わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

初めてメイド服を買った時のこと

少し前に。Twitterに、初めてメイド服を買ったときのことを書いたら、その詳細について聞いてみたいというリアクションを頂いた。
 
 
そういってもらえるのはありがたいし、今回ふと思い立ったので、その時のことを書いてみる次第だ。ただ、レポートはあってもエッセイのような文章は書いたことがないと気づく。正直に言えば、そのリプライを頂いてから2か月ほど経っただろうか。既に何度か書きかけた。ただ自分のことながら、いざ女装願望だったり、そのころのことについて書いてみようとすると、思いのほか複雑な感情の集合体のようで、すんなりいかず、とん挫した。
 
 
多分余計なものを書きたくなったせいだと思う。極力、あまり肩ひじを張らずに、その時のことを純粋に思い返すことにした。以下、そんな話である。
 
 
 
確か、就職活動中。僕は22歳だったろうか。今も大変だが、当時もリーマンショックというなかなか大きな不景気事案が発生して数年。求人倍率も底に落ちていた時代だった。そんな中、特段優秀なわけでもなく、コミュニケーションも円滑でない僕が苦戦する事は必至。単位をあえて残し、1年留年をして、2回目の就職活動に乗り出した頃だったと思う。
 
 
そもそもの話。ブログでも同人誌でも、いたるところに書いてきたが、僕は物心ついた時から色んな種類の性的倒錯を抱いており、いわゆる普通の性交には結局興味を抱けないまま成人になった。男性という自我に惑いはないけれど「男」「女」という枠組みだったり区分にはなんだか違和感がある。これを論じようと何度取り組んでみても、結局しっくりこない。言葉にしにくい感情だ。
 
 
つまるところ、世間一般の男性とはどうやら微妙にズレている。もちろん、大人になりかけの陰キャ男性というものは、往々にしてそうした自覚を持ってしまうものだが、先の就職難も重なったことによって、より明確な形で「社会に適合出来ないのではないか」という不安が増幅した。
 
 
音楽をやっていたので「なんだ世間なんて」と日頃から尖ってみてはいたものの、いざその社会から拒絶されるとやはり不安になる。その後、さまざまな家庭の事情も重なって、神経症を患い、案の定メンタル的なクリニック通いとなった。色々精神的に追い詰められ、ぶっちゃけて言えば、あまり記憶がない頃だったりする。
 
 
 
そんな中でも、鮮明に覚えているのが今回書こうとしている話である。
 
 
シーソーが本当に安定するタイミングは、どちらかに傾ききった時だ。とかく不安定さを解消したい。それが引き金だったのだと思う。普通に考えれば、余計に社会から除外されそうな選択肢なのだけれど、まずは人間として男女という枠組みへの強迫観念に決着をつけたかったようである。思い悩んだ末に、手を出したのが女装という手段だった
 
 
一人の男として、働く場所も得られず、金もなく、交際する女性も、そもそもその目的も分からない。「男として」そんな言葉に追い詰められ、もはやパラノイアに近い妄執の中、一度、男性という枠組みから自ら外れてみることにした。
 
 
そうであれば、いっそ振り切った方がいい。当時、ほぼ毎日秋葉原のカフェでバイトをしていた。日々街で目にするメイドさんを眺めている中、なけなしの金を集め、メイド服でも買ってみるかと決心する。そして、そんな決心の末ということで、ドンキで安物を買うのは違うだろうとなぜか意味もなく意気込んでいたことは覚えている。
 
 
メイド喫茶というイコンが定着しながら、アキバでちゃんとしたメイド服を買えるお店は思った以上に限られている。その中のひとつがキャンディフルーツというメーカー直販店だ。1Fはメイドさんが眼鏡を売っているコンセプト眼鏡屋、メイド服売り場は3Fという小さな雑居ビルである。非常にこじんまりとしており、普通のテンションでは入りづらいことこの上ない。
 
 
そんな場所に暗い表情で入ってくる20代男性。状況を想像すれば完全に事件の匂いしかしない。1Fで働くメイドさんの視線を背に階段で3Fへ。「キモがられているのでは」という想定すら最早意味がないほどに不審者の様相だったと思う。3Fに着くと、赤いカーペットが敷かれ、狭小なスペースながら所せましと並ぶメイド服が目に入る。そして、売り場を担当しているメイドさんが1人。逃げ場もない。文字通り、意を決した。
 
 
「自分でも着られるようなメイド服を探しに来ました」そう言うと、嫌な顔一つせずにこやかに「どの様なタイプにしましょうか」とすんなり返してくれたのを未だに覚えている。キャンフル製メイド服は、純正であれば数万はくだらない。そんな高額布製品を買いに来る客に、当たり前と言えば当たり前の接客ではある。ただ、そんな返答ひとつに少なくとも僕は救われた。
 
 
いくつか品定めをするうち、少しスカート丈が短いタイプの茶色いメイド服に候補を絞った。値段は2万ほど。バイトで学費を払う身としては流石に躊躇する金額。すると「試着してみますか?」と言うメイドさん現在も試着が可能かは分からないが、当時は具体的に購入を検討していれば試着可能ということだった。
 
 
まさか、人前でそんな服を着ることになるとは思いもせず完全に動揺する。ただ、ここまで来て物怖じしても仕方がない。モノは試しである。しっかりとした布地に袖を通し、スカート上のくびれた部分を腰まで上げる。慣れない背中のファスナーに苦戦していると「後ろ、あげましょうか」と手伝ってくれた。狭い空間で、メイド服の試着を終えた自分。それを眺めるメイドさん
 
 
未だ思い起こしても、なんとも言えない実感、という以外の感想が浮かばない。長男なのに、男らしさ、みたいな概念が雲散霧消していくような感覚。あるいは倒錯的フェティシズムとしての喜び。そして、鏡を通して改めて感じる自分の醜さ。それが、果たして僕の人生にとって通るべき場所だったかは置いておいても、経験しがたいものであったことは確かだと思う。なんていうか、卑下もプライドも色々なことが少し馬鹿らしくなった。結果、2万を払ってその服を購入。確か、おまけにニーソをつけてくれた。
 
 
深夜にひっそり実家で身に着けたことも今では懐かしく思う。
 
 
 
 
その後就職も決まり、上記のイベントの結果、いろんなものが吹っ切れた。20代はあらかた自分のやりたいことはやり切れたと思う。各種オフ会に参加したり、性倒錯にまつわる同人誌も作成した。キャンフルにはその後もお世話になった。仕事でストレスが溜まる度、お高いメイド服を数着購入して、未だに着ている。メイド服を購入したことは、今の自分を形作るひとつのきっかけとなった出来事だったことは確かだろう。
 
 
僕自身の倒錯は、男性性への違和感というより「性別が固定されていることへの違和」くらいなものだ。なので、女性になりたいというより「ずっと男性であることが嫌」といった感じ。可愛いものを身につけたくなるのも、そうした感情が根底にあると思っている。逃避だと言われれば、まさにその通りだ。
 
 
ただ、強気に言ってしまえば逃避する場所は、どのような定義であれ持つに越したことはない。僕はメイド服を着る、というちょっとアレな方法で逃避場を見つけてしまっただけであり、他の人であれば酒を飲む、好きな音楽を聴く、映画を見る、ゲームをする、など何でもよい。
 
 
こうでなくてはならない、という現実は大概思い込みだったりする。その思い込みは壊しておいたほうが、案外楽しいものである。
 
 
これ以上書くと、余計な説教が混じってくるのでこの辺りで終わりたい。長々と過去語りをするのも慣れないものだなと思ったりする残暑の日でした。