首都圏の鉄道 雪で運休や遅れ(午後5時) | NHKニュース から
・大雪でも許されない我々社畜という存在
東京においても久々の大雪となった。一昨日午前から降り始めた雪は夕方~夜にかけて更に酷くなり都心においても積雪20cmを記録する程。いやはや、驚いた。わかっちゃいるが東京住まいというのは自然に対する想像力を退化させる。
タイムラインを覗くと、学生の皆様方におかれましては「よっしゃ休講!!」などと心ときめかせた不届きものも多いのではないだろうか。バチ当たれ。その頃僕は、首都高から関東近県の高速道路が真っ黒(通行止め表示)に塗りつぶされたJARTIC(日本道路交通情報センター)のサイトを眺め「うわぁ・・・これは炎上だな」と諦めと悲しみに暮れていた。
現物配送を扱う弊社において、この事態は悲惨の二字。そして実際にトラックを運転しているドライバーさんなんてその比ではない。こんな状況で商品を運ぶとか無理っしょ・・・いくつかのお客さんからは怒号が飛ぶ。「困るんだよ」「遅れるのはわかるけどいつになるの?」「仕事が滞るんだけど」とりあえずマジックスペル「平謝り」にて怒りの矛先を逃す逃す。
また当然ながら、夕方以降。各種交通機関の麻痺が想定され、
そんな中、アメリカの文化と日本のこの惨状を比較し、バズっていたこのツイートが目についた。
日本人の社畜魂、すごいな。帰宅時に交通機関が麻痺するの分かってて出社するなんて。アメリカだと明日、雪が降りそうってだけで自宅勤務になるよ(子供の学校が簡単に休校になるため)。こんなに社畜魂にあふれているのにアメリカより生産性が低いんだぜ。むしろ社畜であることが下げてるんだろうな。
— McLOVIN (@iMcLOVIN7) 2018年1月22日
うーむ。僕もそんな交通機関の麻痺を想定しながら出社しちゃった社畜の一人であることは確かで。ただ結局出社したものの「こんな日にやる気でねー」と、早退ばかりを考えていたわけで。そう、このツイートが言うような立派な「社畜魂」や「忠社精神」なんてものを持ち合わせているかと言われると、すまん。完全に「否」だ。
そして、同世代を眺めていてもそこまで熱い志を持って「雪?関係ない!仕事を優先させないと!」と働く意識を持って雪の日に立ち向かう人間なぞ、どこぞの「仮想空間代理人」とか不動産関連ベンチャーとか、そんな会社でしか見られないレアモノ人間ではないだろうか。(世間など所詮は類友なので、あまり強くは言えないけど)
じゃあ、今この国で多く存在している「社畜」を生じさせている根本にはなにがあるのか。大雪が降るという日に「いつもより1時間家を出ました。はい、交通機関のマヒが想定されますので」と朝のニュースで彼らに答えさせているものは一体何なのだろう。そんなことを一人でうじうじ考え出してしまった。
・「日常」という価値の裏に
僕らは日々の生活において、変わり映えのない「日常」を過ごしている。朝起きて、電車に乗り、会社や学校へ行き、同僚や仲間とコミュニケーションをとり、そして電車に乗り、家路につく。まぁ在宅だったり、これに該当しない人も多くいるわけだが、要するに人の生活にはルーティンがある、という事だ。日々、全く異なる毎日を過ごせる環境にいる人もなかなかいないだろう。
その日常というシステムは、それだけで価値がある。自分の精神や生活の安定、毎日を生活する上での思考力や労力コストの節約にもなる。毎日違う状態で仕事をするという事は、それだけで体力や精神力を削がれるモノである。だからこそ、冠婚葬祭や入学就職といった「日常が大きく変化するとき」というのは重要視される。
変化の多い4月を乗り越えた後の「五月病」などはその「不慣れな日々」に対するストレスが顕著に表れてしまった状態であろう。つまり、新たな「日常」を定着させることは人として生活する上での必須条件ともいえる。
しかしながら、この「日常」というシステム。上記のメリットと表裏一体のデメリットも生じる。注目すべきは「日々の労力や思考力を節約する」という点だ。日々のルーティンに「慣れる」ことで徐々に考える力を低減させても、日々を回す事が出来るようになる。つまりは「いちいち考える手間を省く」という事である。
自分もまさにそうだが、朝眠い・・・とか言いながらなんとか起きて。歯を磨き、スーツを着て家を出る。満員電車に揺られて会社につき、さーて仕事だ。と少しずつギアの回転数を上げていく。そして思うのだ。その間、大して物事を考えていないなと。そう、それが大雪の日であったとしてもだ。
