わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

トークバラエティから「知らない」と言えるようになった話。

ようやくコミケも済み、先週はおたっきぃ佐々木さんとのトークイベントも無事に終わり。総じて、遊びに来てくださった方、お世話になった方は本当にありがとうございました。

 

先週記事の通り、引き続き新刊の通販やらA-buttonさん、大怪獣サロンさんでの委託販売は継続していますので、こちらは何卒よしなに。トークイベントも継続されそうなので、また告知致します。

wagahaji.hatenablog.com

 

それにしても、イベントが開催される前後というのはブログが書きやすい。だって、話題が常にあるから。しかし、そんな「ハレ」の日は過ぎ去るもので、人は否応なしに日常に帰っていく。週1度の更新。余り気張らずにふと感じた根暗な独り言を漏らしていく。

 

 

過去を振り返ると。これまでに作った同人誌はほとんどが対談によって構成されてきた。にも関わらず、普段から僕と交流がある人は分かると思うが、あまりコミュ強という性格でもなく、特に知らん人と話す時にはめっちゃ物怖じする。Twitterのスペースとか、複数人いて、知らん人が入ってくる場所でよう喋れんなと思う。

 

この夏コミでも。知り合い(と呼んでいいのかも一度躊躇う)のサークルへ挨拶に行くのに、絶対数回はその前を通り過ぎる。本人か分からないし、そうだと確信しても、なんて話かけるべきかで迷う。結果、3~4回スペース前を通過してから、ようやく声をかけてみたら「…何度か通過してましたね」なんて言われ、赤面する。人間は怖い。

 

こんなのが、過去対談企画を続けてきたのだ。ハッキリ言えば、元来の根暗な性格面を、上っ面なスキルで何とかやり過ごしていた、という事だと思う。そのスキルについて、余り自分自身で考えた事がなかったけれど、対談ベースの同人誌シリーズもひと段落したところで、僕のコミュニケーションについての考えを簡単に文として残してみようという試み。

 

なんだなんだ偉そうに講師面してコミュ力ハウツーでも書くんか?お前も評論島で情報商材を売るんか?など色々と厳しい指摘が(脳内で)聞こえてくるものの、一旦無視をさせて頂きそんな話題について語ってみようと思う。

 

 

「コミュニケーションは場数だ。」これは大学時代、就職活動に取り組んだ時期、大学のキャリアセンターで死ぬほど刷り込まれた言葉である。

 

文系大学生にとって、就職試験は実質コミュ力試験と言っても過言でない。そして、僕はそこで一度爆死した。「面接はとにかく数だ。」そう言われ、素直に信じた僕は、大学4年生の頃、面接で都度撃沈を繰り返し留年。不安神経症も再発し、まぁボロボロだった。

 

しかしながら、ひとつ気づけたこともあった。学生同士が数人のグループを組まされ、特定の話題に沿って議論するグループディスカッションという選考。僕はこれを得意と豪語してもよかったと思う。就職留年したので、2年間合計100近くの会社を受けた中、一度も苦に思ったことがなく、現にその段階で落ちた事もなかった。

 

比較的浅い選考タイミングで行われるということもあったけれど、働き出して10年ほど。こういうフラットな場の話し合いというのは、比較的問題なくこなせていると思う。

 

では、面接とディスカッションはなにが違うのだろうか。面接とは端的に言えば、自分の事を話し、相手に理解して頂かなければならない儀式だ。自分自身を「ロクな人間でない」と思っている状態で、そんな自己をさも上質な商品のように相手に提示しオススメするわけである。

 

僕みたいな元々自分に自信がない人間がこれをやるとなると、マルチ商法を自覚しながら、胡散臭い商品を相手に押し付けている気分になる。無論、そんなメンタリティで受かるはずがなく、延々そんな面接を繰り返す中で当人の精神性は崩壊する。

 

それに対して、グループディスカッションは、自分が客観の立場に立てば良い。加えて、ロールプレイで構わない。自分という商品を無理に介在させる必要性もない。ていうか正直な話、一般的話題を扱うディスカッションなど、テレビで見るトークバラエティで見たまんまを再現出来れば上出来なのだ。

