わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

心理カウンセリングを受けてみて気づいたこと。

毎度ながら明るい話ではない。要旨はタイトルの通りだ。こういう機会を初めて設けてみて、気づいたことについて、思考の整理がてら書き残すことにする。そういう類のモヤモヤを抱えている人の一助になればと、少し思う。

 

 

高校くらいの頃からだろうか。このブログでも少し触れてきたけれど、過去色々な事があり、突然の動悸だったり軽い躁鬱、パニックを起こす傾向がある。それら身体症状を抑えるため、長らく安定剤に頼る生活を続けている。とは言っても、日々飲まなければならない程ではなく、調子が悪くなってきた時用の頓服としてだし、貰っているものも強くはない薬だ。

 

しかしながら、そんな生活ももう15年以上続いているもんだから、延々クリニックに通い、薬を処方し続けてもらうのも面倒になってきた。もはや、性格にまで落とし込まれたメンタルヘルスの欠落を抜本的に直す方法はないものか。ということで、先日初めて心理カウンセリングというものを受けてみることにした。

 

心療内科やクリニックは主だって、医師がいて処方箋で対応してくれるところと、心理士がカウンセリングをしてくれるところに分かれる。もちろん双方兼ねている場所もあるけれど、心療内科を受診して後者を期待していたら、風邪のように簡単な問診で薬を出され、拍子抜けした方もいるのではないだろうか。今後、そうした医者に掛かろうとしている人がいるならば、自分がどちらを望んでいるのか、検討しつつ事前に調べた方がいい。

 

ということで、自分の話に戻る。カウンセリングを受ける、ということは自分の心理的な分析を心理士の先生と一緒に行う事になるわけだ。まずは自分の来歴や、メンタルの傾向を持つに至った経緯を整理して話す必要がある。

 

クライアントにもよるのだろうが、カウンセリングは数年単位の長期間に及ぶ可能性があるという。そりゃ、性格に根差した部分の修正・改善を目指す訳だから当然のことだろう。逆に言えば、初回は導入の導入。自分の来歴や気になる症状、その要因について簡単に説明する程度のものだろうと、気軽に思っていた。

 

正直言えば、僕は自分の心理面でのセルフコントロールに多少の自信があった。何せ僕のようなメンタル弱者は、素人なりにも自分の感情制御を理解していなければ、日々会社に出社し、現実社会を生きていくのは難しい。

 

実際、僕が行っていることは至ってシンプルである。少しでも気分が滅入ったら、その時の素直な感情をノートに書きだして、都度見返したりする。こうすることで自分の感情を客観視することが出来る上、習慣に出来れば季節ごとの傾向や周期も掴むことが出来る。個人的な経験則に照らせば、これは有用だったし、このノートも薬と同様に15年ほど継続している。

 

SNSで同じことをやろうとするとリアクションが気になってしまうので、当然の事ながらしんどい。アナログの方が自分に正直になれるし、何より書きっぱなしで済む。)

 

その為、カウンセリングを受けるにあたっても、自分の事は自分で理解出来ていると思っていた。それを説明した上で何か助言を貰えれば、というくらいに考えていたわけである。そして当日。事前に想定していた通り、自分の来歴と経緯について、改めて言葉として心理士先生に説明する。至ってスマートかつ事務的に進むと思っていた説明の中で、僕は思わぬ感情に陥った。

 

「あれ?思った以上に自分の人生、しんどい部類だったりする?」

 

アホみたいな状態だった。自分の知っている自分の歴史である。それに対して、自分は既に様々な角度から評価を下していて、ツライ過去も乗り越えたと思っていたし、振り返っても仕方がないとドライな距離感を保つよう心掛けていた。自分にとって、それら過去は終わったことだからだ。

 

一方で、これまで自分の生い立ちの「あまり笑えない部分」について、ノートに愚痴のように書き散らしたことはあっても、誰か人に語ったことはあまりない。何せ、聞いたところでまるで面白くないからだ。笑いどころもない、取れ高もない、暗くなるだけ。つまり需要のない話はしたくない。誰も得をしないではないか、とそう思っていた。

 

今回、心理士先生には60分間、安くない料金を払ってそんな需要のない話を聞いてもらった訳だ。だからこそ僕も腹を決めて話が出来た。そして、言葉にして、その言葉を聞いている心理士先生を見て、ようやく自分の経験がストーリーとして感じられたのだと思う。

 

そして、それは思った以上にキツかった。簡単に文字に出来た事が、まさか言葉にしづらいとは思っていなかった。エピソードトークになると、こんなエグみが増すのかと自分でも少し笑ってしまった。常に過去起こったことの評価を自分だけで判断し、PDCAを回してきた自分にとって、初めての経験だった。

 

会話の本質は、反射にあるのだろう。言葉が相手に届き、そのリアクションで、自分が言ったことを再度理解する。双方向による情報の摂取は、個人で行う情報の理解とはまるで性質が違う。自分の悩みは、話してみて初めて悩みの「深度」が分かる。出来事として、自分がどう判断するか、どう処理するかでなく、そもそもそれが「どんな事態なのか」をやっと把握出来る。これは貴重な体験だった。

 

その細かい話についてはここで書く必要もないし、多少長い目でこのカウンセリングと向き合う事になると思う。今回はその初回であり、今の僕の状況になんら進捗もない。ただ、やはり「人に話す」行為と「自分の中で考え答えを出す」という行為は、まるで別物なのだと思った。何か抱えている人は、何もカウンセリングでなくてもいいけれど、信頼のおける人に話すというフローを経た方がいいと感じ、ここまで文字にしてしまった。

 

悩みは一人で抱えるべきでない。巷でよく聞くその言葉の本意は、解決の糸口云々は置いておいて、そもそも「悩みそれ自体を本人が正しく評価することが非常に難しいから」なのかもしれない。確かに「話す」という行為はコストを伴う。けれどもそれだけの見返りもあるのだと。それを肌で実感できただけでも、今回カウンセリング依頼をしたことは、悪くない判断だったと感じる。

 

コロナ禍で中々人と会う機会も減り、人との距離感も測り兼ねる中、どうしたってストレスやモヤモヤは増加傾向にある。「人間」と書くその字の通り、人はそもそも社会の中で群れながら生きる生き物だ。ネットや動画サイトなどで一方向的に文字情報や動画情報を日々得る中で、個人での理解を繰り返しているうちに歪んでしまう認知も多くある。現に歪んでしまっている言説を日々眺める。そんな中、こんな経験から自分の感情を人に話すこと。改めて、この役割を感じた次第である。

 

もう桜も散る季節なのに、相も変わらず暗い内省を残して、明日からの仕事に備える所存です。適当に頑張りましょう。