わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

『カメ止め』がつまらない、のは何故か考えてみた話。

春眠マジで暁を覚えなくなってきたこの頃。花粉も飛んで、仕事に身が入るわけもなく、月曜から生産性のない考え事をしていた。今回はめずらしくサブカル論評みたいな話題になりそうなので、各位は優しい心で受け止めてほしい所存です。

 

・『カメ止め』好き?

先に言っとく。僕は好きです。昨年秋口から口コミで大ヒットとなり、社会現象にまでなった『カメラを止めるな!』。最近ネットやCMで見る企業や自治体との安易なコラボ広告にはちょっと閉口モノだけれども、個人的には面白かったと思う。ていうか、それが乗じてこんなめんどいレビュー記事まで書いたほどだ。

www.wagahaji.com

 

この作品。もちろん大ヒットになったということで、絶賛する人がいる反面で叩く人も案外多い。実際、僕も上映当時一度見た後、友人から感想を聞かれ「面白かったので見に行こう」と誘ったところ、見事に彼にはダダすべり。最終的には「いや、なんか誘ってごめん・・・」「いやいや、面白く感じない俺が悪いから・・・」と2時間ほど非常に気まずい感想合戦となった。

 

それ以降、タイトルにある通り「あの惨劇は避けられなかったのか」「『カメ止め』が面白くない人ってどういう目線で物語を見ているのか」と考えるきっかけになったのだった。そして先日、テレビ放映を終えたら案の定「カメ止め つまらない」という組み合わせがトレンド上位にもなっていた。おお、やはりいるもんですな。

 

今日はそんな「叩く人」の目線から『カメ止め』の物語の仕組みを確認、そして、話を広げてそもそも人によって感じる面白さの違い、つまり人にとっての「物語の向き不向き」についてそのエッセンスだけ、考えてみたいというお話でございます。

 

・好き嫌いが分かれる珍味「メタ作品」

アニメや映画のレビューを読む際「メタ」という言葉が濫用されているのを見たことはないだろうか。僕もゼロ年代サブカルクソオタとして、大して意味もないのにこの言葉を安易に使いたがる。しかし、この「メタ」。実際、何ぞやと聞かれると、ちゃんと説明するのが難しい。

 

よし、これを枕にブログ書き出せばある程度の取れ高が、と思ってたらこちらのサイトでよくまとまっていたので貼っておく。そうそう、こういうこと。うん、分かってたし。
storymaker.click

 

つまるところ、物語の世界観から「超越」する表現方法、それが「メタ」と呼ばれる手法である。『カメ止め』では、冒頭の『ONE CUT OF THE DEAD』という「ホラー映画」の世界観を後半で自ら壊し、舞台裏を物語の本筋に置く。その作中劇スタイルは、上記ページに説明がある典型的な「メタフィクション」の要素であり『カメ止め』がメタ的だ。と言われる所以がここにある。

 

ただ、ぶっちゃけて言えばメタ的作品は、物語としては王道ではない。ふと逆の王道作品を思い出せば話が早い。例としてジャンプ漫画など『DB』から『ONE PIECE』『スラダン』などなど。主人公がストーリーの中で成長し、苦難を乗り越える。読者はその苦闘に共感し、キャラのセリフに自らを重ねる。このマンガに感動した!勇気をもらった!と語る人は、大抵この「王道」作品を列挙する場合が多い。

 

それを考えるとメタ作品がいかに亜流な存在であることが分かるだろう。物語を自分で壊しにかかり、その壊した先で「衝撃」を与える。同じジャンプの鳥山明作品でも『Dr.スランプ』は、かなりメタ的だ。キャラが突如、読者に話しかけてきたりする。そういう「想定外」の混乱を物語に招き、読者に笑いや驚きを与えたりする。つまり「メタ的な作品が好き」などと自分で言っちゃう人は、正直ちょっとひねくれてるのが常だ。

 

