わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

批評と意図についての話

f:id:daizumi6315:20170322222539j:plain

©2017 ひるね姫製作委員会 出展・ワーナー公式サイトより

https://warnerbros.co.jp/movies/detail.php?title_id=51422

 

季節の変わり目ということもあって、なんだか意味もなくイライラしている。あまりストレスをため込むのも健康に良くないとは思いつつ、膣圧が強くなければ性交中射精すりゃできやしない。何が言いたいかっていうと、多少のイライラや抑圧があったほうが考え事はアウトプットされやすいってこと。もう最初からどうしようもないたとえなのだけど、最近何かを批評することについて考えていたことをまた漏らしていく。基本的には前回書いた記事の続きというか、ほぼ近しい感じの事ではある。

 

・面白いか面白くないかの前に考えるべきこと

ということで、タイトル下にも画像を掲げた通り。3月18日(土)に封切となった『ひるね姫~知らないワタシの物語~』を早速見てきた。『攻殻機動隊S.A.C』『東のエデン』といった作品で知られる神山監督の最新作。予告だけ見るとかなりファンシーな感じだが、これまでの経歴を鑑みるになかなか安心して観ることができない。さて、いざ勝負と意気込んで見てみたのだが、思いの他かなりふんわりとした印象を受けた。

 

簡単にストーリーを。主人公は至ってふつうの田舎女子高生、森川ココネ。昼寝が得意な彼女が見る夢と、現実におけるストーリーが徐々にリンクしていき、双方での冒険を通して自分の出生の秘密や家族の謎などが少しずつ明らかにされていくというファンタジー調ファミリー冒険活劇。とでも言おうか。個人的には『パプリカ』を『ジュブナイル』で割って『サマーウォーズ』で味を調えて『パシフィックリム』を隠し味に入れた、そんな感じの印象を受けた。

 

ぶっちゃけてしまうと、個人的には上記の通り雑多すぎてストーリーの奥行に物足りない感じを受けてしまったのだ。それはそもそも僕が神山監督の過去作に引っ張られたままの期待をしていたからという理由もあるのだが、もう少し各キャラクターの心理や過去に基づく描写や要素が欲しかったな・・・と感じつつ、TOHOシネマズ日本橋を後にしたのである。

 

んー、もうちょっとなぁ。そんな感情を抱きながら今朝。毎朝のNHKの『おはよう日本』を見ているのだけど、そのエンタメコーナー内で神山監督が本作を語っていたのである。その一部、記憶している限りではこんな感じだった。「3.11以降、それまで当然とされていた平和な日々が現実的なものでなくなった。逆に平穏無事な世界がファンタジーのような存在になってしまい、アニメ作品として描くのが難しくなっていた。今回はその上で自分の子供に見てほしいファンタジーを描いたつもり」という話だった。

 

この話を聞いた時に、なんていうか非常に納得できた。というより反省した。そもそもこの作品の向いている先は僕ら疲れたアラサーリーマンおっさんオタクではない、という話である。例えば今の10代が見て、この作品を新たなファンタジーと捉えられるかどうか。そんな意図と狙いに溢れた本作に対して「この映画には僕らにとってのカタルシスが足りない」と言うこと自体がナンセンスだったようにも感じる。朝から自分自身の観点が凝り固まっているという事に気づかされるようであった。それを踏まえてもう一度、心をリフレッシュして観てみたくなってきた。

 

・制作の意図を汲んでカテゴライズするのが「批評」

僕個人の意見を言えば、単純に自分の物差しでただ「面白い」か「面白くない」かを論じるというのは批評ではないと思っている。何の為に、誰を対象にして作品が作られるかを勘案し、その情報を然るべき人に提供する、リコメンドする。これが実益を伴った批評の在り方だと僕は思う。食べ物と同様にストーリーの好みなんて千差万別で、前回の記事でも書いた通りだが話に得手不得手もある。アレルギーを持っている人には逆にストップをかけてあげ、逆に食わず嫌いなら、どう克服させるかというのも、何かを批評することの醍醐味であると僕は思う。

