わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

お気持ちは誰かの呪詛となる

 
ちょっと短い内省レベルのお話を残しておきたい。
 
 
「お気持ち」と称される記事やつぶやきが散見される今日この頃。元ネタ、と言ってもいいのか分からないが、生前退位を検討されていた現上皇さまの「お気持ち表明」以降、それがそのままネットミームになった印象がある。ニュアンスとしては「ちょっと改まって言っておきたいこと」くらいな感じだろうか。よく見るものでは、他者批判だったり多少トゲがある内容、とかくネガティブなことを表明するときによく使われるようである
 
 
そんな中で、本日こんな感じの記事が流れてきた。(元記事は消されていたので、あえてこの文を残そうと思った次第)
 
現在の二次創作を中心とする同人文化に対する一次創作者、つまるところとある漫画家からの匿名の「お気持ち」。現在この国において、ある作品のファンは二次創作を作り、消費する・されるのが当たり前という空気。彼らは「好き」という善意をもとにしているが故に無垢であり、自身の無謬性を信じ込んでいる。二次創作は本当にそんな良いものなのか。自分はそうした空気自体が嫌であり、作品を好きだから弄ってしかるべきという文化など一次創作者に対する冒とくではないのかー
 
 
これがかなり拡散された模様で、各所で議論の的となっていたようだ。やれ特定やら犯人捜しの様相となり、記事も削除となったところではないかと想像できる。
 
個人的な所感としては、偏っていはいるものの話の筋は通っており、極論ながら考えさせられるところは多いにある。主張内容からして、こうした騒ぎになるのは目に見えていたと言える。しかしながら、僕が最も感心した点は主張以外にある。さすがは創作を生業にしている漫画家先生といったところか。二次創作を否定したいという「お気持ち」を述べた上で、それを「呪い」と呼んだ点だ。
 
「二次創作に対して、私みたいな態度の人間もいるということを残しておきます」
 
この言い回し。現在のネットにおけるふんわりとした「お気持ち」という表現に対して、そのオブラートをバッサリ剥いだところにあるものは何なのか、明確に示しているように思う。現に僕自身もこの記事を開いてから心境の変化があった。
 
日々Twitterで流れてくる二次創作イラストを特段何も考えずポチっと覗くわけだが、この記事を読んでからというもの、タップするのになんとない後ろめたさを感じたりする。そのうしろめたさは非常に微かなものではあるが、気持ちに影を落とさせるという意味では、十分「呪い」という語に足るものだろう。
 
それにしても、この「呪い」という言葉。この情報が過剰に流れ、言葉の価値が相対的に薄まる時代の中、なかなかハッとさせられるようなクリティカルな表現だと思う。現代のネットでのやりとりを見ていると非常にしっくりとくる言葉ではないだろうか。
 
何もスピリチュアルに頼り切った感覚でなく、誰かが吐いたいわゆる「お気持ち」=呪詛によって、該当する対象に批判圧力が生じる。よくある例でいえばネットフェミ勢の広告表現への問題提起。そうしたクレームはある種の呪詛ではなかろうか。そのような問題提起がなされるとなんとない後ろめたさを発生させ、「性的搾取」と見られそうな表現は公共の場に掲げる事が難しくなる。
 
また今回は例の記事を参照して「呪い」と呼んでみたものの、それは反面、実は「祈り」でもある。「こういう社会に変えたい」「より良い社会に」といった前向きな主張も、先から見てきた通り、もちろん誰かにとっての「呪い」になりうる。日照権表現の自由を例に出すまでもなく利害衝突、権利闘争と呼べば、より実務的な話になる。SNSが様々なコミュニティの間をつなぎ、価値観も全く異なる普段出会うはずのない人までをつなぐ中で。ネットにおいて、こうした祈りと呪いが入り乱れるある種異様な空間が生み出されているのだと、ふと感じ入ってしまった。
 
古来より言霊、というような概念がある。言葉は人に伝播し、その人の発想を変え、思った以上に他者を縛ることが出来る。SNSという概念が普及した今、我々はもう少しこれら言葉の威力や重みについてやはり考えた方がいい。
 
先の筆者は自覚的に「呪い」という語を使った。果たして、今この拡散される「お気持ち」は一体誰を呪っているのだろう。そんな非日常的な単語を踏まえてみると、言葉が持つぼんやりとしたチカラも、ふとリアルなものとして実感できるのではないだろうか。
 
自分自身もSNSなど適当に言葉を吐いていながら、それが実は誰かへの呪詛だったりする昨今。言霊信仰などをいまさら掲げる気もないが、ちょっと考えさせられる匿名記事だった。