・向き不向きは「メタ」との距離感

少しずつ冒頭の問いに答えていこう。つまるところこの「メタ表現」への許容性があるかどうか。これが『カメ止め』の評価に繋がっているのではないか、ということである。恐らく、上世代のオタクからは「何をわかりきったことを」という反応が予想される。

 

その要因として1984年公開の『うる星やつらビューティフルドリーマー』の存在が挙げられる。高橋留美子すら「別作品です」とコメントしたほど、原作世界をある意味壊しにかっかった劇場版2作目。「虚構」を「虚構」として自覚するという手法は、当時のリアルタイムオタクたちに衝撃を与え、傑作あるいは問題作として名を馳せた押井監督初期の名作である。

 

そして当然のことながら、当時もこれが許せないファンがいた。つまるところ「メタ」は純粋に「物語」本筋を楽しむ人に対する挑戦、あるいは挑発にも受け止められる。

 

『カメ止め』で考えれば『ONE CUT OF THE DEAD』という作品をまず楽しみにしてしまった結果、後半の「はい、あれはウソでしたー」というネタバらしを見た途端、映画としてシラケちゃったという帰結は容易に想像がつく。いやいや、あそこまで「ネタバレ禁止」って言ってて、これ?という落胆は、レビューでも結構見受けられた。

 

ただ『カメ止め』がミニシアターにとどまらず、社会的ブームになったのは、単にメタ作品による驚きや笑いがあっただけではないだろう。本筋は亜流であるメタの形をとりながらも、後半で家族の絆を扱った「王道ホームコメディ」としての体裁を取り返しに来たのが大きい。つまり、一作品の中にも様々な要素がある。メタな部分と王道な部分、普通それぞれが共存しながら物語は紡がれていく。

 

そして、もちろんそこから何を受け取るかは人それぞれである。序盤のゾンビ映画を「くせえぞ」と怪しみながら見たメタ作品ファンもいれば、ホラーに期待をした結果30分後の転換にシラケた人、あるいはそこからの父と娘の王道ホームコメディに胸を熱くした人、自分が『カメ止め』のどこに何を感じたのか。

 

クソだと思った人も、面白いと感じた人も、本作を見た上でこれを考えてみると、一体自分が「何に面白みを感じるのか」という自己理解への一助になるだろう。

 

・流血沙汰の「作品論」をなくすために

そして、最後の結論はここに繋がる。冒頭僕自身が友人とやらかした感想戦。どちらも得をせず、なんならちょっと険悪にもなった。そして『カメラを止めるな!』だけにとどまらず、ネット上における「あれはツマラナイ」「いや面白さを理解でいないお前がクソ」という悲しい言い合いは、インターネット史以来の風物詩となっている。

 

正直、根絶はできないまでも減らすことはできないもんかと常々思っていて。今回の『カメ止め』を巡る考察が多少なりとも和平工作へ寄与できるのではないか、というのが本記事の主たる目的だ。

 

古来、オタクたちはこのような「メタが与える衝撃派」か「純粋に物語を楽しむ派」か自覚的に把握しながら殴り合いをしてきた、クソめんどくさい人種である。(ぶっちゃけ綺麗には不可分なので、結果泥沼なのだけど)だからこそ、対立はあくまでもディベートのそれであった。お前の言い分もわかる、だが、俺の理屈でねじ伏せる!的な。

 

昨今、そうした「メタ」という作風が広く一般化した結果「メタ」か「アンチメタ」かという作品へのスタンス論でなく、単純に「人生観」「感受性」での殴り合いとなってしまっているケースが結構見受けられる。いやぁ、それで殴ったらアンタ心から血がでるよ・・・と思わずにはいられなかったりする。

 

人によって、それぞれの得手不得手なストーリーがあり、そして配信サービスが群雄割拠し、過去にないほど多くの作品群に我々は囲まれている。あの人の批評は、恐らくこういう視点からでは。僕はこの目線から面白くないと思う。こうした自分の感情の言語化をもっと丁寧にすれば、もう少し心穏やかにインターネットの海を泳げるんじゃないかなと。

 

そんなことを思いながら、適当に働いてた暖かな1日でした。