わがはじ!

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『天気の子』感想~「面白い」と「好き」って違うよなという面倒な述懐~

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映画『天気の子』公式サイトより

何かアニメや映画作品を見たときに。単純に「面白いか、否か」が「好きか、否か」に直結するわけではない。

 

過去から、ブログ内でもいろいろな作品のレビューなんかを書いてきた。その趣旨としては「作品を見て得た感情を、なるだけ伝わりやすく文章に起こす」ことに注力したつもりだ。実際、この「好き・嫌い」あるいは「面白い・面白くない」という評価軸的な話をすると、自分の感情の整理を含め面倒なことになるので言及はしたくなかった。ただ、今回『天気の子』を見て。この評価軸を自分の中で一度整理しなければ、この作品について語れない、そう思ったのだった。

 

つまるところは、評価ポイントの設置場所によっては「面白くない」と宣言できる、そして公開前に新海誠監督が言っていた「叱られるものを作った」というコメントそのまま「倫理的に反している」と批判もできる。もちろん、人の価値観なんてそれぞれなので、全て作品はそういうもんだろ、というご指摘もその通り。

 

そんな中、この『天気の子』はその「視点バイアス」的性質が特に強いと僕は思った。正直、物語として理不尽かつ納得のいかない点はかなりある。僕はそれでも「好き」と思ってしまった。そんな、やはり面倒な話をなるべく簡単に集約しつつ、そして余分な要素をなるだけ排して書いてみようと思う。

 

 

 

※ということで、ここからネタバレ余裕なので、視聴後あるいはみる気のない方向けです。 

 

 


僕が何となく脳内に持っている映画などの作品に対する評価軸は、あまり明確な区分ではないものの、大雑把に分けると3つある気がした。

 

1つ目は「物語の整合性・納得感」

2つ目は「映像作品としての美しさ」

3つ目は「作中のエゴ・作家性」

 

というものだ。そして、冒頭掲げたように必ずしも「面白い=好き」ではない。これが毎度、作品評を物凄く面倒にする要素となる。

 

ではまず何をもって、作品を面白い、と言うのか。僕個人の見解で言えば、それは1つ目の「物語に対する整合性・納得感」が大きく背負う部分だ。登場人物の魅力や、その過去、そして舞台設定や環境要因の配置。それぞれの「必然性」がどう語られるのか。物語を形作る要素に対する評価もここに分類される。

 

この『天気の子』において、このポイントはどうだったのか。はっきり言えば納得感に欠ける、そう思う。ヒロイン「天野陽菜」は天候異常の最中、新宿廃ビル屋上にある神社の鳥居をくぐって、天気を操る不思議な力を得た少女。そして、主人公「森嶋帆高」は窮屈な島から抜け出し、東京で生活することを志した男の子。

 

東京という大きな都市において、双方ともに頼るものがなく、その少女の不思議な力を使って自分たちの存在意義を見出しかけるも、結局は天気を操ったという代償を受けて神隠しに遭い、そして元来の天の気分(超自然的な存在)、また人間社会という大きな力に翻弄されてしまう。

 

前作『君の名は。』で語られたような「災いを乗り越える」という大義名分がすっぽり抜けおち、物語の納得感は「男女二人の恋愛物語」に収斂される。ひと夏の出会いと別れ、そしてエピローグとしての再会。まさにボーイミーツガールの典型だ。天候を操る「神」という超越的存在も示唆されるが、あくまでもバックボーンに在るもので、この大きな枠組みにおいて物語は何も語っていないに等しい。物語として面白いか否か、という問いであるならば「面白くない」と脳内AIは答えてしまう。

 

※陽菜の「巫女化」解釈を考えれば必然性が増すか、というお話。確かに、陽菜は必然的に巫女化を余儀なくされていたと考えられる。病院のシーンでは水の魚=使者に呼ばれ、あの鳥居まで導かれたと見たほうが自然。更には「首飾り」議論についても母が既に巫女であり、その継承が「意図的ではなくとも、なされた」と考える。それであったとしても、結局天候の神に飲み込まれ、その後、巫女である事を否定したという判断は、2人の恋愛的情緒に頼った「物語放棄」であると僕は感じる。その放棄に対する答えはまた下部にて。

 

勿論、そのカバーとして登場人物は逐一魅力的に描かれ、会話も軽妙で、笑いもあり、ついつい惹かれてしまう。今作の憎まれ役である刑事デザインも平泉成まんまのベテラン刑事とリーゼント刑事のコンビを用い、カーチェイスパートなどは捕り物劇の古典のようで、あくまでも「アニメ作品だ」という部分を強調しているようにも受けた。そして前作『君の名は。』の両主人公まで登場させるというファンサービスっぷり。こうした心配りが、本作の純粋な「面白さ」をカバーしていると感じた。

