わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

『あたし、おかあさんだから』議論から見る「公」と「個」のバランス

なんだか東京も延々氷点下という気温が続き、立春だというのに寒い冬まっさかり。何かあたたかな話題を、とネット上を徘徊していれば案の定炎上案件に当たる。

 

気にかかったのは、タイトルにも上げた絵本作家・のぶみさんが作詞した『あたし、おかあさんだから』という曲だ。母親に、子育てで自己犠牲を強いる歌だとして炎上しているようだ。元ネタとしてはhuluにおけるオリジナル番組『だい!だい!だいすけおにいさん!!』で2/1に発表された。元「うたのおにいさん」のだいすけおにいさんが主演の子供向け番組とのこと。

 

今更ここで説明する必要もないかもしれないが、まぁ、歌詞を見ればその救いのなさに何かもっさりとした感情を得るのはしょうがない気がする。

matomame.jp

 

「自己犠牲を強いる歌」「母性に対する呪いのよう」と散々な言われようだが、確かに母親としての「子供に出会えた喜び」以上に「子供の為にいろいろな事をあきらめる」という側面の方がフューチャーされているようで、一見して暗い歌詞だという印象には頷かざるを得ない。

 

この歌詞に対して、ツイッター上ではタイトルの「おかあさんだから」に反駁する形で「おかあさんだけど」というハッシュタグが作られている。母親であろうと自分のライフスタイルや無理をしないという姿勢を貫くことを反発する形で主張する発言も、かなりの数が見られる状況となっている。

 

・「歌」と「ドキュメント」の差はどこに

僕がぼんやりこの騒動に対して「興味深いな」と思ったことを挙げる。この歌詞を一見したときにまず僕が思ったのは、ネガティブというよりは「こういうシングルマザーのツラさってあるよなぁ」という客観的な感情だった。何故そう思ったのかといえば、例えば、フジテレビ系列でお昼からやってる『ザ・ノンフィクション』あるいはNHKおはよう日本』『あさイチ』でもそうかもしれない。うん、そこで見たことある。ということだ。

 

暴論だけども、VTRの冒頭に女性ナレーションの優しい声で「東京都足立区」というアナウンスから放映が始まれば「そういう特集なのだな」と何となく想像がついたりしてしまう。詰まるところ普段からテレビ番組など見ていれば、いくらでもこうしたシングルマザーや母親としての苦悩を問題にした特集やドキュメント番組が目に入ったりする。

 

要は歌詞のような「お母さん」像は実在しているということだ。こうした苦悩や葛藤を持つ母親が現実にもいるということは、恐らく『あたし、おかあさんだから』を非難している人でも分かっていることだろう。しかしながら、なぜそうした「ドキュメンタリー」は炎上を避けられ、今回の「歌」が炎上状態となったのか。その差異はどこにあるのだろうか。そんなことをふと考えてしまったのである。

 

「#おかあさんだけど」というハッシュタグを使って反駁を試みる人を見れば、母親という立場であっても自らの趣向を曲げないという意思の強さをアピールしようとしている。時にズボラな性格であったり、あるいは趣味を貫いたり。そう反論する「裏」には「おかあさん」という言葉で私たちを一括りにするな、という強い反発的意志が見て取れるような気がして仕方ない。あくまでも先に掲げたドキュメンタリーでの母親の葛藤というのは「個」の問題であり「公」としての母親像にされるのには抵抗がある。という事だ。

 

ただ、そういう目線から見ると「おかあさんだけど」というハッシュタグはある意味で残酷に映る。歌詞のような母親としての苦悩という「個」の問題に対して、夫の収入があり、生活基盤が安定しており、自分の趣味を捨てる必要もなく生活ができる「余裕」が私にはある。「おかあさんだけど」というハッシュタグからは、そうした自分は違う「個」である、というアピールでしかないのでは。そんな疑念すら抱こうと思えば可能だ。

 

ただ、逆に言えばそこが「歌」という存在の面白く、怖いところだろう。歌というのは良くも悪くも普遍性が宿ってしまう。雑な例えで恐縮だが、ZARDの『負けないで』に多くの人が感動するのは、そこに「普遍性」があるからだ。つまり「歌詞」はすべてを語っていない。「個」に落とし込むには情報が少なすぎる。むしろ少ない文字情報下だからこそ、多くの人がそこに共感を感じる事が出来る。だからこそ様々なライフスタイル、生活状況において「負けないで」というメッセージ性がとかく強調され、その人の心を打つのである。

 

