ここ数か月、
裏を返せば、特段何も考えずに生活できている、ということだ。それを悩み事のない「幸福」な状態と捉えるか、 または思考停止甚だしい「ディストピア」と考える人もいる。正直 、僕としては後者だろうか。普段から根暗な内省 には事欠かなかったような人間が、 考えることすら放棄するような状態。 今回はそんなディストピアから、 わずかながらポジティブな要素を取り出し、 思考停止から這い出してみようという、ささやかな独り言である。
唐突だが、人間、とは元は「じんかん」と読み、 その意味合いは文字通り「人と人の間」を指す言葉だった。 それが今では、人そのものを人間と呼ぶようになっていった。 とは和辻哲郎の指摘らしいが、 今になってその言葉の妙を思い知っている。人は社会を形成し、 その知性や地位を形づくって来た珍しい生き物だ。逆に、人 単体でどうこうしようとしたところで、たかが知れる。恐らく、 人にとって集まることが許されない、集団が組成できない、 という状態は生物的本能に根差すレベルでのピンチなのかもしれない、 と最近よく思う。
ニューノーマルと呼ばれる今日。会社勤めである自分は、 今の世において、いささか恵まれた環境にある。 今のところの心配は、 感染と賞与とぼんやりとした将来くらいなもの。 それと比較したら、 即日的かつ深刻なレベルでダメージを受けている人は多くいる。 自分周辺の範囲で言えば、日頃お世話になっているような飲食店、 周囲の自営業の友人、または推しのアーティストだったり、 そのライブを運営してくれていた多くの関係者、 などなど考え出すとキリがない。
では比較的ダメージの少ない我々に何か出来ることはないだろうか 、と思っていても、 事が大規模すぎて自分の無力感にばかり目が行く。春先から、 クラウドファンディングなども話題になったが、 やはり継続的な情勢となると投げ銭にも限界がある。 身の丈を超えた他者の問題を、内心に抱えすぎることは病理に近い。日々、なんとか労働によって食いつないでいる身分としては、大きな考え事とは距離を置いた方が賢明だったりする。 そんな諦観にぼんやりと身を任せているうち、 何か考える事すら距離を置くようになってしまった。
ということで、以上が昨今の脳内。 何を考えだしてもネガティブかつ虚無に行き着いてしまう中 、 少しずつこの新常態と呼ばれる環境を前向きにとらえることは出来 ないか。以下、何かを解決できるわけではない。ただ、視点を少しだけ斜め上にするための試行である。
まず例えば、SNS。近年その拡充によって、 これまでネットに触れてこなかった人までも、 その枠組みの中に含まれてきた。結果、 タイムラインでは多様な価値観が入り乱れ、 スマートフォンを眺めれば日々混乱に近い事象を見ることが出来る 。そうした混乱状況のTwitterなど、 眺めているだけで気が滅入るというという意見はあれど、 もしこのSNS、 ひいてはオンライン環境がここまで普及する前にコロナ禍が起こっ ていたらと思うと、それはそれで恐ろしい。
日本のような保守的な土壌で感染症の騒ぎが起きれば、 やはり様々な角度から誹謗中傷が問題となる。SNSでも毎日のように見かけるが、感染者あるいは、帰省者に対する攻撃が後を絶たないようだ。そのような事案をネットで見ては「この国終わってるな」とかネガティブな思考に思い至ってしまうわけだけれども、こうした誹謗中傷を告発できること。そうした事案が起こっていると不特定多数に開示できることは、大きな進歩だと思える。
ネット環境がなければ、こうした事案が共有されない。土地土地で、当事者のみで問題に対処するしかない。それは酷なことではないだろうか。ネットは個人が情報を集めるのみのツールではなく、個人の問題を外部に発露できるという大きな役割がある。勿論、えん罪やデマが通りやすかったりと問題は多々ある。見たくもないことを見させられることも多い。それでも、発露された残酷な何かは、誰かにとっての紛れもない現実だったりする。
Twitter上に流れてくる、数々のネガティブ事案は、発露されているだけでも価値がある。一周回ってそう思うと、まだ自分の平静を保つきっかけにもなる。
次に、先にも書いた「人は人の間でしか生きることができない」という話だ。
今回それを最も実感したのはスポーツだ。数々のイベントが中止に追い込まれる中、アスリートたちはその存在意義すら問われているように見える。どれほどシンプルに超人的なスキルや肉体を保有して居ようが、それ自体ではなく、種目ごとの試合に則った結果こそが選手の評価の対象となる。
試合やイベントが中止になり、スター選手ですら自らの存在意義さえ否定される中。NHKの朝のニュース内、このような取材を見た。
五輪まであと1年 岐路に立つアスリート
「いったいスポーツ選手ってなんなのだろう」ここでのフェンシングの三宅選手の内省はまさにこの状況下のスポーツの価値を問い直すものだった。最終目標である試合や大会が消えゆく中、スポーツ選手であること、という自己定義すら曖昧になる状況は容易に想像がつく。短い特集だったが、模索の中で、スポンサーや応援してくれる人の存在に行き着いた三宅選手の結論は、スポーツ云々でなく、昨今の状況における根本的な思考法のヒントになりうる。
公演ができない劇団、ライブのできないバンド、試合のないスポーツ選手。そして、それらを必死で応援してきたサポーターやファン。今、いろいろな場所でいろいろな人が、自らの存在価値を問われている。
この記事を書きだそうと思ったのも、ある友人からの相談だった。選手や歌手、俳優といったプレイヤーは勿論だが、それらを応援する人々にとっても、その応援自体が人生の張りだったりする。
次々と中止になるイベント。一時の損失は我慢できる。ただ、そうした我慢の限界に行き着くと、人は自分を守る為に意欲を消す。心としては、意欲さえ消せば、喪失感というダメージもない。しかしながら、意欲とは生きる活力そのものだったりする。気づいた時には、ダメージを避けながら、生きる意欲だけごっそり削られる免疫不全のような状態に陥る。現在こうしたパターンにハマっている人は、少なくないのではないだろうか。
こうなったときに先の三宅選手のような内省を思い出してほしいと感じた。ひとつ結論として、アスリートやアーティストの本懐は応援をされることである。こう言うと、反発するロックな人もいるだろうが、芸術すら作品そのものが価値を生むわけではない。社会があって意味が生じる。逆に言えば、人は社会を通してしか、意味を生み出せない。
ファンやサポーターの方が圧倒的多数、そしてどうせこれを読んでいるのもだいたいオタク諸氏だろうからこそ言うが、この状況下。推しの存在意義は我々が支えていると言っても過言でない。改めて言うほどのことではないかもしれないが、人と人の間で生きる人間という存在である限り「応援する」行為の価値は限りなく大きい。イベントや試合といったものがなかったとしても、好きなことがある人は、その好きを保つことで、確実にそこに意味は生まれる。各個人が、生きてこの社会を保つこと、そこには確かに意義がある。
すくなくとも、いちオタクとして、そう信じたいものである。
久々に文字を書いたら、とりとめもなく長くなり、無駄に時間もかかってしまった。書くにはやはり訓練がいるなぁ、とか思いつつ。継続できれば文章を書き続けていきたいものだ。何か意見を持つことも、発散することも難しい時代だけれど、何とか生きていきたいもんです。