わがはじ!

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想

思い付きでしばらくTwitterから離れることにしてみた。12年間ほぼ毎日つぶやいていた中毒患者がそう簡単に離れられるわけないと半ば諦め半分だったのだけれど、気づけばまぁ1カ月以上が経っていた。近況としては、ウマ娘、マジで面白い。ゴルシかわいい。

 

離れた理由はいくつかあれど、その一つに、そろそろエヴァの最終章が公開するから。というものもあった。やはりここまで風呂敷を広げてきた作品なのだから、何一つ情報を事前に入れることなく対峙してみたかった。

 

95年のテレビ放映当時から見ていたのかといえば、そうではなく新劇場版が公開になるあたり、友人から「お前は絶対ハマるはず」と説き伏せられ、TV版と旧劇場版を一気に見た結果、案の定ハマった。テレ東が映らないからと山の山頂まで上って、アンテナ立てて最終回を見たという逸話を残す強者からすれば、にわかもにわかである。

 

それにしても、この四半世紀の間。登場人物が何を言っているのかわからないままストーリーが進み、分かるような、分からんような理由によって、登場人物が死に、シンジ君が病んだりしながら、人類は滅ぶということを繰り返したエヴァンゲリオンの世界観がようやくここで決着を見たわけだ。

 

大枠の感情から言えば面白かった。見て損はない。というか、エヴァ好きなら見ないのはどうかと思う。その上でなんていうか、感じられたのは壮大な治療行為という印象。そして物語への納得感、ちょっとしたガッカリ感、また旧劇以上に辛辣なラスト、というイメージを抱くに至る。そんなことについて飲み屋でも語れない時勢であり、フラストレーションがたまりすぎたので、身勝手に滔々と書いていきたい。いわばガス抜きだ。

 

以下、ネタバレ余裕のため、読むかはお任せする。特段、楽しい話でもない。





ということで以下、雑感。やはり今回、特色として挙げるべきなのは、アスカがシンジに言い放つ「メンタル強度が低すぎる」という罵倒や、北上ミドリ(ピンク髪のひと)がゲンドウの立てた人類補完計画に対して吐き捨てる「ただのエゴじゃん」という言葉だったり、エヴァにおいてこれまでタブーだったような「メンタルヘルス」に言及するような単語がチラホラ出てきたことにある。

 

作中ではミサトさんがシンジ君をそそのかしたことで発生したニアサードインパクトから14年が過ぎている設定なわけだけれど、現実世界も思えば『破』が公開された2009年から12年が過ぎている。震災もあり、コロナもあって、世の中はようやく本格的に昭和的価値観からの脱出を試みている。

 

そんな中、今回公開された最終章『コーダ』では、これまで「なんか病んでる人たち」というレベルだったやりとりから、やっと各登場人物の精神分析を行う段階にまでやってきたように映った。例えば、これまではハリネズミのジレンマよろしく「環境と内省」の対峙を延々繰り返すだけだったシンジに対して、周囲が同情する姿勢を示したり、同時にミサトの苦しみをシンジが理解しだすというような相互性が生じている。

 

更には本作の大きなテーマであるエディプスコンプレックスに真正面から対峙する王道展開に及び、むしろ父であるゲンドウの弱さを息子が開示させている。その過程は「なんか病んでる人たち」というだけだった群像に、一つ一つ病名が与えられ、治療が試みられる様子そのものだったように感じる。

 

またセカンドインパクトやニアサードインパクト双方に対してトラウマとしての「人災」ではなく、あくまで「災害」としての側面を認め「誰かのせいではなく、むしろ生き残れたことの僥倖」を噛みしめるようなストーリーが各所に散りばめられているわけだ。

 

これまで、主人公たちを悲惨な状況下に置き、散々嬲るだけなぶっておいて、今回にきて「共感」というテーマが前面に押し出されているので「急にお前どうした」と困惑する場面は多かったものの、それぞれがそれぞれの傷をさらけ出し、不足を自覚、そして納得のうちに次へと進む明確な前進が描かれている。

