わがはじ!

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『カメラを止めるな!』感想を超うだうだ書くので見てない人は読まないでね その①

今話題の『カメラを止めるな!』を観てきた。

 

本当なら本作を視聴した友人らとリアルにワイワイキャッキャ感想投げ合いすればいいんだろうけど、いかんせん僕のメインコミュニティは脳内会議である。映画をひとりで見た昨日も布団の中でセルフ会議が盛り上がってしまい2時くらいまで寝付けなかった。夜中「ふふふ」とか「えへへ」とか妄想が高まってしまい突如笑い出すなど入院手前な様相だった気がするが、たぶんそれは夢である。そんな高まった気持ちを鎮める為、共感できる友人を探すより、ここにとりあえず吐き出すのが早いだろう。

 

ちなみに、友人はいるんだよ。

 

ということで、以下ネタバレなので、見てない人は絶対見ないでね。

 

 

 

 

 

見ないでね。

 

 

 

 

 

 

 ・『ONE CUT OF THE DEAD』という奇作

僕がネットで本作の放映を知った時に抱いたのは完全に無茶な企画だろうという印象だ。夏も終わりに近づいた8月下旬。ゾンビチャンネルというまたニッチなケーブルチャンネルができると思ったら、開局記念にこんな企画を行うという。

 

「生放送」「ワンカット」そして「ゾンビモノドラマ」。

 

聞いているこっちが身震いするような発想で、本作は本当に放映された。なぜか昼の13時という時間帯から30分だけ。その狙いすら今一つ掴みかねるが、実際見てみたところ、本作は非常にチープかつ不安定でありながら、目を放すことが出来ない作品になっていた。

 

作品全般の雰囲気としては、手持ちビデオホラー映画の流れを汲んでおり『ブレアウィッチプロジェクト』あるいは『パラノーマルアクティビティ』の系譜と言ってもいいだろう。物語の筋は二重劇であり、ゾンビモノ映画を撮ろうとしていたら、本物のゾンビが出てきたというベタなものである。

 

ただ、本作自体を撮影するカメラ、そして作中劇を撮影している監督のカメラという二重のメタ表現が視聴者の現実感を揺さぶりにかける。ゾンビ映画としては再三いう通りチープであり、見るに堪えない空気感も確かにあった。しかし、先ほど書いた通り、本作はすべてワンカット、そして生放送という前提。更に様々な伏線や不可解なモチーフ、謎の表現が散りばめられており、それを考察しながら見ると、なかなかB級ゾンビ映画ファンにとっては深い作品のように思える。

 

ネタバレとなるので、見ていない人はここからは読まないほうがいい。以下『ONE CUT OF THE DEAD』を観たという前提で話を進めていく。本作における主な疑問点は下記の通りだ。

 

・序盤、趣味の話題で繋ぐあの会話の間はなんなんだ?

・ドアの横に佇む音声さんの意味は?

・メイクさんはゾンビ化していた?それとも精神破綻なのか?

・監督の神出鬼没さは何かのオマージュなのか?

・女優が小屋で傷のシールを剥がすのはなぜ?そして、そこで見たモノはなんだったのか?

・小屋と屋上の血の紋章のつながりは?

・斧で頭を割られたメイクさんが再び立ち上がって見たモノはなんなのか?

 

わずか30分でこれだけの不可解さを残すストーリー展開である。狙って行うのは容易ではない。監督、日暮氏の狂気が伺える。それでは、以上の疑問点から『ONE CUT OF THE DEAD』の解釈を始めてみよう。

 

 ・ゾンビと霊という二重構造が生み出す不可解さ

まず、本作のストーリーを考える上で肝となるシーンを仮定するなら、上記疑問リストの中でも終盤「女優が脚の傷のシールを剥がす」という場面が挙げられる。傷を偽装する、彼女には最初から誰かを騙す目的があったということだ。つまり、ゾンビが発生する状況を知っていた、ということに繋がる。そう考えると、彼女の「劇中劇」への参加目的はどこにあるのか。男女関係を探ってみよう。

 

冒頭のシーン、監督からひどくイビられ、凹む女優。周囲が「気が狂っている」と監督を批判する中、彼女だけが演技に真摯に取り組もうとする。その後、相手役の男優は、カメラが回っていないところで「今日この後、どう?」と撮影後、彼女を慰めながらホテルにでも誘う空気を見せる。ここだけみれば、女優と男優は付き合っているように見える。

 

となると、対立軸としては監督と男優である。女優は男優よりも、自身の今後も含めこの監督に見初められたい、監督としては完璧な映画を作りたいという意思がある。女優はそこに付込み、結果不必要になった男優との関係を処分する前提のもと、今回の作品に臨み、この本物が混ざるというトラブルに乗じて命を狙ったという考え方が出来なくはない。序盤の会話における不自然な間は、男女関係が上手くいっていない事の現れなのだろう。更に傷の偽装も「彼女がゾンビ化することで、男優と自分に一線を引く」という効果を生む。