当然、日本人が社畜と呼ばれやすい所以には、その勤勉さや得意先への迷惑をかけていけないという切々たる思いがあるという事も事実だろう。しかし、その反面。社畜の存在を生じさせているのは「日常」という無思考状態を脱したくないという、ある種の執着・恐怖心なのではないかと思えてきた。
・非日常を受け入れる柔軟さを
基本的にあまりトラブルを望む人間はいないだろう。そして、何より大戦やあの震災を経験した我々が「日々の平穏な暮らしこそ、最上の平和的状況である」という事を否定はでき
例としては極論だが、2003年に韓国で起きた地下鉄放火事件を挙げたい。200人以上の死傷者が出てしまったことも当然ながら、この事件は別のことで有名になった。一体何なのかと言えば、車内に煙が充満しているにも関わらず、座っている客席が一向に騒がず逃げないという状況がカメラに収められた事で話題となったのである。
これは専門家によれば心理学上の「多数同調性バイアス」が働き「周囲も動かないし大丈夫でしょう」「騒ぐ必要のないこと」という思い込みが、結局多くの人の行動を阻止してしまったという事態を招いたとのこと。詳細は下記の防災・危機管理アドバイザーの山村氏のページを参照頂きたい。
こうした事案における心理的バイアスを例とするのは大げさかもしれないが、僕らのこの社畜的状況というのは、長時間労働にせよ、出勤困難時での出社にせよ、そうした「まぁ、日常的なことだから」という思考停止や周囲への同調が「ちょっと待てよ」と考えるという選択肢を放棄させているのではないかと感じたのである。
先ほどから繰り返している通り「日常」のシステムの強みは、思考の低コスト状態でのルーティンの持続だ。しかしながら、いざ環境が「非日常」となったときに「日常」への甘えが抜けきれずに、その慣性のまま行動を起こしてしまう。
この時期でよくある話で言えば「どうもインフルエンザぽいけど、とりあえず会社出て簡単にメール片づけて病院に調べに行こう。」というアレである。いやいや、移してるからそれ。そうした仕事という「日常」への依存は、災害時や自分の体調コントロール、更には周囲への影響においても、危機管理意識を鈍らせるのではないかと感じる。
・絶対的なものがないからこそ「日常」に依存する
もう少し深い部分を掘り下げて終わりたい。よく話題になるのは3.11の災害時の話だ。東京都心でも交通網が麻痺し、通電すらままならないという状況下で。「とりあえず会社やってるか分からなかったから、電車走ってないじゃない。ママチャリで50km出勤しちゃったよ」と武勇伝として語る先輩がいた。確かにすごい。あの状況下、ガッツは見上げたものである。
これは極端なパターンだが、ただそこまでして僕らが守りたい「日常」とはなんなのだろうか。冒頭近くで引用したツイートもそうだが「Karoushi」という言葉が英語としても通じるほど、日本人の「社畜」さは世界でも特異とのことだ。そして近年に入れば、それが決して生産性をもたらすものではないという事も通説となってきている。
この社畜という現象は、僕個人の考えでいえば以上見てきた通り、自分で築き上げてきた「日常」への依存的状態のように思える。以前このようなエントリを書いたことがある。
ここでは無宗教という人が大半を占める日本において「労働」こそが代替宗教となっているのではないかという問題提起をした。今回、更にそこから踏み込んで「労働」をも組み込む「変化のない日常というシステム」という大枠こそが、日本人にとっての代替宗教と化しているようなイメージを持った。
何か宗教を持て!といいたいわけでもないが、何のために生きるのか、という問いは無意識レベルで誰もが抱えている問題である。それに対して「日常」はある種「変化のない安定した幸福な日々」という答えを提示出来るシステムのように思えた。だからこそ、人はそこに依存してしまうし、明らかな長時間労働に対しても「日々の生活だから我慢する」というバイアスが働いてしまうように思える。
更に言えば、それほどに崩されたくない自分の日常。それを維持する為にこの国では「されたくないことは人にしない」というような「道徳」という自主法治的な構図も用意されている。ただ、当然慣習法レベルであるため、人それぞれによって答えは異なり、冒頭のごとく「雪で配送できないの仕方ないじゃん」と思っても「バカヤロウ」と怒る人がいるのだろう。彼らは彼らの「日常」を壊されたくない。それが非日常な環境においても日常を優先する感情となるのかもしれない。
「日常」を大切にするのは人として当たりまえのことだし、そこには多くの価値がある。しかしながら、それによって僕らは大きな思考停止を強いられているのではないだろうか。大雪の中、色々な「社畜」自慢がインターネットを流れる中、そんな考え事が過ってしまった。