 

もちろん、ひとりのファンとしてそうした病理が解決される「トゥルーエンド」的結末を歓迎しているわけだが、同時になんだかエヴァの二次創作を見ている気持にもなった。特に饒舌に、つまびらかに自らの過去を語るゲンドウのシーンは「答え合わせなど必要ない」と総監督自ら無駄な議論に終止符を打つ姿勢にも感じられる。ちょっとサービス過剰な感もあり、正直言えば、これに抱いた感情が冒頭に書いた「納得感と少しばかりのガッカリ感」、要するに、エヴァがここにきて、ちゃんとしたロボアニメと化したような喪失感だ。

 

今回の『コーダ』のストーリーを踏まえると、これまでのエヴァというストーリー性質がより明らかになってくる。ゲンドウ始め、冬月、ミサト、カヲル、アスカ、レイ、など、結局皆、大人になりきれない大人たちだったのだ。そして、そんな土壌で形而上生物学という謎学問の延長で科学と神話が融合、人類補完という壮大な逃避計画を行うに至ったという物語こそ26話で完結するエヴァの本筋だろう。

 

そんな計画を生み出したゲンドウが自らの動機を鮮明に語れば語るほどに、この壮大な神話は、実は小さなエゴの生み出した矮小な物語だったという結論に落ち着いてしまう。ストーリーの整合性や腑に落ちる感情や、物語としての面白さとは別に、なんだか抱いてしまう少しばかりのガッカリ感はそういう所にある。

 

そもそも『Q』の「ネルフvsヴィレ」という構図によって、ようやく我々はゲンドウの人類補完計画が「悪」であると認知したわけだが、エヴァが本来描きたかったものは、ゲンドウの無垢さだったような気もする。シンジ以上に純粋な感情で、人との関わりを拒絶し、すべて魂が同化した世界を求めたゲンドウ。そこでは、精神的に満たされる環境が全てであり、皆が同一に幸福であることが保障される。

 

対して、ミサトを始めとしたヴィレは生きる者の知恵を信じるという王道の対抗軸。勿論、世の中で生きる上で、ヴィレが示すように「生きて知恵を重ね、原罪を乗り越えていく」という姿勢はそれ以上ない結論だ。我々人類が身体を持って生き続けるのであれば、ブレることなき基本方針であると言える。

 

テレビ版と旧劇場版は基本的に観点の差であると思っている。テレビ版の最終2話はシンジの精神世界からの補完計画後を描き、そして旧劇場版では外からみた補完計画の様相を見ることが出来る。旧劇場版ではなんとか、シンジとアスカが一命を取りとめるラストにはなるものの、その先は恐らくない。

 

新劇場版では、そのループでありトゥルーエンド版と言えるだろう。ニアサードインパクトでシンジが綾波を救うという選択肢をとったことにより、ネルフおよび住民の一部壊滅は避けられたというルートだ。つまり生き残った人間がいる時点で、人類補完は悪の所業になり果てる。

 

ゲンドウは結局のところ、典型的社会不適合なサイコパスであり、妻への愛がすべてとなり果てたマッドサイエンティストだったわけだ。息子は、そんな父との関係性に悩むひとりの少年であり、悲しくも血縁から父の罪を背負ってしまったに過ぎない。

 

以前ならシンジは大人になることなく、周囲の凄惨な環境に狂いながら精神世界で救われるか、えげつない現実を晒されるかの二択に至ることになっていた。こうしたテレビ版および旧劇場版での「救われなさ」は、ある意味においてゲンドウが救済に至ったという裏返しだ。そうした意味でエヴァの「救われなさ」に、救われていた視聴者もいたのではないかと邪推する。

 

そう考えると、今回『コーダ』のラストが個人的には旧劇場版以上に辛辣なものになっているのではないかとも思えてくる。旧劇場版の終わりでは、劇場の観客を思わせる実写映像を映し出し、声優をそのままコスプレ姿で画面に投影し、現実と虚構を曖昧にさせるような演出をした後、シンジにアスカが言い放つ「気持ち悪い」という拒絶をもって幕をおろす。

