わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

紙媒体で同人誌を出すことについて

久々に文庫本を読んだ気がする。


メールボックスやらクラウドサービスを2度見、3度見する。

 

今日アップする記事。書き上げていたはずのデータがどこにも保存されていない。もうアップするだけと思っていたから、酒もある程度飲んでしまった。これはなかなかショックだ。週一回は更新を続けるという意思が3週目にして折れかける。

 

ということで、なんとか途中まで書きかけた文章を引っ張り出しながら、必死に書き繋いでいる。紙ならこんなことはないのだけれど…というボヤキと共に今回のテーマを何とか書き上げていきたい。ということで以下、本題。

 

 

夏のコミケに受かっていた。コミケという文化もコロナで2~3年離れていたら、もはや現実味のないイベントのように思えている。10年近くせっせと本を作っていたというのに、喉元過ぎてしまえばそんなものである。コミケというイベントへの思い入れだったり、具体的な同人誌に関するネタや企画の話はまた今度にする。

 

今回は、そのもう少し手前の部分。同人誌そのもの、「紙媒体」という所に焦点を当てて話しをしてみたい。

 

そういえば「電子書籍元年」そんな言葉を、雑誌や新聞でよく目にしていたのは、今から10年ほど前くらいからだろうか。スマートフォンタブレット端末が世に普及し始め「今後はこれで書籍や新聞、記事を読むんだ!」みたいな、謎の意気込みを感じられる記事が幾らでも読めたあの時代。

 

今から思えば「そんな語調強めなくても、自然にそうなるって。」とは思うのだけれど、それ程までに、人類はメディアとしての紙に依存していた、という事の裏返しだろう。思い出されるのは、小学校時代の勉強机の上。並んでいたのは、使い古された国語辞典や英和辞典に和英辞典、更に何版かも分からない広辞苑が、開かれる事もなく有難みすら伴って鎮座していた。

 

当時の僕はと言えば、未来の知恵たるインターネットがもたらすであろう電子書籍に希望を見ていた一人の少年だったわけで。中学時代からひたすら古本屋で買い漁った文庫本や漫画本が発するかび臭さに多少の嫌気を感じ、「元年」記事に同調するように「つーか電子書籍だろこれからは」と鼻息荒く、各社から発売される端末情報をチェックしていた覚えがある。

 

そんな思い出を頭の片隅に置きつつ、時を今に戻そう。スマホを持つことがひとつの人権になり、iPadやらkindleやらといったタブレット端末を個人で数台保有しててもおかしくない。漫画雑誌が電車の網棚に置かれているのを見たのは、いつが最後だったかも覚えていない。

 

更に消費者目線だけでない。同人誌作りという哀しい趣味に手を出してしまった身としては、同人誌ショップやDLサイトが運営してくれる電子版販売という存在は非常にありがたい。在庫管理の必要もなく、紙のような品質劣化も心配することがない。在庫保有を気にせずとも、定期的に購入者のおかげで月に多少ながら実入りがある。

 

こと「本」という文化圏において。紙としてのメディアの意味はどこにあるもんなのか。電子版の便利さを感じてしまうと、かなり疑問に思うし、紙が駆逐される傾向はいや増して加速していくだろう。それは間違いない。

 

と、そんな日々の中で最近、何の気なく昔好んで読んでいた文庫本を読みたくなった日があった。

 

94年まで存命だったアメリカの詩人で、晩年に大成したチャールズ・ブコウスキーのエッセイ集。老いても尚創作を続けつつ、日々競馬場に通いながら、クソみたいな人生とこれから訪れる死について軽妙に語る一冊。僕もそろそろ人生の過渡期みたいな時期に差し掛かり始め、何だかそんなものを読みたい気分になった。

 

かなり久々に紙の本を読むことにしたが、さっと取り出せた。開いてみると、薄汚れたいくつかの頁の端が折れている。昔から僕は本を読むときドッグイヤーをする習慣がある。気になる頁の端を少し折り曲げる行為で、勿論買った本にしかしない。案の定、この本もいくつかの頁が折れていた。恐らくは働き始めあたりに読んでは折り曲げたのか、保管状態が悪く、単に折曲がってしまったのか。

 

それでも、折れ曲がった頁を開くと、どことなく自分の心情に刺さる言葉と出会えたりする。その当時に自分が悩んでいた事や、鬱屈としていた感情が呼び起こされる。そしてまた今、自分の気持ちに沿った頁も折り曲げてみる。当然ながら、電子書籍にも線を引いたりインデックスを付ける機能はある。加えて僕自身も「紙にはやっぱし温もりがあるから」なんていう安易な旧時代擁護には中指を立てている方である。

 

それでも、何か紙が少し折れ曲がっているだけで、その頁に引き込まれ、かつてその本を読んだ際の気持ちが蘇るというのは不思議な感覚だった。

 

同人誌にしても同様に。夏コミに向け、印刷所にデータを投げ、現物としての本を今作成しようとしている。既刊の頒布については電子書籍頒布がメインだし、今更本を出す、というのも言ってしまえばナンセンスかもしれない。在庫リスクはあるし、何せ運搬が面倒だ。

 

しかしながら、コミケやら同人イベントに行けば分かる通り、時代錯誤と呼べばいいのか自分の作った本を目の前に並べ、通りゆく人に売るという酔狂な場面が広がっている。それは、ある意味でデータで補完出来るものでなく、紙自体が「情報を具体的に手にする」という体験を提供するメディアだからなのかもしれない。

 

今、情報は単に見るものであり、送受信し、拡散させるものだ。その本質は速度や使い勝手の良さが最優先される。そんな情報の一つの在り方として、紙はその逆張りと言ってもいい。現物として手元にあるというのは、それこそ不便だと宣言しているようである。しかし、不便=悪という訳でもあるまい。

 

「不便さが生むもの」とは言ってみたが、なんだかこの論調自体がオッサンのエッセイぽくてすげえイヤ。ただ実際そうなのだから仕方ない。同人誌を印刷して作るという行為は、不便さを受け入れ、「情報を手にするという体験」を売る側にも、買う側にも与えるものなのだろうなと思った。

 

まぁ、かつてのソフト産業は全てこれが当てはまっていたわけで。CD、カセット、レコード、ビデオ、雑誌…つまるところ所有という体験だ。現在、サブスクや動画サイトなどで、具体的な現物体験を失った人々は、ある意味でこうした同人誌のような「現物がある」世界に、これまでとは違った価値を見出していくのかもしれない。紙という価値は、再度個人の市場において輝く存在になるのかも。

 

などと、久々に文庫本を開いては、同人誌を作るモチベーションを維持させようという駄文でした。

 

それにしても、冒頭書いた通り。本当に昔作った同人誌についてデータが消失しているけれど本は残っているという事案もあるわけで。Yahoo!ジオシティーズが消えた今、あながち、保管という意味での紙媒体の価値は見直されてしまうのかもしれない。

 

よし、今週もギリギリなんとかなった。とりあえずコミケ原稿にも手を付けなければ。入梅の独り言でした。