わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

日本のモノづくり復活と同人活動のススメ

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最近ニュースを見ていると日本の家電・ITを中心としたモノづくり企業が窮地に立たされているという話をよく目にする。東芝については、ここ数年の中で低迷していた経営体質が明るみになり大きな問題となった。現在ではその主幹事業であったメモリ事業売却先の決定に奔走している。また、鳴り物入りで立ち上がった日本の主要メーカーが合弁した企業「ジャパンディスプレイ」についても同様、アジア各国の新興ブランドとのコスト競争を前に苦戦を強いられている。

 

そんな昨今。僕ら昭和好況期を知らない人間からすると、今の大手家電メーカーに対する懐疑の念は強く「そもそも今の大手日本企業って昭和期の新規参入メリットや、特需で成り上がっただけなの?」という思いすら抱く。日経なんか読みつつ、ぼんやりとそんな事を考えながら、つい最近あったことから滔々と考え事。

 

・「営業職だからわかんないだろうけど」

突如話が変わるようだが、オタク趣味を抱えて色んなところで活動していると、種々オフ会に参加させて頂く機会もあったりする。ネット上ではあんな発言しているけど、この人会うとちゃんと働いてるんだな・・・とか仕事の話になることもある。すると、どうもたまにこんな思いを抱く。

 

「なんていうか、オタクって営業職って少ないよなぁ・・」僕の周りだけの問題かもしれないが、比較的頷ける人もいるのではないだろうか。IT含めた技術系職の人がやはり多い印象。そして種々専門職。たまに「そんな仕事してるんだ?!」みたいな特殊ケースな人もいるけど、世の中に結構いるはずの営業職と出会う事って案外レアな印象を受ける。

 

先日もそんなオタク同士の飲み会の席。参加者は数人いるも営業職は僕一人。周りはITエンジニアやプログラマで埋められている。すると酒も入り、次第に仕事の話から「職業におけるモノづくりとは何ぞや」という話になる。それぞれがクライアントとの過去の話だとか、納期の愚痴だとかが飛び出す。ちょっときな臭いなとは思いつつ聞いていると、僕に向かってこんなことを言った人がいた。

 

「君は営業職系だから分からないだろうけど」

 

言った当人はだいぶ酔っぱらっていたし、覚えているかはわからないが、僕個人としてはその言葉になんだか異常に腹が立った。そのまま話を聞いていると営業という仕事は仕事を取るだけ取って、自分は結局何も作れない。相手の調子に合わせてるだけで成績が上がる立場じゃないか。と。確かに彼の話に頷くところは大きいし、ネット上でもよくみる揶揄である。これを読んで同意する方も多いことだろう。

 

しかしながら、専門商社という立場で仕事をしている身としては反発も多いにある。人口減、需要減の世の中。その中で既存の仕事を得る為にどれだけ自分を投げうっているのか。相手が自分の足元を見ているのが分かる中、出たくもない飲み会に参加して、必死に足掻いている人たちがどれだけいるのか。その安直な「営業職だから」という言葉は、彼の職業的な立場として理解出来る言葉ではあるものの、やはり何か僕の中の心をざわつかせるには十分なものであった。

 

・斜陽の原因はすっかり固定化した対立軸では

その帰り道。先に言われたエンジニアオタ勢からの「営業職はこれだから」という突き放しを自分の中で改めて反芻する。すると次第に、これってすべての産業において在りうる対立軸なんだなと痛感した。正直自分の日頃の仕事でもわかってはいた。製造部隊に無理を言って、なんとか納期を間に合わせる。営業もエンドユーザーの「絶対」を守ろうとする。営業も製造もお互いに消耗しあっているのである。

 

そんなことを続けていれば、疲弊して次第に対立が生まれるのは自明の理である。この話は鶏と卵のようなもので「プロダクツが先か、案件が先か」という話だ。こんなことは延々話し合っても喧々諤々の議論になるであろうし、だからこそ昭和期から製造メーカーでは「現場を知った営業が強い」という話に落ち着いたりして、経営者も工場出身者などが抜擢されるという事も多かった。

 

しかし、近年になると中堅含めた大手企業は四大卒以上を採用するのが普通になっているし、そうすれば自ずと現場を知らない、あるいは逆に営業畑を知らない人物が幹部に登用されるというケースも多分にみられる様になったわけで。徐々に上記の対立軸は人事を含めた「派閥」となって現れ、経営以前に社内における権力抗争の具となることがしばしばである。

 

