先週。今後は週に一度、 ブログでも更新するかなどと気軽に言ってみた結果、 案の定自分の首を自分で締める結果となっている。 やはり話題なんてポンポンと浮かんでくるわけもなく、 眺める先はネットというか、世間の闇たるTwitter。
ただ、 そこに何もないかといえば、何かしらは見つかるわけで。 ということで今回は、そこでバズッた話題から、 少しだけ気になるというか、 ふと思い浮かんだ事があったので書き連ねていきたい。
ひろゆきの「コスパよく身につく教養!」みたいな発想よりも、イチローの「無駄にみえることこそが本当は大事」って発想の方が、俺は断然好き。 pic.twitter.com/2J6CajCeWf
— 経世済民大学院生 (@LiberalismStu) 2022年6月4日
イチロー氏のインタビュー記事画像を引っ張ってきて「
そもそも比較自体どうなのという話ではあるのだが、分かりやすいぐらいTwitter受けしそうな内容の通りバズってはいた。と、 そんな中僕が気になったのは、リプ欄にいくつかついていたひろゆき氏擁護の コメントだった。
それでも、配信などにおいても一定数のフォロワーを持ち、 多少の疑問は抱かれながら、 世の中に一家言持ち続けているわけである。一体なぜ。そんな疑問が前々からあったのだが、対して先の擁護コメントは実に的確な知見を与えてくれていると感じた。
今の世の中。Youtuber辺りが好んで言う「コスパ」や「効率」がもたらしているもの、それは今風の「平等」に対する考え方なのかもしれない。
極端な例ではあるのだけれど、イチロー氏を始めプロスポーツ選手ってのは、 彼ら彼女らが積んできたトレーニングも勿論だが、 往々にして生まれ持った身体もまた才能のひとつである。それは、先の「 努力したってイチローにはなれない」 という発想に表れている通り。これは、スポーツのみならず学力でも同様の事が言えるだろう。 親の遺伝子、生まれた家の環境、地域、時代。それによって、 学力差が生じることに大きな反論はない。
即ち、よく言われる「機会の平等」なんてものは、 教育現場の特有のお題目であって、 そもそも本質的には存在しない概念である、 というのがぶっちゃけたところだ。この話題を続けると、おおよそ「自助努力」 って話題が飛んでくる。いや、 そうは言っても「なりたい像」があるのであれば、 努力すればいいじゃんって角度の反論だ。
しかしながら、 上記の「格差論」をより進めていくと、そもそも「努力」出来るか、 否かについても環境差というものが付いて回る。同じ親の、 同じ教育方針でもない限り、子の「努力」 に対するスタンスも変わってくるのは間違いない。 イチロー氏だって、 幼少期からの親父さんによる熱血指導があった。お前、家庭も性格も異なる人間に、 同じ努力を強いる方が残酷なのでは? そんな問いすら垣間見えてしまう。
そこでいよいよ出番となるのが、ひろゆき氏の論調を始めとした「 コスパ重視」という発想である。意思が少しだけでもあれば、誰でも、 効率的に、結果に繋がるという意味で、 それら思想が提供するものは、単純なコスパというにとどまらず、 最早ある種の「平等思想」ではないか、ということだ。
努力や経験、実際的な知能でなく、 とかく目先のハウツーが重視されるという意味では、 90年代以降のハウツーブーム再来という感もあるけれど、 当時が「スキル」としての扱いだったのに対して、 現在のコスパ重視のスマートさは、 ある種思想的な救いになっているようにすら感じる。
動画サイトを中心に、 インフルエンサーが世の生き方を説いているという形は、 もはや説法のそれに近い。そして、 自己研鑽で自分自身がひとり上に向かっていく向上心というより、 ボトムを引き上げて、誰もが安心を得られる、いわば平等に対する 願望がそこに見て取れるようである。
案外、そうした思想を冷静に見てみると、効率や結果を重視し、 初期ハードルの低さを万人に提供しているという意味においては、大して悪いものでもない気がしてきたところで。と、 ここでひろゆき氏周辺に対して抱いてしまう胡散臭さについても、 簡単に考えておきたい。
何故、こうした思想の良さを一面では理解できるものの、 どうしたって何かこう反発的な感情を抱いてしまうのか。簡単に言 ってしまえば、その言行不一致の在り方だと思う。 ひろゆき氏ばかり引合に出して恐縮なのだけれど、 いくらコスパ重視の思想を説いていたところで、 彼自身。顔出しでメディアに出たり、配信を行ったり、 そもそもかつては巨大掲示板立上げの当事者だったりするわけで。
つまり、それ相応のコストやリスクを払っているのだ。常にネット民から全力で殴られ続ける状態というのは、 普通に考えれば大きなコストだろう。 常人がおいそれと耐えられるものでもない。その割に、 説いている話は、シンプルでコスパ重視。言っている事と、 やっている事が正直見合っていない。彼が人に説く理屈と効率は、彼の生き方そのものでない。あくまでも、商材なのだ。
その他、同様に「簡単さ」「単純さ」を説いて回る人間に感じる不信感の根はここにある気がする。効率を重視する割に、表に出るというリスクは払う。自己実現の為の、投資は行う。これ自体悪いことでないのだけれど、そこに対して薄っすらとした矛盾を感じてしまうか否かが、この思想を受け入れられるかどうかの、分かれ道なのかもしれない。
大して、オチもないまま書き続けてしまったのだけれども。僕個人の話で言えば、まぁ理不尽な苦労なんてものは、確実に誰もが経験するものなので、変に効率効率言ってないで、日々実直にやるしかないのでは。というところだろうか。
そういう意味で言えば、多分イチロー氏の発言に寄るところが大きいのだけれども、今回はむしろ「その効率やコスパが救っているモノって一体」という話をしてみたかったわけで。平等なんて言葉が薄っぺらくなった時代に、自分を支える考えが一体どのようなものなのか、一度整理してみてもいいのではないかと思う梅雨の始まりでした。