 

 

2つ目に移るが「映像作品としての美しさ」これに関しては、新海作品おいて毎度ながら非の打ち所がない。特に今回の舞台は新宿。東京都民なら馴染みがありながらも、どこか人を拒絶してくるような無機質な雑居ビル群、そこで自分の人生だけに執着している人々を、異常気象というモチーフに絡ませて描き切っている。街の看板一つとっても、実在企業からの協力を得て、偽名を使わずに書く執着ぷり。日々の生活圏を見ているような一枚絵の連続は「完璧」と言わざるを得ないし、そして映画館で見て良かった。と思わせるだけの迫力がある。

 

 

そして、以上を経て3つ目の評価軸「作家性」に話を移そう。いよいよ、ここからは僕がこの作品を「好きか、嫌いか」の話だ。簡単に言えば、今回の作品で新海誠はこういう話を書こうとしたんじゃないか、という一番オタクっぽくて、嫌われやすい話だ。だから通常、映画の感想戦、特にネットでこの手の話は極力したくない。まぁ、するんだけど。

 

先に書いた通り、この『天気の子』には大筋となる物語がないように見える。エピローグの長期降雨も注釈で書いた通り陽菜に責任がある、かもしれないが、話の組み立てとしてそこが主眼となっていない。物語放棄をした結果、救えなかった世界が受ける罰が「悲劇」として描かれない、つまりバッドエンドになっていないのだ。(超)自然現象、人間社会、大きな流れに翻弄される中、奇跡を経て出会った、少年と少女のボーイミーツガール奇譚。これだけで本作の物語的要素は殆ど言い尽くされる。

 

ただ、裏を返せば。物語物語とは言っているが、現実世界を日々を生きる我々はどうなんだ。僕らの人生に「国を救う」みたいな「セカイ系」チックな大物語は付随しうるのか。という話だ。

 

先に言ってしまえば、まずないだろう。誰しも内閣総理大臣となって国一つを動かす判断をするわけでもないし、そんな立場すら大きな自然災害、そしてAIよる判断に委ねられた経済危機の前には無力だったりする。逆に言えば『君の名は。』で語られた「隕石落下という災害による被害を食い止める」という要素、僕としては過剰に「物語的」であり、僕らが紡ぐ正常な歴史というような、「主人公」らしい展開に食傷気味だったのは確かだ。

 

ということで、今作のほうが僕は「好き」だ。前作に反し、須賀のセリフにもあったように「世の中はそもそも異常だ」ということを正面切って言いきった。正常な世。祝福され、皆が世界への決定権を持ち、理不尽なき生活を送れる権利を持つ。そんな「物語」への切符を与えられたが、あえて否定し、物語なき現代で強く生きることを示すため、帆高と陽菜が翻弄されるだけの話を置いたように思う。

 

そしてその事を強調するかのように、本編から3年後、エピローグ内で下町が水没した東京が描かれ、かつて出会った人々は、そんな状況でも着実に日々の生活を続ける。主人公の帆高も、戻った島の生活から再度離れ、水没した東京での生活を再開しようとしている。

 

新海誠監督が事前のインタビューで言った「終盤、テレビやネットで言ったら怒られるようなセリフを言わせています」と語った部分。帆高が陽菜を神隠しから救う際「ずっと天気が異常なままでいい」と空中で叫んだシーンだろう。そのセリフは言い換えれば、我々はそんな中でも生きなければならない存在だ、と宣言したようにも映る。世の中がいくら異常でも、それが我々人間が生きる環境であり、その中で生きられるだけの強さが僕らにはある。理想的な物語だけでは語れない「現実における人の強さ」を、このように示したのではないか、そんないちファンの妄想であった。

 


以上、ダラダラと感想を書いては見たものの、アニメ映画として非常に高い完成度だったし、考察なんかも随所で見られる気がする。僕としては「面白いかどうかは置いておいて、好き」という感じ。まぁ、ほんとオタクって面倒だね。まだまだ見逃している点もあることと思うので、再度見に行くタイミングをうかがってみたい。

 

 

余談

須賀の最後のセリフを上で挙げたが、そこでどうしても先日の事件が過ってしまい、ダメだった。世の中は異常だと、納得はしきれない。日々の事柄を物語的に考えることは、人間が人としての意味を見出す術である。但し、やはり異常で無慈悲な現実はそこにあり続ける。その折り合いの難しさを、改めて思い知らされた気がする。