わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「その映画面白い?」に対する正しい答えがわからない

今日は「人によって面白いと思う作品って違うよね」っていう当たり前のことをうだうだ考え始めてしまったので、それについてのぼやきです。

 

・「俺がその映画面白くないと思っているのは、俺に映画を見る素養がないから」

最近映画を見る本数が増えてきた。要因はいろいろある。TOHOシネマズ日本橋が会社から思った以上に近いと気づいたり、amazonで乳首責めグッズ注文したら「あれ・・・なんで送料無料になるんだろ」と、調べたらプライムに登録していると後から知ったり。劇場やら家のテレビ含めて、今年に入って見た映画の本数は10本程。

 

そりゃ映画通からしたら「なんだよたったのそれだけかよwwww」と一笑に付されるのはもう最初から分かっているので先に拗ねているのだが、元来「2時間も座って1作品見ている時間がもったいない」とか思ってた人間にとっては大きな進歩であろう。(アニメは一気見するくせにね)まぁ、単純に歳をとって時間感覚が変わっただけという言い方も出来る。

 

そしてそれだけ映画を見ていれば、毎度ブログに感想書いて細かくPVでも稼ごうかと思ったりする。しかしながら、語ろうとするほど「あれ・・本当に面白かったのか・・・この映画・・・」と自分の感覚が分からなくなってくる。見た直後「良かった」とか「イマイチだったな」とそんな印象は抱くのだけど、果たしてそのインプレッションが「あるべき批評」なのかが分からなくなってくるのだ。

 

「素人が何を評論家気取って悩んでんだ、書きたいこと書け!」そんな批判は既に左脳が延々繰り返しているので知ってる。しかし、例えば自分の感情論振り回して「物足りなかった!」と叫んでみても、それは自分にその物語を楽しむ素養や感受性が欠けていただけで、映画がクソなんじゃねえ、お前がクソなんだよみたいな、デカルト的思惟に至ってもう何も書けたもんじゃない。先日も『ラ・ラ・ランド』鑑賞後、思いの丈をブログにぶつけてみたが、後から読むと、客観主観が綯交ぜになり、例えもぐちゃぐちゃ。「高級すし屋でお任せ頼んだら最後に鯖が出てきて、ちょっとがっかりしたけど結局めっちゃ旨かったみたいな」と本作を見てない人でも語彙と感性の壊滅っぷりがご理解いただけるだろう。いたたまれなくなって、そっと下書きにぶち込んである次第である。

 

・2017年 おっさん同士の『ラブライブ!』討論

ふと先日の話だが2017年の今更、初期『ラブライブ!』の感想をアラサーおっさんである私と、友人であるアラフォーおっさんと討論。ちょっと酔っていたこともあり本格的な口論に発展。宅飲みの最中、本気で険悪な空気になった。振り返ればそれはそれで笑えるエピソードなのだけど、やはり人によって「作品を楽しむ素養」の相違があることに今更気づかされる。

 

僕はちなみに1期でキツイ。別の場所でも書いた気がするが穂乃果がことりの海外行きに対して反対を示すシーン。あそこで一気にチンコが萎えたのだ。いや、未来ある学生が母のコネでも海外経験を積めるチャンスだぞと。本人が行きたくないという意思はあれど、友人としては背中を押してやるのが筋じゃねえの?ただ、穂乃果が海外行きを応援したとして、その上でことり自身で「行きたくない」と決意を固めて日本に残るとしたなら僕は納得しただろう。あるいはアイマスみたいに、プロアイドルであれば海外行きを止めるメンバーの気持ちも理解できなくない。ただ、プロでもないスクールアイドルが大親友の将来を一時の感情で止めていいもんかね。とか。

 

そういう理屈だったのだけど「いや、そこそもそもラブライブ!の主題じゃなくねえ?そもそもことりは止めて欲しかったんだから」と一発でぶった切られた。あ、そうなのね。そういう作品か。確かにあれが添え物としてのエピソードなら、うな重の横の奈良漬けに憤慨してる自分が実に滑稽である。そっか、俺奈良漬けをまずいまずいって言ってたのか。そんなこともあり、冒頭からの葛藤の通り、何が面白い作品なのか分からなくなっていたわけだが。そこからむしろ自分が何をもって映画やアニメといった作品に対して「面白い」と断定しているのかに興味が湧いてきたのだ。俺の基準って一体。そもそも何が琴線なのだろうと、そんなことを暇つぶしに考え出していた。