逆説的に言えば、今回の『あたし、おかあさんだから』という「歌」が、情報の少ない歌詞を使った結果「共感を強いた」ように聞こえたからこそ、炎上をしたと言えるのかもしれない。タイトルの「あたし、おかあさんだから」を見てしまうと、すなわち「母親ってこういうもの」つまり、貴方もこういう事なんでしょ。という押し付けにも捉えられてしまう。ドキュメンタリー番組では「個」の事情を扱っているから問題ないが「歌」という形で、図らずも「公」という側面を持ってしまったが故に人は反発を感じたと言えるように思えた。

 

こうした「公」と「個」の認識の差異というのは、ある意味で今、過渡期を迎えているような気がする。他者の苦悩である「個」を思慮しながらも、自分の「個」を守る。この距離感というのはシビアな場面に差し掛かっているのかもしれない。

 

・若者が「労働者としての権利」を求めながら「保守化」している図式

これに関連して、もうひとつ似たような話をしてみたい。政党の支持についての話だ。昨今、ネット上に限らず「若者は保守層」「自民支持」などという印象がある程度一般的になってきたように思う。それに対するカウンターも当然に存在するが、新聞などの報道でもこうした見方は強まっており、昨今における選挙選でも結果として表れている。

 

しかしながら、その反面。ツイッターにおいて所謂「バズりやすいツイート」の種類のひとつとして、労働問題が挙げられる。ブラック企業批判、あるいは低所得についての文句、パワハラや昭和的価値観を持ち続ける企業に対する反発。こうした「企業」「資産家」へのカウンターの在り方というのは、これまで共産党を始め野党の主戦場だったはずである。そして、毎度の選挙の公約や演説を聴けば確かにいまだに「労働環境の改善」や「内部留保の過剰」批判を展開しているのはそうした野党が主だ。

 

 

そもそも、前民主党政権以降。そうした野党の政策実行性に疑問視が残っているというのも、勿論正しい指摘ではあるのだけれども。それ以上に労働環境の是正がむしろこれまでの社会的な「公」としての意味合いでなく「個」としての価値判断に委ねられてきているというのが昨今のトレンドではないだろうか。例えば、今の職場が気に食わなければ転職をする。あるいは副業を行うことを考えればいい。終身雇用という概念も最早意味をなさなくなって久しい今。流動性を重視し各個人の選択肢の増加によって労働市場の健全化が担保されるというイメージが徐々に定着しつつあるように思える。

 

労働人口減少が甚だしいこの国において、今の労働状況というのはいずれ崩壊に瀕するというのも若者にとっては具体的な不安として覆いかぶさっている。これまで野党が掲げてきた「資本主義」へのアンチテーゼ的な所謂「労働者の権利を。」という政策提言自体が、あまり若年層労働者にとって実感を伴わなくなってきているというのもとして起こっていることではないだろうか。むしろ「個」としての権利を保障する。つまり、流動性を担保し、そして経済全般の向上をより促進させる与党にこそ、支持が集まるというのも理解できる話である。

 

 

上段の『あたし、おかあさんだから』炎上の例示と下段での労働に纏わる支持政党についての認識。まるで違う話に思えるかもしれない。ただ、他人と自分の差異が明確な状態である「個」の事情と、社会全般の価値という「公」における事情、それは全く別のロジックながら、複雑に絡み合ってそれぞれの人間の中で感情として動いている。そして、何が恐ろしいのかと言えば、それは往々にして無自覚的なのである。

 

「公」のような物言いを無自覚にすれば「個」から思わぬ反撃を食らう。しかし、その「個」としての反撃は、また異なる「個」を攻撃しだす。そうした「個」と「公」のバランスというものは、時代の推移や感覚によって大きく左右されるものである。

 

今回僕自身、ふと思った「なんでこの曲がこんなに炎上しているのか」という疑問を抱いた。いや。だって、普通にこういうお母さんいるじゃん。と。ただ、それを歌という形で「お母さん像」として広くイメージを与えてしまったが故に、多くの人が反発を抱いた。

 

僕らがそろそろ考えるべきは「なぜ炎上したのか」「なぜモヤっとしたのか」「なぜその政策に魅力がないのか」「なぜこうした主張に反発を抱くのか」炎上をさせる前に抱く「違和感」や「憤り」に理由をつけることではないのだろうか。そして、そのヒントとして「公」「個」その差異に対して敏感である必要性は間違いなくあるのではないか。ちょっと水曜日から飲みすぎた。酔っ払いながら、そんなことを一人。夜長に考えてしまった次第である。