 

僕自身、そうしたバラエティ番組を見るのが好きだったので、小さな頃から集団コミュニケーションの教科書代わりにしていた側面がある。その中で、僕が未だに最も参考にしているのは「アメトーーク!」の蛍原さんの振舞いではないかと感じる。

 

なんならあの番組は、回にもよるが好きな漫画や家電といった同好の芸人をカテゴライズ化し、わいのわいのと盛り上がりつつ、対象のプレゼンを挟んだりするという構成であり、オタクの飲み会に近い。その中で蛍原さんは、どちらかと言えば「そこに与しない視聴者」側として、一言挟むというMCの立場である。

 

当然、実際のオタク飲み会の場面を想定すれば、楽しむうえでその場に出てくる話題を知っている事に越したことはない。ただ、参加者の年齢にバラつきがあったり、専門的な知識を持つオタクばかりが集まれば、当然のことながら自分の知らない話題も沢山出てくる。

 

更に言えば、オタクという人種は「知らない」という事を悔しいと感じがちな人種で、尚且つ、情報量を抱え過ぎた結果話が下手になったりする。知ったかぶりをしてでも、こいつに負けたくないと思う反面、加えて相手の話の骨を折ってしまうという恐怖が二重に重なり、会話が悪循環に陥る事もある。

 

そんな中で「アメトーーク!」で蛍原さんが、周囲から沸いて出てくるマニアックな話題に平然と「いやぁ、知らんわぁ」「へー、そうなんやぁ」とただ素朴に返すのを見て、当時中高生だった僕は小さな衝撃を受けたのを覚えている。それでいて場の空気が死んでいない。「あぁ、知らないって言っていいのか」。これは会話における発見だった。僕も徐々に無理をする事を辞め「それ知らなかったわ」と素直に伝える術を身に着けた。

 

すると寧ろ相手は、こちらが即座に共感出来なくとも「知識を共有したい」という意思があるのだから、こちらがその知識を得る姿勢さえ身につけておけば自然と話題は弾む。僕はきっとディスカッションにしろ、対談企画の場にしても「アメトーーク!」「さんま御殿」「いいとも!」などで見て学んだ「ただ聴くことの豊かさ」を、単になぞっているだけな気もする。

 

勿論、対談前には相手の事は学ぶし準備は出来る限りした。だけれどぶっちゃけた話、聴く方が自分が喋るよりも楽しいのが本音だし、これはあくまでも僕の気質の話である。

 

ただ、最近。この「知らない」事を素直に受け入れる姿勢が重要だと特に感じてしまう。家電だったり特定の漫画でなくとも、何かにとことん詳しくなって、饒舌にプレゼンするだけがコミュニケーションではない。ネット上では「論破」や「言葉の強さ」がコミュニケーション能力を決めるかのように見えやすい。反論に次ぐ反論の勝者にこそコミュ強だと。ただ、その反論による殴り合いにコミュニケーションとしての価値はあるんだろうか、とも思う。

 

コミュニケーションは、本来受け手が居て初めて成立する。決してそれは「打ち合い」ではなく「受ける」という行為が要る。相手が受けるからこそ、人は安心して話してくれる。そこにコミュニケーションが生じる。

 

僕はこれまでに書いてきた通り、自分事や何か対象を主体的に話す事が苦手だ。この文字もゆっくりと練りながら、消しては書き足しを繰り返している。恐らく反論の余地はいくらでもある。隙だらけの文章だと思う。それでも誰かしらが、静かに受けてくれるのでは。という仄かな期待から文字を残すことが出来ている。

 

日々、Twitterで殴り合いみたいな会話を眺めていると、自分の言葉を吐き出す事すら難しいと感じてしまう今日この頃。ネット上では「民放のトークバラエティなんてバカらしい」と一蹴されるかもしれないけれど、丁寧にエピソードを引き出す小さなリアクションの一つ一つにこそ、今バラエティを見るべき価値があるんじゃないか、と思った独り言でした。

 

自分のコミュニケーション能力分析というアレな話から始まり、案の定、暗い話になってしまいましたが、何とか更新出来たという事でまぁいいか。今日もお疲れ様でした。