わがはじ!

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絶望とチープさを兼ねそろえた『三体』が問う「知」へのシビアな目線

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kindle版なら『三体』も軽くて済むね



昨今、売れている本と聞いて、真っ先に上がるタイトル。それは劉慈欣(りゅう・じきん)の著作『三体』であろう。現代中国SFの最高峰との呼び声高く、先月ようやく早川書房から満を持して発売された。

wired.jp

3部作ということで、今回その1部がようやく和訳化したわけである。すでにマニアがざわついていた前評判通り、発売と同時にベストセラーとなっている。僕としても「そんな売れてるっていったってSFでしょ?」と斜に構えつつも、会社の後輩から「え、まだ読んでないんすか」と煽られ即購入。正直、海外SFとか詳しくないし、モロ文系のため科学にも弱い。読みきれるのか不安だった。

 

そして本日読み終え。いやー。面白い。素直になってよかった。あらすじというか、序盤の物語の高まりは先に示したWiredの特集ページから覗いてみてほしい。(4章から一部本文が読める)もうね、古典作風でありながら、回想と展開が恐ろしく早く、考証についても高濃度で、かつ、いい意味でのチープさを兼ねそろえた、SF好きにとってはサービス満載な作品。おそらく、本作は今の中国だからこそ生み出せた内容だと感じる。すでに2部、3部の発刊が待たれて仕方ない。

 

読んでて脳内によぎった作品をここに列挙していくと、小説なら『神は沈黙せず』(山本弘)『バナナ剝きに最適な日々』(円城塔)、アニメなら『天元突破グレンラガン』『ザンボット3』、映画なら『コンタクト』『ゴーストシップ』というなんだか、もう中華料理の満漢全席コースみたいなSFでした。まだ1部なのに。

 

ということで、今日はこの『三体』について。ネタバレは極力避けつつ、エッセンスだけを拾って書いていきたい。と言いたかったけど、最後の方はネタバレ気味なので、注意して読んでね。とかく現代中国発のSFが我々に問いかける問題意識や、絶望と希望について素人発想ながら精いっぱい考えていきたい。

 

・「文革」という人類への不信感

冒頭。60年代の中国において起こった文化大革命が最初の舞台となっている。壮絶な内ゲバ。弾圧を受け、時代に翻弄される知識階級。そして秩序的でありながら、無秩序なエネルギーに満ちた中国の描写にしょっぱなから引き込まれる。その渦中、科学者の父を殺され、人間に絶望を抱きだすエリート女性科学者・葉文潔のモノローグから本作はスタートする。

 

この「知」への歪んだ時代の態度が、後々本作における本筋につながっていくわけだが、実際の時代についてはWikiでとりあえず捕捉しておいてほしい。

文化大革命 - Wikipedia

 

いわゆる「文革」と呼ばれるこの運動。多くの学者、科学者を葬り、中国の文化レベルに大きな後れをもたらした社会主義革命として語り継がれている。この件について、僕が何か語れるわけでは決してないが、個人的な「文革」にまつわるトラウマがひとつある。今回、本作を読みながらそれを思い出してしまった。

 

それは、もう10年ほど前の大学時代。英語のほかに第二外国語の単位を取れ、というベタな指導に乗っ取って、授業を受けてみたのが中国語である。今では「私は学生です」と「私は日本人です」という文しか覚えていない。ましてや、現在僕は学生ではないので、全知識の50%が無意味になっている。

 

当時は比較的、授業へのモチベーションもあったもので、前のめりに講義を聞いていたせいか、女性の中国人教諭とも普段から会話を交わすなど良好な関係だった。そして、授業最終日。多少の時間が余ったため、質問コーナーが用意され、各々中国文化や土地についての質問がいくつかなされた。そして僕が、今思えばあまりに不用意に。多少気の知れた関係という思い上がりもあった。「文革ってどういう時代だったのでしょう」という質問を投げてしまったわけである。

 

少しだけ教室の上の方を仰いだ彼女は、一息吸い込み話しを始めた。僕はそれを見て、嫌な予感がした。案の定、その女性教諭の父は学校の先生をしていたらしく、具体的な事案として文革の渦に巻き込まれた一人だった。そのころの話をしているうちに、教壇からは少しずつ上ずった声が聞こえ、しばらくするとそれは嗚咽に代わった。言葉にならなくなったのは、わずか3分ほどだったと思う。話の詳細は正直覚ええていない。ただその時間が永遠に感じるような罪悪感と、自分の無知による浅はかさを思い知ったことが、今でも脳裏によぎる。

 

