで考えさせられてしまった。

 

まぁ逆に詰まるところ格差社会なんて、所詮解決しない問題だと僕は思う。牧歌的と笑われようが、所詮は人間が寄り合っての社会である。友人を目の前にして「お前は金を持ちすぎだ!格差だ!」とか叫びだしたら、それこそ世も末である。ふと格差の話に悶々してたところに、良い記事を見つけてしまい長々真面目に書いてしまった。冬の平日、一人布団に入るのも寂しい日々が続く。