 

エヴァ視聴者のようなめんどくさいオタクに対する、明確な挑発行為だと僕は思った。エヴァで描かれる大人になりきれない子供のままの精神性。それはそのまま、エヴァを愛好しているようなオタクどもの精神性とマッチする。そんな奴らは気持ち悪いだけ。

 

しかしながら、そこにあるのは恐らく同族嫌悪だ。そんな挑発すら自らの一部に対する嫌悪に端を発しているような、非常に子供っぽい手段に感じられた。悪口であっても同じ土俵であれば、残酷さはそこまで生じない。

 

対して今回のラスト。シンジはゲンドウを打ち破り、子供の姿から大人になる。するとまさかCVも緒方恵美から神木隆之介にかわり、同一人物とは思えない成長を果たす。つまるところ、あのように承認を求め、逃避を続けていたシンジですらとうとう大人になってしまった。そこからは「おいおい、もう承認とか自己愛とか、そんなこと言ってんなよ」というように、我々へエヴァからの卒業を促す姿勢にも感じる。

 

最後、シンジの相手に選ばれた相手がマリなのも象徴的である。ユイの後輩学者だったマリの残したクローンという解釈を個人的に採用しているが、つまるところ「近親相姦」的関係からも完全に離脱をした恋愛対象をも見つけている。親の承認から離れた自分で生きる自覚、という意味での大人と同時に、母の愛からも自立を果たし、自らの家庭を築く覚悟を得たようにも見える。

 

四半世紀続いた大人になれない大人と、大人になれない子供の話は、エディプスコンプレックスの打破により完全に終結したと言える。しかも、拗らせた解釈をすれば神木隆之介を起用するという点に恣意を感じたりもする。壮大なタイムリープを描き、世間的にも大ヒットしたボーイミーツガール大作『君の名は。』を想起させることで、完全にシンジが我々ウジウジしたオタクのもとから旅立ち、完全に別人となってしまったという寂寥感すら催す。もう、承認ひとつで悩み続ける中学生はどこにもいないのだ。

 

辛辣さとは書いたが、あくまでも大人になるという過程を示したに過ぎない。ただ、この期間続いたエヴァという根暗作品に、ここまで明確に突きつけられるとやはりショックが大きい。どこかでエヴァが終わらないという事実が、子供っぽさを脱出できない我々の精神を支えていた部分もあったのでは、と完結後にふと感じる。

 

そして、エヴァが終わり、シンジが大人になったその背景には震災から10年、そして、コロナを迎え2年という災難が続くこの国の日々が過る。「あの」シンジ君すら見事に大人になり、縁する人々の精神分析までこなし、創世を成し遂げたのである。

 

先に書いた昭和からの脱出という意味においても、今この時代のこの国こそがエディプスコンプレックスを抱えているように思える。戦後成長という父たる成功体験を殺さねばならぬ。日々のニュースを見れば、過去の栄光を叩くような記事がいくらでも目につく。まさに今社会そのものが葛藤をしている最中、昭和を引きずる90年代の象徴が幕を閉じたことは大きな転換点なのかもしれない。

 

とまぁ、好き勝手書き散らしたわけだが、エヴァが終わったのだ。こんな面倒な文章が生み出されないような展開だったにもかかわらず、無視してしまいなんだか申し訳ない気持ちにもなっている。

 

もちろん、最終章『コーダ』も映画としての出来は素晴らしく、見るべき映画であり面白い。ただ、やはりエヴァである限り、我々としては要らぬことを言いたくなるし、終わってしまうという儚さを受け入れることには、少し時間がかかるような気もしている。

 

なんていうか、社会と絡めたりするのも確実にウザいのだろうけれど、何年待ったのかもわからないのだから、好きなこと言わせてほしいという感じだ。早く、飲みの席で同じく本作を見た人と感想をぶちまけたい所存である。無駄に長くてすみません。