わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「多様性」という言葉と心根について

情報過多な一週間だったような気がする…
更新に先んじて、明後日イベントがあるのでここで宣伝。7/15(金)たまーにお誘い頂いて不定期配信をしている、おたっきぃ佐々木さんとオフラインでトークイベントみたいな事をやります。性癖やらオタク話をしながら飲むというイベント。秋葉原で開催予定ですので、お暇な方は是非に。

 

ということでここから本題。毎週水曜に更新しているわけだけれど、こう1週間で余りに大きな出来事が続くと、何を書けばいいのか分からなくなる。周囲の関心を集められそうな時事ネタに寄せるべきか、はたまた硬派に、まるで関係のない話題でいくか。
 
 
そういう時、潔くスパッと決められればいいのだけれど、結局のところいくつかのテーマを浮かべては消し、浮かべては消し。ぼんやりとそれらから共通項を見出してみては、ちょうどすべての話題と等間隔にあるような言葉を抽出し、テーマにしてしまった。今週も色々な事を頭に過らせながら、比較的短く、簡単に書いてみることとしたい。
 
 
 
ここ数年、よく聞くようになった言葉の筆頭として「多様性」というものがある。今回の参院選でも争点のひとつとして捉えられていたのではないだろうか。
 
 
この言葉は、旧態依然とした一律的な発想を抜け出して、性差や趣味趣向など幅広く他者を認めていこう、というスローガンに使われることが多いように思う。近年セクシャルマイノリティの主張を皮切りに、働き方改革やこのコロナ禍を経て、一気に社会に広まった言葉の一つだ。
 
 
そして案の定というか、やはりこの言葉を巡って、ネットでは様々な議論を見ることが出来た。やれフェミニズム勢が女性の権利を叫ぶための論拠にしてみたり、あるいはガラパゴス化・硬直化した古い日本産業や文化の批判に用いられたりと、なかなか万能なワードである。
 
 
ただ一方で、そうした主張に対して、こちらも既に手垢がついた反論が投げつけられる。「多様性を掲げながら、他者の権利を妨げるのはおかしい」「ガラパゴスも多様性の一つではないか」などといった具合だ。
 
 
これら応酬を見てわかる通り「多様性」という言葉の性質上、何かを主張する根拠に使うと、それに反駁する他者も認めなければならないという縛りが生まれる。
 
 
そうすると何が起こるのかと言えば、理屈の上で結論に行き着かなくなり、上記の通り議論がぶっ壊れてしまう。正直なんでもアリになる。水掛け論に次ぐ水掛け論。一見万能に見えて権利主張に使うには余程明らかなマイノリティでない限り、何も生み出さない、虚無に近いアイデアでもある。
 
 
勿論、虐げられた人々が権利主張に使うのは合理的だと思うのだけれど、僕自身、一時期この言葉を聞くと辟易するというのが本音だった。詰まるところ「何をしても私を認めろ。」こうした脅迫のようにも聞こえてしまう。強く権利を叫ぶ人の為に、自分の信念を捨てることが「多様性」に従事することになるし、どれだけ阿保らしいと感じた事にも付き合わねばならぬのが「多様性」への貢献であったりする。
 
 
こんな事を考えていると行きつく先はニヒリズムリバイアサンだ。虚無か闘争。多様性に黙るか、多様性で殴り合うか。結局、耳触りがよいだけの無用な言葉なのだろうか。ネットを眺めては、そんな事を考えていた。
 
 
しかしながら、既にここまでこの言葉が世に広まっているということは、どこかで皆が「日本社会に不足しているもの」あるいは「社会は多様であるべき」という認識を持ち合わせているからなのだと思う。では、この「みんな違ってみんな良い」という考え方が我々を引き付ける根本的な発想は、どのようなものだろうか。
 
 
実際、答えはいたってシンプルで「他者を他者として許す」という姿勢のように思える。多様性を自分が強く主張する前提で使うと上記の通り、議論が立ち行かなくなる。むしろ、本来の使い道は、他者を許すことで自分も許されやすい環境を作るという、他者依存的な概念と言える。
 
 
「多様性」というワードの面白さは、この言葉を使う人の心根によって、露骨にその意味が生きたり、死んだりする。強い自己主張に使うと意味は雲散霧消し、他者容認の姿勢になることでようやく本来の意味を帯びてくる。いくら声高に「多様性」を叫んでみても、実際に多様な社会になるどうかはそれを聞いた人の態度によって決まってしまう。最初から言葉の意味に相互性が付与されているからこそ、この語は使う人の態度を如実に示してしまうのである。
 
 
こういう事は、何もこの言葉に限ったことではない。マジョリティをうち倒すためのマイノリティの言葉だからといって、権利を何にでも振り回していいわけでなく、与党を非難する立場の野党だから安易に過激な言葉を使っていいわけではない。公共的な価値を考えるためには、利己を超えて言葉を扱う姿勢や、その人の心根が問われたりする。つまり自分の為だけに「多様性」や「権利」が存在することはあり得ない。
 
 
また「多様である」という事は、先にも書いた通り、誰かが誰かを許すことであり、または誰かが誰かを諦めることだ。自我の執着から離れ、人と自分の間に無を受け入れる事。かなり仏教的な発想であるように思えるけれど、法華経で女人成仏や悪人成仏が説かれていたりするわけで、要するに昨今の人権の多様性重視という話は、誰だって成仏できる、つまり許すと説いた大乗仏教ブームにも近いものを感じる。
 
 
人には皆仏性が備わっているのだから、命あるものを全て救っていく。綺麗ごとのようだけれど、これが多様性の正体であり、本質なのだろう。よって自分の都合で多様性を他人や外部の社会にだけ求める事は、やはりお門違いだったりする。要するに「認めろ」というベクトルの時点でそれは多様性でない。自分を多様の一人として認め、諦め、多様の一人として他者を見る。そういう一種の境涯を示す言葉のように僕は思う。
 
 
 
なんていうか、冒頭にある通り色々と考えさせられる一週間だった。銃撃やら参院選やら。とてつもない事件があり、いやまして選挙の時というのは、とりたてて普段気にも留めないフォロワーの政治信条が垣間見えてしまう。あ、あの人、そういう発想なんだ。こういう考え方なんだ。思った以上に、色々なものが現われる。
 
 
そうすると、こういう発言をしたらあの人に切られるなとか、嫌な思いをさせるかもしれないな、という事も過ってくる。飲み屋でタブーになるのも分かる。色々な意見が存在することに、それを許すべきことに対して虚無感を抱いたりする。しかし、ニヒリズムと隣り合わせでも、やはり世は多様であるべきだと、ナイーブになりっぱなしな自分に喝を入れる。
 
 
同人誌を作っていても、ブログを書いていても「これ、何の意味があるんだっけ」と自省を始め、タイプする指も止まりそうだったけれど。一人くらいこんな人間がいてもいいだろう、という婉曲なセルフ励ましのような話。
 
理屈も話も取っ散らかっているけれども、今日はこんな所で、更新出来ただけ良しとしたい。