長い事便秘気味だった文章を無理やり押し出した感も否めないが、とりあえず書き出してみる。
すっかり冬本番っていうか、もはや年末ていうかクリスマスだよね。そんな日に何を書き始めたのかと言えば「サブカルをもう一度」ってモテないにも程があるテーマなのは自分でもわかっている。それでも、今ふと思う事を書き散らせるのがブログ。こんなミジンコみたいな個人にも与えられたインターネッツ様様の権利ってことで、性の6時間突入に合わせて、リア充の嫌味にもならない文章を書き出すことにする。
昨今、サブカルなんて言葉は死語だと思っていた。そう思う事にしていた。
かつてゼロ年代なんて呼ばれる時代があって。ノストラダムスの大予言を乗り越えた人類は言葉通りの「次世代」を迎える。産業革命以来の情報革命という波が押し寄せ、インターネットなんていうよくわからない概念が色んな人とモノを繋げていって。進んでいく技術や現実に人の想像力がついていくのがやっと。流れの早すぎる時流に僕らは興奮気味についていって、必死でネット環境にかじりついて情報を得て、そしてその想像力の表出であるアニメやマンガも受け入れてきた。
セカイ系だったり日常系だったり。当時は極端に「ユートピア」と「ディストピア」を描く作品が多かった。よくよく考えれば、物語というモノはすべて何らかの形で桃源郷か終末を描かなくてはならないものだ。ゼロ年代はその表現が露骨なまでに顕在化した時代だった。時流の速さや、世紀末を乗り越えた安心感/不安感がそういう二極化を誘ったのかもしれないが、細かい事まではここで語らない。当時そうした文化を研究する本も沢山出て、興味があったので僕ものめり込むように読んだ時期があった。
インターネット文化やオタクカルチャー。ゼロ年代においてのサブカルチャーはそこにあった。マスメディアという既存権利の転覆を狙う新興メディア。サブカルの勢いはネットの拡大に伴って勢いを増し、徐々にメインカルチャーを侵食し始める。
そうして、ゼロ年代という言葉が死んでいった頃。気づけば、その勢いのまま。サブカルはメインの地表の半分以上を食い散らかしてしまった。国民のほとんどがスマートフォンを保有し、ネット通販が日常と化し、アニメは国産文化の象徴となった。いざ地下から地表に晒されたサブカル各位においては、サブみたいな表情のまま中身は既にサブのそれではなくなっていた。
さらに、震災の後。目に見える形で現実の「終末」を通過した時代を、日常として過ごす日々。地下なんて空間は存在せず、まさに全てが薙ぎ払われ、野ざらしになった地表で、言葉は殴り合いのごとく交わされて、あいさつのようなヘイトを見たり、政治という名目のカルトが横行したり。醸成することのない思想を日々眺めてはハートマークを押したり、拡散してみたり。
この時代においてサブカルなんてものを語ることに意味はないし、最早そんなものは存在しない。世界なんてネットで身近に思うだけで、きっちり焦点を合わせて見ることをせず、結局自分の生活に執着し、現実の拮抗を常に保ち続けることが「大人」の条件だと。学生という身分から卒業して以降くらい、そんな虚無感に似た感慨を持ち続けていたような気がする。
それでも、先月。ふとした出会いから、もう一度。そんなサブカルと向かい合おうと思えた。
宇野常寛というサブカル関連の批評家・思想家がいる。氏の新刊刊行記念ということで立教大学の教室でシンポジウムが開催された。登壇者は、富野由悠季×國分功一郎×福嶋亮大×宇野常寛という4人。名前を各人知っていたことや、友人の誘いもあって実際に覗いてみた。結果、3時間弱に及ぶ期待以上の激しいクロストークに、ぬるま湯に浸かりっぱなしだった脳みそが久々震えた。
冒頭富野監督は「アニメーションに思想なんてない。仕事をやっていただけ。」と言論的なモノを頭から否定する富野節を吐いて場の空気を凍らせていたものの、時間が進み、具体的な作品や現政権、憲法の話になるとその口調や内容は豹変。「憲法改正に僕は反対しない。だが、改正を叫ぶ君たちはその時代を生きた、戦時を通過した人間の感情を絶対にバカにしてはいけない。」「現政権を倒せないような野党にいる東大・京大卒のインテリたち。僕らの世代の責任でもあるが、そんな力のないインテリこそが日本の今の姿そのものだ。」どこか遺言にもなりそうな富野御大の言葉には鳥肌が立ちっぱなしだった。
また、それを引き出す各コメンテーターの熱量と知識量にも圧倒されたが、なんといっても宇野氏の抱く富野監督への愛は異常なモノがあった。「貴方がどんなツライ仕事をその時期にやっていたかも、書いていた内容も知っています。」「僕の本がここまで長くなったのは貴方のせいです。」と正面切って言い切るその姿は、作品や表現の好き嫌いを超えて、サブカルを本気で信じる、オタクのそれだった。
そのイベントを機に、宇野氏の著作を読んでみることにした。村上春樹作品評から始まり、特撮作品、そして仮面ライダーシリーズに話が移行。それぞれの作品が、正義と悪をどのように描いてきたのかを解説した『リトルピープルの時代』。そして今回の新刊、宮崎駿・富野由悠季・押井守という3人のアニメ作家をフューチャーし、戦後のアニメーション文化はどのように変遷し、そして世界をどう切り取り、何を語ってきたのかを解説した『母性のディストピア』。
その具体的な細かい論説をここで解きほぐす、反駁するということはしない。そういう場ではない。何はともあれ、サブカルというモノを厭世的に眺めていた身としては、改めて、ここまでまっすぐにサブカル論をぶつけられたことに対する感動が大きかった。その知識量とセレンディピティ的な着眼点で物語の共通項を炙り出すオタク的視点。マクロでメタな目線から、虚構を現実に投射させていくその手法と綿密な理屈。
正直、全てを読み終えて笑ってしまった。ただただ、うれしいなと思ってしまった。この「サブ」という地表を失ったオタクにもまだすべきことがある。面倒で厄介な、物語を欲しがるオタクには、ニヒリズムに埋没する時間など勿体ない。そう喝を入れられたようなそんな気がする。あとがきの最後に富野御大に直接説教をかますような氏の勢いに『OUT』時代の、本家の設定すら動かしうる勢いあるオタク像が浮かