わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

稲村亜美事件から考える「群衆」と「自分」の距離感

f:id:daizumi6315:20180319073052j:image

もう落ち着いてきたが、最近ネットで話題になったニュースといえばこれだろう。「神スイング」で知られるタレントの稲村亜美氏が3月10日に神宮球場で行われたリトルリーグの大会開会式で始球式を務めた後、それを周囲で見ていた中学生がマウンドへなだれ込み「襲われた」ともいえる状態になってしまったという事案だ。

biz-journal.jp

 

この件に対して、ネット上での意見はかなり分かれた。「怖すぎる」「教育がなっていない」「中学生男子だから仕方がない」「仕方ないという風潮がレイプや性犯罪を助長する」「むしろ運営側の不手際」「野球という昭和然としたスポーツの精神の問題」「性欲を抑えられない現代の若者」などなど。教育論、ジェンダー論、野球批判、そして該当中学生の晒上げまで。議論のとっかかりがもう個人個人違うもんだから、それぞれのニュースや付随してくるコメントを見ていて非常にモヤっとした感情が占めていた。

 

そんな中で@kt60_60氏のツイートが非常に的を得ていると感じたのでここで下記に引用してみたい。

 「群衆」という視点。この視点によって、本件が自分の中で単なる芸能三面記事にとどまらず、人のモラルを考えるきっかけにも繋がったのである。

 

何をそんな大きなことを、と言われるかもしれない。僕自身も、なぜこの件にここまでの引っ掛かりを覚えたのだろうか。それは過去、自分も中学時代にクラブチームで野球をやっており、こうした開会式というのは非常に想像しやすいシチュエーションだったのである。つまり「僕がその場に中学生野球部員の一員として参加していたら、どのように振舞っただろうか」という想像がこの件を安易に流せないしこりとなったのだ。

 

冒頭挙げたようなコメントらは何はともあれ「バカな中学生男子が集団でやらかした」「結局悪いのは誰だ」という「他者」の行為を起点にしている。ネットでよく見るパターンだ。ミステリドラマでも眺めるように「悪者探し」的心理で論じられている。ただ、翻ってそれを自分の経験と想像して考えたとき、その問いの意義は大きく変化する。先のツイートの問題点「群衆」が浮かび上がる。つまりは、自分が群衆の中に入ったら本当に理想的な振舞いは可能なのか。という自問である。

 

このケース、想像してみよう。マウンドへ近づく中学生の波の中、自らも当事者である自分が取れる行為は3つ。ひとつめは自分もその勢いに乗っかってしまう。二つ目はそうした人の波を傍観する。三つ目は周りに注意喚起を行い、行為をやめるよう呼びかける。恐らく、当時の自分の性格などを勘案してみると恐らくケースの二つ目「傍観」を選択したように思える。リトルリーグの開会式という状況を考えると、チームメイトは当然普段から親しい友人が基本だろうが、他チームの人間とは基本他人である。

 

モラルに基づき理想的な行動は3番目の「周囲の中学生を諫めて制止させる」だが、その他人同士の異常な雰囲気の中で、突如場を制し諫めるというのは大人物でもない限りは不可能だろう。僕が仮に取った「傍観」という選択肢すら、自分を買いかぶりすぎているような気さえする。

 

群衆とは、ある種同じ体験や空気間の下で他人同士がシンパシーを掴んで行為を同調させる、あるいは群れを成した状態といえるだろう。思考・思想的な由来というよりは、むしろ条件反射に近いように思える。例えば信号待ち。スマホの画面をのぞいていると、隣の人が歩き出す素振りをした。それを無意識に目の端で捉えていて、まだ青になっていないのに一歩踏み出してしまったことはないだろうか。

 

あるいは話を大きくすれば「ベルリンの壁崩壊」の件を思い出したりする。当時「ベルリンの壁」によって、東西ドイツは分断状態。ただ、時代も社会主義圏の衰退により東ドイツから西へ移動したいという住民の要請が強まり、デモも頻発する状況にあった。そして最終的に1989年、あの「ベルリンの壁崩壊」と謳われる民衆たちの壁を壊す感動的な光景につながるわけだが、そのきっかけはビザ発行に関する言葉の勘違いから生じたことは有名である。その「誤報」から壁を壊しに向かったエネルギーというものは、ある種「群衆」の力であったと想像する。

ベルリンの壁を崩壊させたのはある男の勘違いだった | ドイツドットウェブ

 

てことは、お前あれか。信号待ちの釣られて歩き出すヤツと、ベルリンの壁崩壊と今回の稲村亜美事件は同じと言いたいのか。と怒られそうなのだが、正直それら根底にあるものは同様のように思える。フランス革命ロシア革命など。民衆の力によって権利を奪ったとされる歴史の裏には「群衆」がいたことだろう。当然、思想上において国民の主権を争った闘争として美化されてはいるが、もっと本質的な人間としての衝動がその根底にはあったのだと想像してしまう。

 

そして、主権の確保のための運動、つまり群衆による運動をあまり経験していないこの国で、その群衆という存在を想像することは思った以上に難しいのかもしれない。先に例示を「信号待ち」から「ベルリンの壁」へ一気に飛躍させたのも「反射的な同調」が最終的には「群衆」に繋がる可能性を秘めていると言いたかったからである。

 

また群衆の在り方をより想像するため、ほかの角度からも考える事案をひとつ見てみたい。以前も別の記事で参照にしたが、2003年韓国で起こった地下鉄放火事件。その際に話題になったのが同調性バイアスである。火事起こり、煙も車内に充満する中、誰一人として逆にパニックにならない、避難しないという事態が起こったのである。防犯カメラが抑えたこの映像は話題になり、放火事件そのものと同時に災害時における人の振舞いを考えるきっかけにも繋がった。詳細はこのサイトが詳しい。

防災心理学、正常性バイアス、多数派同調バイアス、

 

群衆という状態は人に何か行動を起こさせるだけでなく、その行為を圧殺させることもあり得るのである。

 

今回の稲村亜美氏の件、確かに状況を動画で見ていると稲村氏が恐怖を感じないはずがない。本件自体、モラルの存在を危惧すべき事案であり、当該中学生は強く反省をすべきというのも当然のことだと思う。ただ、それ以上に違和感を感じ、怖いなと思ったのは、その「群衆」状態と個としての「自分」は絶対に別だと思い込むネット論者によるコメントを見たときだった。

 

自分ならどう振舞うか。本当にそれが出来るのか。恐らく今回の開会式に参加した野球部員たちは普段、年長者には挨拶を強いられ、あるいは礼儀作法を仕込まれていたはずである。それが機能しない状態とはいったいどのような状況なのか。@kt60_60氏のツイートの通り「これが群衆である」と認識すること、そして想像であっても自分をそこに放り込むこと。こうした議論がなされない状況では、いつまでもただマウントを取りたいだけの悪者探しが横行し続けるだろう。

 

僕らはいつでも冷静でいられるわけではない。群衆と向いあったとき、その時点で自分も群衆の一部なのである。そうした事態になったとき、本当にとるべき行動を、とるべきモラルを考えるためにも、常々こうした想像力を持たなければならないなと。ひとつの事案、そしてひとつのツイートから自ら反省をした次第でした。