わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

悩みが解決する、とは何なのだろうか。

近頃、そんな問いかけと向かい合っている。

 

前回の記事で心理カウンセリングを受け始めたことを記事にした。自分が既に解決したと思っていた過去の出来事や、これまでの来歴を敢えて口に出してみると、今まで内省として抱いてた感情とは異なる思いが湧き出して驚く。それにより、これまでと少し異なる角度から自分の人生を眺めさせられている、というような話。

 

こんな話題の続きを書いていく。

 

総じて自分の悩みってものは、客観的な評価が下しにくい。だって悩んでいるのは自分自身だから。「全然大したことない」と思っていた(思い込もうとしていた)ことが、周囲から見れば相当重たい事象だったという事も往々にしてあるだろうし、「これはやべえ」と思っていたことが、同様にそこまで重い事案でなかったりすることもある。

 

軽重だけでなく、時制も混乱したりする。当の昔、すでに解決した、と感じていた事が、本当は自分の心中で延々燻っていて、数十年経っても未だに人生において影響を及ぼすなんてこともある。大げさに言えばPTSD、簡単に言えば「感情のしこり」といったところか。そして、それは「あの頃、悩んだことが今の成長に繋がっている。」という美談になる人もあれば「あの時、あの悩みさえなければ。」なんてたらればを繰り返してしまう人もいたりするわけである。

 

そこでふと思った。「悩みが解決する」って、思った以上に複雑なことなんじゃないだろうかと。

 

以下、先日2回目のカウンセリングを終えた感想を、内省がてら考えた事と共に書き残す事にする。多分、この今僕が受けているカウンセリングは一朝一夕で終わるものではなさそうだから。少しずつ感じた事を残しながら、経過を文字にすることでタフな時間を耐えていきたい。

 

 

ふと思う。今、悩みはあるだろうか。お金が足りない、パートナーが欲しい、いい就職先が見つからない、忙しすぎて時間がない、人間関係が上手くいかない…まぁ、挙げればキリがない程に人生は悩みに満ちている。そんな中で、結構大きなウエイトを占めると感じるのが、家族の問題だ。自分の性格を形成する両親、生活を左右するパートナー、生きがいとしての子供の存在ーーーそう考えると、家族は種々の悩みの淵源にも思えてくる。

 

僕は今回、恐らくこの家族の問題に対してメスを入れなければならなそうである。細かい話は、いつか機会があれば書き残したいのだけれど、端的に言えば貧しい家だった。現在も、そこから完全に抜け出したとは言い難いが、何とか自分も、妹も社会的に普通な企業に勤めることが出来ているし、自立した生活をギリギリながら過ごしている。

 

両親との関係も、一時期かなり残念なものだったが、今では回復を果たし良好な距離感を保つことが出来ている。今、取り立てて自分の生活を脅かす存在でもない。そう、僕にとって家族の悩みは「解決した」のである。既に老齢期に入りつつある両親の貯蓄水準は引っかかる所だけれども、まぁ、何とかなると思えるだけのスタンスではいる。

 

しかしながら、今回。自分の来歴を話せば話すだけ、家族に纏わるマイナスイメージが噴出してしまっている。あの時、母のあの一言で自分はこうなってしまったのではないか。父の振る舞いによって、大人を見る目が変わってしまったのかもしれない。

 

それらは、言ってしまえば誰に言ったところで「誰も幸せにならない」言葉だ。あくまでも、自分の精神状態を改善したいだけであって、改めて両親に不満を伝えたいわけでもない。この陰気な性格を両親のせいにしたいわけでもない。それでもだ。何か、感情のしこりのようなものは確かに存在していて、言葉に出して初めて、それらが決して「解決した」フォルダに入り切っていないこと、今現時点での自分の感情に強い影響を与えていると、今回思い知った。

 

 

上記はあくまでも僕の個人的なケースだけれども、恐らくながらこうしたことは誰にでも言える事だろう。読んでくださる方も、幼少から今に至るまで。各家庭の、いろいろな仕来りやら、あり方が浮かぶのではないだろうか。「三つ子の魂百まで」なんて言うわけだけれども、既に通過してきた、大小様々な悩みは、解決されたという顔をしながら、未だに自分の人生を大きく左右している。

 

このことは、ネット上の議論を見ていても強く感じる。議論というのは本来、どちらの言い分がより適切かどうかを検討する機会と言える。ディベートの優劣のように、相手に理があると思えば、転向することも前向きな判断であろう。余談だけれども、議論では自分自身が正しいことを主張することでなく、自分自身が正しくあろうとする姿勢のほうが遥かに大切だ。

 

とは言ってもそれが理想論であることは、ネットを眺めればすぐ分かる。昨今で言えば、表現規制やフェミ論、または国際情勢、陰謀論に至るまで。そこでは適切な見解、あるいは言葉を求めている光景とは決して呼べず、もはや「自分の過去の悩みを本当の意味で解決したい」というような、至極個人的な精神分析のぶつかり合いなのではないかと思うに至っている。

 

誰しも、過去に傷を得ている。そして、それを乗り越えたり、克服する事によって、性格が形成される。上記でも書いたが、当人にとってそれは、ある種の美談でありながら、ある種のコンプレックスでもある。そして、前回書いた通り自分の経験に対する認知は、歪んでいく。ツライことが、あたかも自分を成長させた最上の経験になったりするのに、ツライと感じた自分がそこに取り残されたままだったりする。

 

今、ネット上で意見をぶつけ合い「自分の意見」としてこれまでの生き方を露呈させることにより、彼ら彼女らは、少しずつ自身の治療をしているのではないかという風に見えてくる。父からの教育、母からの束縛、友人からの嘲笑、そうした小さなフラストレーションの積み重ねに対して、時間を超えた反駁が生活の怒りとして日々、ネット上で漏れているのではないかと感じられる。

 

 

上記のような悩みは、抱いた時期が古ければ古いほど、腐れ縁の友人のように自分に纏わりつくのだと、先生は言っていた。とっくに解決したと思っている今の自分がいる隣で、当時の自分は未だに声を上げている。その声を抑える・聞こえなくすることが日々生きる上では重要で、むしろそれこそが「解決」=悩みの「寛解」だと思っていた。それでも、人によってはその「上がっている声」を無視し続けるべきでないケースもあるし、寧ろその主張との統合こそが、目指すべき所だと諭された。

 

多分、僕の場合。そういう「過去の声」を放っておくとあまり良くない結果になると過ったので、こうしたカウンセリングを受けるに至ったわけだが。統合とは言うが、本当に「解決」とはなんなのだろう。あの時、僕は納得をしたつもりだったのだけれど、それはある種、ただのやせ我慢だったという事も往々にしてあるのかもしれない。最早、過ぎた時間は取り戻せない中で「解決すべき」悩みなどあるのだろうか。難しい話だと思う。

 

そんな考え事と向かい合う今日この頃。理論立てて、スパッと言葉を並べた方が気持ちいのかもしれないけれど、あくまでこれも治療の一環ということで。あまり早急に答えをだす必要もなく、垂れ流すに留めたい。自分個人の内省を、少しだけ開示してみた次第でした。先に書いた通り、続くかもしれないし、続かないかもしれません。