 

・「その映画って面白い?」に対して

もうお分かりかと思うが、この問いに対する解は「自分で見てみれば?」である。だって面白いって思う事は本当に人それぞれなのだもの。僕にとってのうな重が、貴方にとっての肝吸いかもしれないし、その逆もまた然りなのだ。わっかるっかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ、なのである。

 

そして、先ほどの内省を経て、おそらく僕の場合「あぁ、この作品面白いなぁ」と感じる作品には「必然性」という要素があると感じる。つまり伏線の回収や過去との合致、そして作品のその先の世界が想像できるか、といった具合だ。逆にそれが薄かったり納得いかなかったりすると僕は「面白くねえ」となる。

 

よくクソ映画としてみなされる「投げっぱなし」タイプの話がある。「え、この後どうすんのよ」みたいな。たくさん候補はあるだろうが望月峯太郎氏の漫画を実写映画化した『ドラゴンヘッド』等は投げっぱなしジャーマンの代表作としても知られる。昔劇場で見た為、絶対忘れもしないが、EDを迎えた際にほぼ全観客から「「えっ?」」というざわつきが起きるレベルでのジャーマンである。

 

また書いていて思い出したが、そうした作品を忌諱するきっかけになったのが、水島新司氏の『ドカベンプロ野球編~』である。本来大好きな作品なのだが、プロ野球編も長くなると水島氏の悪癖、伏線張るだけ張ってその存在を忘れる「伏線張り投げ」という技が編み出されていく。特に酷かったのが明訓高校から巨人に入った微笑三太郎というスラッガーがいる。某シーズンの冬季自主トレで、彼の調子が思わしくないという話題が取り上げられ「そのトレードマークである微笑が彼の顔から消えた!!」みたいなコマがデカデカと掲載されたにも関わらず、なんの復調の描写もないままその年の年間MVPを取るのだ。え?微笑の顔から微笑消えたの過去初だよね?めっちゃ大事件だよね?それを普通に流すの?多感な巨人ファンの子供だった当時、僕はそのことに納得が全くできず全巻売ってしまったのも懐かしい。

(※その後のスーパースターズ編でもまた微笑、スランプで笑わなくなる)

 

自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたのだけど「必然性」という要素はどういったものか。例えば僕の一番好きな映画は『ビッグフィッシュ』だ。見た人には分かるだろうがあの伏線回収の仕方である。それまで話中に散らばっていたものを、最後には綺麗に取りまとめるあの手法である。すべてが必然だったことに、やはり感動を覚えてしまう。

 

むしろ、たとえ内容が不可解でもバッドエンドでもその「必然性」さえあれば僕は良いのだということも分かる。もう1本、僕が好きな作品として。賛否が分かれる『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』などは、完全にその必然性に惹かれた作品だ。個人的にはこの作品があったから「まどか☆マギカ」全編を好きになれた程である。本編において僕が不服だったのは、ほむらがまどか救いたさのみでタイムリープを繰り返す事に対し、報いがそれまでなかったからである。そんな型月で言うところの第五魔法を何回も犯して彼女に代償がないはずなかろう、と。愛が憎しみと同化し悪に堕ちた彼女を見て、涙を流しながら納得したのも懐かしい。完全にものの見方が穿ってるのは自分でも分かってるので、石など投げないでほしい。

 

 

とかくまぁ、ブログでこういう真似事をしてみると映画評論家だったり文学評論家っていう人たちは本当に大変だなぁと思う。自分のエゴにどこまで自分の客観性を付与させるのか。そのバランスの駆け引きは難しい。正直言えば思った通り自分の納得いかない部分を晒し上げた方が人の目につくし、言葉は悪いが炎上商法みたいな記事も書けたりする。むしろ言葉には「勢い」というものがある。客観性は調味料くらいのほうが、味が伝わるものなのだろう。ただ、その分、感情論を勢いよく繰り出すと脚が浮く。ネット社会とは怖いところで、誰かの上がった脚をやれ武将の首のように取りたがる足軽が多いこと。

 

今回はコミケ原稿の合間に、気を紛らす為考えたことが長くなってきて文章にしてしまったが、たまにはこういう考え事も面白いものである。なんとなく自分の性質を知るという意味でも「コンテンツや作品の好き嫌いの基準」を自分で考えるという営みは無駄じゃないのかもしれない。きっと好きな映画やアニメに出会える機会も増えたらいいなと思う