 

ここまでくると実際、ビブリオバトルやプレゼンに近い。そんなものは批評の枠組みではないというお叱りも受けるかもしれない。ただ、何にせよ今回の本題として言いたいことは意図や狙いを考えよう、という事である。よくネット上にて、巷でヒットしている作品に対して噛みつく意見もよく見かけるが、こうした場合完全にただ自分のテリトリーの中に持ち込んで、ストーリーがなっていないとか技法がクソだとか該当するタイトルを叩いている場合が多い。何故そのような作品を作ろうと思ったのか、あるいは何故そうした技法になったのか、という部分から論ずる人が少ない気がする。

 

意図を汲むといっても、必ずしも正解である必要はない。その考える姿勢こそが作品を論じる上で最も重要なポイントだと思うのである。例えば今回アカデミー賞で話題となった『ラ・ラ・ランド』正直言えばストーリーはシンプルであり、あまり深みがないと言えばない。しかしそこだけで論じるべき作品だろうか、そうではない筈である。アカデミー作曲賞美術賞を受賞したように、高い芸術性にこそ演者や制作陣の意図は込められていると感じるし、ストーリーがシンプルだからこそ、演出が際立つという見方も出来る。

 

乱暴に言えば、B級映画を「クソ映画だ、面白くない」と本気で断じる人は、そもそも作品自体を批評出来ていないという話だ。そうした過去から連綿と流れるB級の文脈や制作側の意図を汲んでB級映画をちゃんと「B級映画」とカテゴライズをしてあげ、愛好するあるいはそうした同志に紹介できる。そうした深い懐こそがオタク的に作品を語る上では必要な姿勢であると思うのである。当然、救いようもないクソ映画も存在する訳だが、それはそれとして同様に深い部分から断罪してあげるべきだろう。

 

・「クソリプ」とは意図を無視したコミュニケーションである

冒頭から『ひるね姫』を引き合いに出して、言いたい事だけを言っている感が否めないが、結局はそういう事である。こうした意図と批評の関係性は、単純なコミュニケーションの話にまで昇華できたりする。ツイッターなんかでも古来よりクソリプという存在が後を絶たないわけだが、そのほとんどが発言者の意図を気にしない「返答」であると言える。例えば、ふざけたネタツイートに対して、本気でぶつかっていくそのクソリプとしてのあり方は、そのクソリプ主の自己発散でしかない。相手の発言やその意図はもうどうでもいい存在と化している。

 

SNSにおけるこうした発言ややり取りを眺めていると、ちょっと不安になった。意図を無視する流れや風潮というのは、ネットにおける雑多なコミュニケーションの中で増長しているのではないかと。前からこういう話をしているが、批判をしている当人がアピールしたいのは「叩いている俺」であって、趣旨はその作品自体の落ち度ではなかったりする。逆もしかりで、作品を称賛していてもやはり誇示したいのは自分なのである。当然作品を好きになることで、ファンとしての自我を確立させることはあってもいいのだが、コンテンツの意図すら無視した自分ありきな「批評」の存在には違和感を感じていた。

 

そして、どうやらそうした嫌悪の対象として自分すら棚に上げきれなくなってきたのを、今朝感じたのである。客観的に「これは誰向けの作品」「どういった趣向なのか」という形で考えることを放棄して「なんとなく面白くない」と考えがちだった自分の観方と向かい合ったのである。無理して食べるということではなく、何故あまり美味しく感じないか。それを考えることは、作品を楽しむうえで決して無駄ではない。

 

「今を生きるオタクの価値観は、日々、毎時間更新されるべき。」そう先達に教わったことをふと思い出した。クソリプばっかの老害にならない為にも、また自分自身のものの観方を柔軟に保つ為にも、この意図を汲む姿勢というのは忘れないようにしたい、という自戒のめんどくさい日記でした。