そしてここで言いたいのは、この対立軸の固定化こそが、日本企業のモノづくりを徐々に衰退させた原因そのものなのではないかという話だ。工場のプライド、営業の矜持、そして目指されるべき数字。詰まるところ製造、営業、管理という三部門がそれぞれの立場において、会社が自らのスタンスを維持するだけの場所になってしまえば、そこには最早競争力や創造力などは既になく、ただの「自らの居場所をそれぞれが求めるコミュニティ」のみが残ってしまうのではという話だ。そうなってしまえば、どれだけ大きな企業でも次第に斜陽になるのは明らかだろう。

 

・創業者精神ってつまるところ同人活動みたいなものか

僕らが例えば、本田技研トヨタ、シャープやパナソニック、あるいは任天堂などといった今や日本を代表する企業を思い浮かべるとき。必ずそこには創業者の存在がある。既に各所でそれは本になっていたり、ドラマ化されていたりもする。

 

たいていの場合、それは戦後の何もない状態からのモノづくりからスタートしている。そして偉大な創業者たちの逸話を読めばわかる通り、往々にしてモノづくりと営業活動は一体である。自分の作ったものを自分で売る。これが最初期の企業のスタートである。そこでふと思った。規模感や価値観は、確かにまるで違うけれども。やっていることの本質は同人活動とさして変わらないのでは。と。

 

自分なんかを、松下幸之助氏や盛田昭夫氏などと並べるつもりなどほんっとに毛ほどもないのだけれど、自分が日ごろやっていることを分解すると、詰まるところ同人活動は本を企画し、自らのコストで製造し、自分で売るという流れそのものである。そしてコミケなんかを覗けば、多くの人がこれと同じことを同人活動を通して行っている。ここに何か小さな可能性を感じたのである。

 

 

先の「営業職だから分かんないだろうけど」という言葉に憤りを感じたのも、おそらくどこかで僕が同人活動を通して感じていた「作る難しさ」を実感した事があったからこそかもしれない。自ら企画し、自ら作って、自ら宣伝し、自ら売る。たとえ趣味であったとしても、このルーティンのリスクと楽しさを知っている人は、きっと「自らの役割の殻」に籠りはしない。

 

むしろ先の「営業職はこれだから」「製造部隊のくせに」という価値観で仕事を見ている人にこそこの同人活動をしてみてほしいと感じた。作ったはいいけど、誰にどう売るんだ?大部数にしたほうが製造コストは下がるけど、その先の在庫管理はどうするんだ?製造コストから単価設定をいくらにするんだ?趣味と商業の境目はどこなんだ?こうした悩みを自分自身、一人で行うことで、恐らく多少なりとも、作って売るまでの本当の意味での「モノづくり」を体感できるのではないかと思ったのである。

 

 

こんなこと言ってるが、ハウツー本に書かれるような働く上での「創業者精神」とか「当事者意識」という言葉のための言葉が僕は非常に嫌いだ。お前らが指し示すようなモチベーションに、本来の創業者精神などはまったくないと思ってしまう。ただただ、自分の意志によって生まれたものを、人に届けたい。その「承認欲求」や「エゴ」をまずは自ら感じる点こそ、重要なのではないだろうか。

 

・「水車屋は水車を回すために、小麦が生えると思っている」

これはゲーテの『格言と反省』からの一節である。自分の立場でのみ物事を見てしまえば、恐らくトータルとしての企業活動とはならない。案件は雨のように降ってくるわけでもないし、製品は雑草のように勝手に育つわけでもない。また当然ながら、人には得手不得手があり、きっちりとした役割分担によって回る組織もある。しかしながら、それで回るのは大抵小さなサイジングの時分であり、その規模が大きくなればなるほどに、組織は対立の構図となることも明確である。

 

 

城山三郎の小説において『臨3111に乗れ』という近畿日本ツーリストの社史を綴った作品がある。やはりここにおいても、社長の馬場という人間がいかに破天荒で、周りを取り巻く人間も個性的だったかが描かれる。旅行を企画し、泥水啜って顧客をつかみ、結果に繋げる。時代という要請も大いにあるのだが、学ぶべきところは数多い。

 

今回はトンでもな話から、このように同人活動のススメという記事を書いてはみたが、実際に同人活動から学ぶ点は大いにあると思う。いくら製品に自信があっても、売れるかどうかは別だし、そして身内だったりコネクションを使うことも時には重要になる。世の中の経済の一端を体験するという意味では非常に悪くないだろう。

 

まぁ、こんなこと言っていても、自分の所属する会社一つ動かせていないので、片腹痛いのは確かなのだけれども。日本企業の行く先が暗いといわれている中、自分の作ったものを売るというそのルーティンにこそ、希望が残されているのではというお話でした。夏コミの当落もいよいよ今週末。自分の制作状況も思わしくない中でこんな与太話を延々している暇はあるのだろうか。とりあえず、まぁ、頑張ります。