多少モノローグが長くなったが、今回『三体』を読む中で、最も感じたコアはこのような、文革という時代が引き起こした歪みと人への基本的な不信だ。僕が学生時代に不用意に触れてしまったその「時代」という溝そのものを、再度認識させられるに至った。

 

冒頭でも触れた通り、SFミステリーとしても痛快で、山本弘を想起させるような大胆な展開、そしてミリタリ、コンタクトというSFにおけるチープが本作にはある。それでも文革、そして威圧的な政治が物語の「いかり」として存在し、常に地に足ついたストーリーテリングが維持されている印象を受ける。中国という地の文脈が必然的な重みをもたせているように思う。

 

 

・SFを読むことは絶望を考えること

また、この本の特徴としては非常に時代と舞台が前後左右に広いことが挙げられる。これぞSFミステリーといわんばかりに過去への回想、そして未来への思惟が、中国、世界、そして『三体』と名付けられたVRゲーム世界、またリアルな宇宙という具合に飛び回る。

 

そうすると、否応なしに描かれるのが、時代にただ翻弄される「人間の小ささ」と、結局は自分本位でしか物事を考えようとしない「人間の傲慢さ」である。先の文革という「知」を否定した時代の大きな嵐が収まり、科学や知識が重宝される時代が再度訪れる。しかし、そこでも結局資本主義をベースとした自然破壊が起こってしまう。結局は人間が自らのためにしか行動しない種である、ということが鮮明になった結果、冒頭触れた女性科学者の葉文潔は人間の知性に絶望する。

 

そこで問われるのは、果たして人間の 「知」とは何か。という問いである。時代によってその在り方を変え、結局は自己都合の便宜を図るための道具にしかならない。そのように客観視すればするほど、人間が知性を持つこと自体が絶望的なことではないか。平等的な善を叫ぶ社会主義と、自由的な良心を誓う資本主義の狭間で、結局人の存在自体に疑問を抱く。『三体』では、大きな勢力を含めて考察しているため、SF的な問答に収めているが、フレーム自体を見れば、過去から今の今まで、我々が問われ続けている問いそのものだ。

 

本作を読んでいて思ったことは、むしろ登場人物の絶望に対する共感だ。自分が知識エリートだといいたいわけでもなく、ただただ、この今の日本において純然たる人間として、生きていくことへの希望を持つ要素は、案外少なかったりする。結局「自由」の名のもとに己心が優先され、自分ひとりのエゴへと帰っていく。作中では、そのエゴに対する形で、大いなる主、そして地球外生命体への渇望へと繋がっていくわけだが、その思いが案外、笑えないのだ。

 

SFがSFとして価値を生むのは、そうした現代の疑似装置を使った思考実験だと言える。ふとした日常世界が宇宙につながっていたり、そして日々の落胆が本当の落日を予見していたり。フラクタル、と言うとまた笑われそうだけれども、結局そうした相似的な関係性を見出して、今ある絶望を見つめなおす作業。これがSFの真価ではないかと、久々に本作から感じさせられたという具合である。

 

 

(この後は完全にネタバレます。)

 

まぁ、1部ということもあって、何を言ったところで中国本土の既読勢からすれば片腹痛いのだろうけれども、なんだかしっかりとしたSFを読んでしまった結果、何かしら青臭くとも文章にしたくなった次第である。最後に本作1部のラストシーンに触れて終わりたい。こんな絶望だらけな序章に、ひとつの希望が灯される。

 

進んだ知性と科学力を持つ三体生命から虫けら扱いされた人類。主人公の科学者汪淼が落胆しているところに、同じ組織で警官の史強から、イナゴの大量発生を見せつけられた上で「あいつらは俺ら人間より知性がない。ただ、それでも人間に負けたことはない」と言い放ち、史強は人間の強さを示そうとする。結果、汪淼が再度熱を取り戻す、というこの思わぬ少年漫画張りの「アツさ」に僕もヤラれた。

 

先の知性に対する絶望に対し、生きる強さを示すこと。これは人間として生きることの大きなヒントだろう。絶望はいつだって出来る。すぐそこにある。誰の前にも転がっている。そんなとき、絶望の対義語はもしかしたら希望ではないのかもしれない。むしろただ、強くあること。人間くさい史強こそが、絶望に対する一つの答えなのかも。

 

そんな事をふと考えさせられた『三体』序章。早く続きが読みたくて仕方ないけど、おとなしく待ちます。

 

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先の中国語の授業が終わってから、僕は教諭に謝りにいった。そうすると「もう大丈夫です」と微笑みながら「勉強できるこの時間を大切にしてください」と返されたのを覚えている。歴史とSFは、目の前の人の事を考えるために摂取するものなんだなと、ふと10年越しに思い返すに至っている。