わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

休まない兎としぶとい亀

ふとこんなツイートを眺めていて思った事をば。つらつらと。

TAKUMI™画集発売中 on Twitter: "プロになれるかどうかは別としても、必死に努力しても上達しない人はしないし、何の苦もなく人より上手くできる人はどの業界にもいる。それが才能。「努力すれば誰でも論」は生まれ持った要素が大きいという事実から目を背けて不向きな道を進もうとする者を勘違いさせて時間を浪費させる残酷な理論。"

 

TAKUMI™画集発売中 on Twitter: "遅くてもコツコツ努力を続ければ「兎と亀」みたいに怠けてる天才に追い着く事はできると考えがちだけど、実際には努力を努力と思っていない事こそ才能ある人の特徴だから、彼らは総じて走るのをやめない眠らぬ兎。だから先天的な速度が勝っていない限り才能ある先人を追い越す事はできないとよく感じる"

 

・少年よ 大志を抱け ワナビー

早速身もふたもない一句を詠んでしまった。「ワンピース」に空目しそうなのがなんとも罪深い。のっけから言い切るのもアレな気がするけど、こんなところで長文を吹聴気味に書き散らしている時点で僕もいわゆる「ワナビー」ってヤツの一種なのだろうと思った。確かこのワナビーという単語。小説家とか文筆家辺りになりたい、けど才能や実力が伴っていない人を嘲笑するネットスラングだったはずである。まさに「こんな独りよがりな文章ばっか書いてwwワナビー乙ww」って感じだ。また、広義に捉えれば例えば漫画家やイラストレーター、バンドマンといった、クリエイター全般に「なりたい」という人たちを包括して、そう呼称しているとも捉えられる。


それを踏まえて言うが、上で掲載したこのツイートで言われる指摘は実に正しいと思う。才能、天才は確実に存在する。それを否定する人はまずいない。メディアなんかでも「稀代の天才」とか「才能を持った若手」とかそんな文章をよく使う。しかし、その割には「誰にも才能はあるもの」とか「努力すれば必ず叶う」とかそんな言葉も好きなようである。とかく「天賦の才」という存在は選民的な発想に繋がりやすい。そうした非平等な文脈に反発を抱く人もいるのは容易に想像が付く。その為、ドリームズカムトゥルーみたいなエクスキューズが必要になり、結局「天才は確かにいる、でも努力し続ければ必ず成功する」という耳障りだけ良いジレンマお題目が一般論としてはびこるようになった。という訳であろう。

既にこのブログでも表明している話だが、僕自身過去にはバンドマンを夢見たり、オリジナルの漫画を描いてみたり、高校時代には甲子園を目指していた。その経験によって一番感じた事はやはり「諦めなければ夢は叶う」なんて綺麗ごとでは決してなく「天才はマジで天才」という事実である。いや、当然やってみて良かったなと思えたことは沢山あったわけだけど、そうした「上を目指す」という意識でやり始めると、当たり前だが「上」の存在に出会う事になる。それぞれ10年近くは続けたわけだが、そうした人に会うたび努力だけでは超えられない何かがあると感じてしまう。

特に一番ギターに熱中していた頃。1日10時間練習しているのは当たり前で、とかく弾き続けた時期があった。そのおかげである程度の技量が身につきバンド活動なんかもプロを目指して本格的にやってみたいと思っていた。そんな中当時、僕にいろいろ教えてくれていた師匠みたいな人がいて、その人に言われた言葉が未だに忘れられない。

 

君は多分このまま努力を続ければトップアマにはなれる。ただプロの世界は全く話が別だ。」

 

その後、僕が音楽でトップアマになったかと言えば、そんなこともなく努力も途絶え平然と今を過ごしているわけだけれども。その世界で金を稼ぐ、あるいは高みを目指す事自体が別次元の話だと思い知らされた言葉だ。現に今、プロとして周囲で活躍している人間を身近にしてみるとその技量はもう努力という言葉一つで片付けられるものでないと一瞬にしてわかる。都度「すげえ」って純粋に思うのであった。

兎と亀の話に戻せば、詰まるところどの世界でも結局は亀なんか眼中になく「サボらない兎たち」同士のストイックな争いなのである。ワナビーならば、こうした世界に身を置く事を理解すべきだ。そして自分の力量を客観的に見定めるというのは、プロになるとかそうした職業意識がなかったとしても、何かを作ろうとする人には最低限必要な作業と思う。

 

・亀は亀の歩き方を考える

それでは、そんな勝負の眼中にも入れない亀は歩む事を止めるべきなのだろうか。という話になる。僕自身も今回の話の通り「才能のない人間の固執は時間の無駄」という発想は良く理解が出来るし、実際僕もそう思っていた。例えば、コツのつかみが早い、勤勉、まじめといった要素を兼ねそろえた秀才は、しっかりと頑張ればきっと「A」は取れる。しかし天才はそもそも「S」を取る方法を知っている。いや、その方法を持ってると言った方が適切か。その差は僅差のように見えて限りなく大きい。そして人々が金を払ったり賞賛をするのは「S」ランクのモノが常である。

しかし、ワナビーでも徐々にこの年齢になってくると自分の身の程が分かってくる。どうやら自分は天才なんかでは決してない。作れないもの、出来ない事の方が遥かに多い。

 

ただそこで諦めたくない凡人は、何とか生成した「A」「B」ランクのモノを使って、いかに立ち回るか。こういう思考が徐々に芽生えてくる。詭弁だが、兎と亀は競争しているように見えてその実全く違う歩み方をしているだけとも思える。弱者擁護のように捉えられたらそれはそれで仕方ないのだけど、歩みがのろければその間に何を観察し、何を判断し、何を得ながら歩くかを考えればよい。

ネット上では既に有名な話になったが故・水木しげる先生の「幸福の七か条」というものがある。その中にある一説「しないではいられないことをし続けなさい」という一文。そこらの「楽しいことをしたい」というレベルとも違うのだろう。自分がせねばならないと感じた事ならば、やはり才能の有無に関わらず実直にそれと向き合うべきなのだ、というある種の覚悟を伴った至言ではないだろうか。そして、この言葉は「特別なオンリーワンになればよい」「いつか夢は叶うはず」という安易な慰めなんかではないように聞こえる。

 

少しでも「何かをすべきだ」と感じたのならば、才能を言い訳にせず抗えと。才能がないなら、才能のないヤツなりの努力をしろと。亀なら亀なりにしぶとく歩けと、そう言われているような気がしてならない。


冒頭から言っている通り、才能の有無の差はどの世界にも残酷なまでに存在している。以上の戯言が身勝手なワナビー感情の表出だという事も分かっている。それでもフランクルも言った通り。人生の意味を問うのでなく、人生に期待されてる事を考えよ、だ。自分の身の程を踏まえた上で、出来る事を積み上げるしかないのである。才能のない人間の悪あがきが時間の無駄だと言われたところで、所詮人生など大いなる時間の無駄遣いではないだろうか。

 

確かにツイートでの指摘の通り。耳障りの良い「努力すれば誰でも」という言葉は残酷なだけである。「誰でも」になりたいのであれば、才能という存在に立ち向かう覚悟が、そこには必須の条件となることだろう。

今回このツイートを見ながら、普段思っている才能や努力、そんな事についてぼんやりと考え事が捗ってしまった。毎度青臭くて自分でも嫌になってくるわけだが、夏コミに向けての制作が既に始まっており、少しはモチベ維持に努めなければと、こんな内容をまき散らした次第である。まぁ、僕が言いたいことは全部日本橋ヨヲコ先生の『G線上ヘブンズドア』に書かれてるので読んでねって話である。