わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「ユーモア」についてのひとりごと

昨年冬に同人活動を休止し、EVO JAPANのレポートを書いてからというもの、プライベートが忙しかったこともあって、このブログからかなり距離を置いてしまっていた。

 

そんな中、先日ガジェットなどを中心に記事を掲載しているメディアuzurea.net(ウズレア)さんにおいて記事を書かせて頂きました。おっさんがコスメについて語っている偏屈な記事になりますので、どうかこちらもよろしくお願いします。

また何か書き物お仕事がありましたら、各所受けさせて頂きます所存でございますのでなにとぞよしなに。 

uzurea.net

 

と、そうこうしているうちに世の中もこのような情勢になり、日々ニュースを見てもコロナ関連の話題ばかり。せめてこのような場末ブログにおいては、関係のないくだらないエッセイを書いてみようと思った次第である。暇だし。

 

・ジョークの解説という自傷行為

先日、会社で書類回覧の際。回ってきた書類の文面を見ていると「時期早々」という四字熟語が目に入った。時期早々・・・しばらく間があいたものの「時期尚早」の書き間違いであることに気づく。その後も上長へ回覧が続くことを考えると、教えてあげた方が人思いというものだろう。

 

ただ言うにしても、先輩社員への指摘である。柔らかく言えないものかと、考慮した結果、冗談を混ぜることにした。「ここ「時期そうそう」になってますよ、夏川りみじゃないんですからw」ネタは伝わったらしく、ややウケ。先輩への指摘も済んで、その場は収めたのだけれど、ふとこんなことを聞かれる。

 

「別にどうでもいいことだけど、なぜ「涙(なだ)そうそう」と直接言わなかったの?」・・・え、ネタを解説させる気か・・・と一瞬たじろぐも、考えるほど、これはいい質問ではないかと思った。

 

今回の記事は、こんな何気ないやり取りがきっかけ。つまり、これから僕は「何で涙そうそうではなく、夏川りみと言ったのか」という、しょうもないネタの解説および反省を行う。そして最終的にユーモアについて語りだす壮大な一人言をおっぱじめる次第である。

 

かつてアンリ・ベルクソンというフランスの哲学者が『笑い』という本を残している。非常に興味深い内容ではあるのだが、笑いを解説するというのは、読む人だけでなく書く当人にとっても苦痛が伴う作業である。なぜなら、笑いを説明する作業自体、たいして笑えない。本記事を読んでいる方も、興味関心がなければここらでタブを閉じるのが正解だと思う。

 

 

先輩にはその場で適当な返しをしてこの問答を終わらせたわけだが、考えれば考えるほど鋭い質問に思えてきた。ベルクソン先生に倣って、自分自身が会話の中で、何をもってネタの基準を作っているのか少し考えてみようと思った。暇だし。

 

・ネタの距離感覚

先に言えば、先輩から指摘を受けた通り「時期早々(じきそうそう)」という書き間違いを見た僕は、音の感覚の近さから「涙(なだ)そうそう」を思い浮かべている。ダジャレを思いついたという話だ。しかし、そこで「涙そうそう」をあえてスルーして、その歌い手である夏川りみという人物の名前を引っ張ってきたというのが今回のネタ。

 

理論的に理由を探る前に実証してみよう。「じきそうそう。なだそうそうじゃあるまいし。」この字面を読んだときの印象は如何だろうか。多少、イラっとするというか、どことなくクソリプぽくないだろうか。主観だが、この苛立ち「俺、面白いこと言ってるだろ?」という押し付け感から生じているように思う。

 

「そうそう」という音の一致こそが今回のネタの根源だ。所謂、ダジャレだが直接自分が指摘と同時に「そうそう」という韻を踏んでしまうと、相手の共感を待たずに「面白いことを言った」という構成になる。もちろん、勿論これでもネタは成立する。韻の一致、つまりダジャレに対して、笑いが生じれば問題はない。

 

しかしながら、基本的なリスクがある。このダジャレがそんなに面白くないという事実だ。勝手にダジャレを言って、ウケもせず会話終了という最悪なシナリオは回避したい。そこで、登場したのが夏川りみだ。

 

要点としては、相手に脳内でダジャレを言わせたい。「じきそうそう」という音を残し、夏川りみというヒントを置く。ある意味、連想クイズを無理やりさせるわけだ。そして、相手が正解を得られた時には自分と相手の間で「あぁ、こいつ涙そうそうが言いたいんだな」という言葉なきダジャレが共感として成立しているという具合である。結果、ややウケくらいでちょうどいい塩梅と言えよう。

 

この連想ゲームに大事なのは距離感である。より遠い関係のものを置いてもうまくいかない。「じきそうそう。沖縄出身アーティストのヒットソングじゃあるまいし」意味深すぎて、時間がかかりすぎる上、ネタとして面倒だ。勿論、若すぎる世代を相手にする場合アウトである。そもそも「夏川りみ涙そうそう」が浮かばなければ、シャレ以前に共感が成立しない。

 

相手の世代を鑑み、「そうそう」というダジャレを瞬時に共感するために、一番インスタントかつ的確な存在こそ「夏川りみ」だという僕の判断だったわけである。

 

・ユーモアのありか

日常のダジャレひとつに対して、何を偉そうに語っているんだというご指摘は最もなので黙っておいてほしい。書き終えてから自分でもそう思えてきている。つらい。

 

何はともあれ、こうしたネタのギミックというのものは、そんなダジャレ論にとどまらず日常会話においても理解していて損はないものだろうと思う。直接的すぎるネタは相手への押し付けとなり、遠すぎるネタはそもそも相手に届かない。

 

そんなのコミュニケーションの基本だろ、と一言に言ってしまえばそれで終わりなのだけれども、やはりウケを狙うという行為は自分のみで完結する行為では決してない。相手の共感との距離感こそが、笑いに繋がる本質なのだろう。

 

こう外出も規制され日々暇が過ぎると、ツイッターやら配信動画など眺めては、そこで行われるやり取りが目に入ったりする。先日も某首相のコラボ動画が炎上に近い形で話題となっていた。ただ、全国津々浦々の不特定多数を最大限気遣った結果のユーモアこそが、あの「誰に届けたいのかよくわからない星野源演奏と共にある休日風景」だったのだろうと思う。やはり難しいものだと感じる。

 

在るべきユーモアは、正しいコミュニケーションを探るのと同様で、人やごとに変化する。こうした密を避ける状況下において、普段の人間関係が希薄になると、人との繋がりの重要さはいや増して重要になるのだろう。ちょっとした談笑に対するありがたみも、日ごろより敏感に感じる日々である。

 

そんな折に、しょうもない内省ではあったのだけれど、ふと人のつながり複雑さを感じたダジャレに関する考え事でした。お互いの暇つぶしのために、また書き出し何か考え付けば、書き続けてみようと思う。