わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

善意におぼれて窒息す

天気が晴れない。そうすると当然気分も晴れない。ふさぎ込みがちになるこんな日なので、相も変わらず暗い事を考えてしまった。

 

・LINEのグループチャットが苦手

である。この見出しだと語弊を招くかもしれないが、それはSkypeでもメッセンジャーでも一緒だ。つまりグループチャット。これが苦手で仕方がない。たまに一晩でも放っておくと何十件、時に何百件もの未読通知があったりして。もう気分的には増えるワカメをただ眺めているようである。「おい、眺めてないでなんか言えよ」よく怒られる。「ごめん」とは言いつつも、なんだか釈然としない感情だけが残る。

 

ちょっと「苦手」の言い訳をさせてほしい。各所いろいろ言い分はあるだろうが、ここで普段の対面コミュニケーション、特に同様の形式であるグループ内で話す際を思い浮かべる。自分の振る舞いはこうだ。今この人が喋ってる内容は自分に関係ないと思ったら基本黙っている。脱線したら元に戻してみる、いや、あえて脱線に乗っかってみる。あ、そこの人黙ってて暇そうだなと感じたら話を変える、いっそ話を振る。そう、僕はどちらかと言えば空気を読みすぎる質である。

 

その場その場の人の顔色を窺いながら空気を探って発言を考える人間にとって、グループチャットのあの場というのはもはや真空状態なのだ。読むべき空気も存在せず、誰がどんな顔してるのかもわからない、賛同の後ろ盾もない情報不足甚だしいところに、文字だけ残すという会話というのはもうある種宣言に近い。RPGで言えば、敵のステータス値がわからないのに戦闘に行けるか馬鹿野郎という話である。

 

「そこまで求めてねえから。出席するかどうかだけでも返信よこせよ」とも言われる。ごもっともだ。確かに予定を見りゃそのくらいは返信出来る。ただ、なんだこの見えないパワーバランスは。見えないあいつは僕の返答いかんで答えを変えそうだぞ、あるいは最後に回答した方がこのイベント自体の全体像が見えてとか云々。たぶん僕が被害妄想で勝手に抱いているだけなのだろうけど、その単純なYes/Noを答えること、何人既読したという事にすら政治的恣意を感じてしまう。もはや将棋とかボードゲームに近い。つまるところ考えすぎ根暗ならではの文字コミュ障なのである。

 

・善意で窒息する瞬間

まぁ、以上の通りグループチャット無精であることは理解いただけたと思う。すると時たま、そうしたチャットの場でキレる人を数年に1度見かける事になる。短絡的に言えば、何かしらの幹事されてる方が予定調整やら「みんなの反応が悪い」という事でお怒りになる場面である。

 

メッセンジャー時代からそんなこともあったなぁとか思いつつ。今やLINE全盛の時代。おっさんでもそうなのだから、モテレイヤーさんとかそういう光景は日常茶飯事なんじゃねえかと思ったりもする。いやいや、一般論にするなお前の反応が悪いだけだろ、という自己反省も正しいことこの上ないのだが、ふと思った。結構こういうグループチャットでの返答に困ってる人って多いのかもしれない。だって、そうじゃないと幹事キレないよね。俺だけがハブられて済むもんね、と。

 

ふとそんな折。僕の中学生時代、こんな出来事があったのを思い出した。合唱コンクールで。一人生真面目な女の子がいて、練習やら曲決めやら取り仕切ってて。女子は団結して「ちょっと男子ー?」という感じならよかったのだけど、女子もノリが悪かった。彼女の奮闘むなしく中途半端な空気のまま当日。当然結果も振るわなかった。そのコンクールが終わっての学級会。彼女はひたすらに謝った。全員の前に出て、金切り声を上げて何度も「ごめんなさい」と叫びながら、最後は突然走って教室を出て行ってしまい、クラスは茫然。それ以降彼女は学校に来なかった。

 

今でも鮮明に覚えているあたり、ガッツリとトラウマになってる出来事である。僕もそこまで彼女が真剣であり、追い詰められているという事にも気づかなかった。どうしたらそれを回避出来たのか、というタラレバも考え続けたが彼女に声をかけるべきだった。とかそんなにいい回答は浮かばなかった。

 

上記は極端なケースかもしれない。ただ、気づいたこととして。人の善意というものは、相手が大衆であればあるほど分散し、そもそもそれが善意であったことすら分解する。逆もまたしかりで、誰かが仕切っているところを見ても、とりわけ日本人はその重さに気づきにくいのかもしれない。これが善意の窒息というか。ひとりの善意は多数に吸収され、いつか本人が呼吸困難を起こす。僕自身の反省も含めて、この出来事自体がそんな現象に思えて仕方がなかった。

 

・大衆に善性はないと思え

というのが先の出来事から僕の抱いた結論である。当然、そこに自分も含める。個々の人間性という以上に、パワーバランスの問題である。「衆愚」なんて言葉もあるが「愚」というより、むしろ大衆になると人は非常にシステマティックに判断するものだと思う。そこには国民性だったり社会性が大きく影響するが、一様にまず集団におけるリスクヘッジをし、各人リアクションが遅れたり消極的になったり、一辺倒な回答になったりする。その結果として「愚」となることも否定はできないが。

 

一国を動かすのと同等に語るのは大げさかもしれないが、10人前後のグループを動かすにも結局「味方」を作るほかはないわけで。「みんな友達、みんな味方」と思ってもその友達が大衆化すれば、話は変わる。単に「相手個人からの要望に応える」ことと「集団内においての彼個人の要望に応える」ことは意味合いが違う。特にグループチャットにおいて、情報発信者の存在はメディアに近い。一方的に複数人へ情報を提供すると、情報を受ける側からすれば、ネットから情報を落とすことと大差なく感じる。そうすると、顔は見えない、情報は流れてくる、すぐに友達グループだったはずのものは大衆化する。

 

それを防ぐには、やはりマンツーマン会話での「根回し」が重要となる。根回しと聞いてネガティブなイメージを持つ人もいるのかもしれないが、所詮人は目の前の人の要望にしか忠実には応えられない。例えば「地球にやさしく」なんて言われたところでピンとこないけど、自分の子供の将来を想像すれば「資源を大切に」と言えるのかもしれない。「Think globally,act locally」なんて言葉もあるが、善意を持つことが無意味なのではなく、それを同時に届けられる人数には限りがある、ということだ。

 

まず集団を相手にするならば、集団の中に何人サシの関係を作れるのか。集団において返答がなくとも、信頼関係を継続できる状態を作れるのかというのが、手間はかかるが実利的で、精神的にも良い気がする。てか、もう一人ひとり聞いて回って、結論の伝達だけグループチャットにする。だって意見のわからないままの集団を相手にするというのは、心に良くない。僕なら全員を疑ってしまう。集団飲みにもグループチャットが必要なこのご時世、果たして幹事なんて芸当ができるのか不安になってきた。んー、無理くさい。

 

 

ということで、理屈ぽく言ってはみたものの、結局自分の人間性がクソなのだ、という結論でこの話も終わりそうである。ちゃんとこれからは幹事してくれる人を大切にして、グループチャットが怖くても、自分からみんなに寄り添っていく人生を歩めれば、いいなぁ。