 

しかし、その彼女のシナリオも的を外れていくことになる。浄水場の噂を思い出してほしい。「死者を蘇らせる」という話は当然ながら「ゾンビ」の存在を想起させることだろう。しかし、この浄水場が蘇らせるのは、ゾンビだけではない。この作品のメインテーゼの二つ目「霊」という発想が隠されている。

 

ここで、延々ドアの陰に佇む音声さんの謎が解ける。Jホラーお得意の「驚かせるだけでなく、そこに佇むだけ」という表現はこうした単純なゾンビモノにおいて、逆にその不可解さから恐怖を際立たせる。『呪怨』や『仄暗い水の底から』といった名作にも多分に用いられた方法である。

 

そう、彼はすでに憑りつかれていたのだ。当時日本軍が実験をしていた頃の研究員の意識が彼に乗り移り、あの恐ろしい実験が行われた場内から脱出させた。そして、屋外で実体のあるゾンビに襲われるという二重における恐怖表現がなされていたと考えられる。この建物の「逃げ場のなさ」を視聴者により鮮明に伝える為の表現方法だったのだろう。そして、霊体はメイクさんにも乗り移っていたと考えれば、彼女の発狂、そして女優を襲う前に「落ち着いている」と話すあの鬼気迫る表情にも納得がいく。

 

つまりは本作はゾンビと霊体、ふたつの意味での「よみがえり」があの悲劇の幕引きを招いたといえる。 終盤、例の傷を剥がす小屋のシーン。女優は小屋の中で「何か」と出会う。入り口に血の紋章が描かれたいわば「ホットスポット」的なエリアである。

 

襲われることこそなかったものの、恐らくそこで、彼女はなんらかの霊、恐らくこの事態を招いている本体と一体化してしまったと考えられる。女優はその後、比較的冷静に小屋前の斧を拾い「ついている」などと場にそぐわない言葉を吐いて、かつて愛し合っていた男優を追いかける。最後のシーン。ゾンビ化してしまった男優を前に彼女の意識と霊の意識が交錯、最後に女優は狂気に堕ちる。

 

気がかりなのは、この重要な場面。死んだはずのメイクさんが突如立ち上がり「何あれ」と口にするシーンがある。正直今の私の考察でも理解が追い付かない。ここは、完全にこの物語から浮いており、生中継という事を考えれば、実際に演技上何かのトラブル(霊が実体化するなど)が生じていたのではないか。予定通りとは思えない、まさに手持ちカメラホラー作品を体現するかのような、非常に気味の悪いシーンである。

 

そして、完全なクライマックス。見初められたいと思っていた監督にすら手を下し、血まみれになる女優。スプラッタ的表現と彼女の不完成な演技が相まって、なかなか見ごたえのあるラストになっている。屋上には呪いのきっかけとなった血の紋章が描かれており、女優が不敵に空を見上げて本作はエンドロールが流れる。

 

本作では至る所から狂気を孕んだ監督が現れ、時にゾンビを男優と女優にあてがいながら危機を煽って撮影を続ける。考えるとその登場はいつも場所の因果に合わず、神出鬼没だ。そして最後、本作に登場する人物は女優以外皆死んでいるが、唯一自らの死体を晒していない。そこまで考えると、中盤以降果たして彼は現世に存在していたのだろうか、という疑問も沸いてくる。

 

もしかしたら「カメラは絶対に止めない!」と何故かカメラ目線で吐き捨て、屋外に出て以降、監督は既に帰らぬ人になっていたのではないだろうか。その後の監督は女優の妄想における姿であり、女優として自分の妄執を諦めきれない感情が招いた残像というイメージだったのではないだろうか。

 

ゾンビ映画の魅力が詰まった30分

本作は、様々な要素を孕んだチャレンジングな企画である。その結果、初見で見た際には完成度の低さが目につき、はっきり言って駄作という感を受けた。しかし、見れば見るほど、作りこまれている事に気づかされる。あえて明かされないテーマ性、また後半におけるカメラワークの大胆さ(カメラをあえて地面に落とし続け図郭を確保するというメタな手法にも驚かされた)、そして斧を使ったチープな残虐性。こうしたゾンビ映画ならではという一つ一つの要素が詰まっており、我々のようなB級ホラー映画ファンにとっては悪くないスルメ作品と言えるだろう。

 

今後、こうした作品が生まれることはまずないだろう。30分という短い時間ながら、久々に解釈と考察をフルで巡らせてしまった。恐怖のみならず、生放送というタイムリーな手法において緊張感を産み出し、見ているこちらを不安定な気持ちにさせる。手放しに褒める事はしないが、こうした攻めた作品が今後も世に出てくることを祈って、引き続きゾンビチャンネルに期待したい。