わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「面白さ」が分からなくなって。

まさに年末。C95サークル参加を翌日に控え、久々にここに文章を書いている。振り返ると、このはてなブログに移行してから、1か月以上更新を空けたことがなかったらしい。自分でもマメなもんだと驚いてはいるが、それほどにここ最近文字が書けなくなっていた。確かに年末進行ということで本職の仕事が忙しかったのはあるのだが、やはりそこは根暗な筆者。案の定ベタな葛藤を抱えてしまい、モチベを見失っていたわけだ。

 

今日は、そんなあまり表に出すべきではなさそうな内省的な記事。実際、明日の宣伝なんかをして、サクッと寝た方が遥かに生産性があるんだろうけど。まぁ平成最後の年の瀬だからウジウジしたっていいよね。

 

・面白いってなんだろ

どうだろうか、このなんだか気分がウキウキするべき年の瀬に最悪の類の悩みを抱えだしたということが一瞬で伝わったのではないだろうか。こんな、どこにでもいるような普通のサラリーマンが、何を10年目を迎え、若手なのか中堅なのかわからなくなってきて色々悩みだした芸人みたいな考え事をしなきゃならんのだろうか。

 

まぁ、こんな事を考えるのも、恐らくこういう場で日々ブログを書いたり、同人誌を作ってコミケで頒布したりしているからで。そんな事をしていたら、どうしたって「面白い」ものを作りたいっていう願望はなくせるものではない。というより、そんな熱量があったからそうした事を続けてこられたんだと思う。

 

ただ同人活動もある程度長くなってきて、作った本は10冊を超えた。継続すれば、毎回いいことばかりではない。「これは絶対に面白い!」と思っても、実際のイベントを迎えると「売上はこんなもんだよな」とか、そういう実感を得る事がむしろ多かったりする。そして、イベントが終わると、次の企画検討も含めた脳内会議が始まる。PDCAで言えば「C」のところ。

 

毎度会議の進行は同じだ。「面白さは売り上げに比例しない!」とか言い出す編集部強硬派と「そうは言っても閲覧者やフォロワーがあっての面白さでしょ」みたいな営業兼広告代理店チックな発言者が小競り合いを繰り返す。弊社(脳内)では、大体前者が実権を握っているので、そこの部長クラスが「自社で面白さを発信することが重要!」と言い切って終わるのだけれども。多分、徐々にその編集部強硬派がネットの見過ぎで疲れてきたんだろうと思う。

 

・「数」と「時代」と面白さ

日々、ツイッターやらネットニュースを眺めていて。様々な話題にはその注目度を示す「数」が付随する。コメント数、いいね!数、拡散数、PV数。つまるところ、それがどれほど注目を浴び、そして見ている人がどういった評価を下しているのか、即時に掴むことができるわけだ。

 

すると、こんなことがある。ツイッターで回ってくる漫画。つけられる画像数が4枚までという制限もあって短いモノが多くを占める。確かにその4枚で物語が完成されていて「これは!」と思うものもある。逆に「いや、さすがにもう少し深めないと面白くないのでは」と感じたそのツイートを流してみると、物凄いリアクション数がついていたりする。そして、リプライ欄を眺めれば「尊い」「神か」といった拾い物画像が連なる。

 

また、某短い動画アプリ。正直まるで面白さが分からないものが多いのだが、そういう動画に限って凄いリアクション数だったり。ただ面白くないと感じたものを「面白くない」と批判はできるかもしれないけど、これ、まさか単純に時代についていけていないだけ?あ、もしかして、老害ってやつ?と齢30を迎えたところで一気に不安が勝ってきた、という具合である。

 

比較的文字数も多く、そして説教くさい論調の本ブログ。アニメ感想にしても時事論評にしても、言いたい事を言ってきた感がある。ただ、上段のような不安を抱えてみると、書けるものも書けなくなってくる。「社会はこうあるべき・・・え、自分が思ってるだけ?」とか「面白さをより追及すべき・・・って、時代の変遷だから自分が言っても意味ないのでは」とか。

 

様々な場面で即時的に見えてしまう周囲の評価。当初は「おかしいだろ!」とか思っていたものの、それが続くと「時代なのか」となり、そして「こっちの感受性の問題か」と口を紡ぐような気分になっていたという次第だ。まぁ、大層ベタな話である。

 

・臆病さが面白さを迷わせる

そしてこの年末。久々にモノづくりを職業にしている友人と忘年会を行った。週末には会社ゴルフ、そして接待では水割りを作るみたいな、昭和然としたふつうのサラリーマンにとって、あまり上記のような話を打ち明けられる場所はない。折角の機会ということもあって、その友人に打ち明けた。

 

出てきた答えは、面白さなんてものは自分が感じるものがすべてだということ。当たり前といえば当たり前なのだけれども、彼曰く、誰かの評価を基準にした瞬間、それは「何かを「面白い」とするコミュニティに属したい自分の欲」という別モノになり果てる。要するに僕が「老害かも」と恐れたのは「時代」というコミュニティから外れたくないという僕の臆病さだったわけだ。確かに時流には乗った方がよい。でもそれは、疎外を恐れる気持ちからではなく単純な好奇心からであるべきだ。うっすらと分かっていた解ではあったけれど、貴重な言葉だった。

 

先日、漫才コンテスト「M-1グランプリ」で審査員の在り方を巡って松本人志が番組で言っていた事がある。「審査内容を巡って、いろんな声や評判があるのは知っていて。じゃあ一般のお客さんに審査を預けるという手段もあるかもしれないが、長期的に見れば確実にそれは面白くないものになるので、プロが審査するという緊張感は持ち続けたい」と。

 

並大抵の意志じゃない言葉だなと思った。面白さを判別するプロであり続けるという覚悟。そこには、いくらネットにおいて即時的に評価を下せるシステムが出来上がっても、またユーザー同士のインタラクティブな意見の交換が可能になっても、それに左右されない自分の価値観を作り続けるという矜持を見た気がした。

 

何か面白いものがしたい。多くの人がそう言うけれども、その根底にはコミュニティや人の多さに負けないだけの信念と、自分が何者かを理解する冷静さ、そして次の何かに食いつく好奇心だとか。また、そんな考え事を経てちょっとずつ文字を書きたいな、と思えてきた年末の1日でした。

 

 

以上完全に自分の手記でやってろ、というような内容でしたが、思いのほか結構脱出に時間がかかってしまったため、こちらで処理させていただきました。そして明日は、いよいよコミケ3日目!当方も参加いたしますので、遊びに来てくれる人はツイッターをチェックしてね!!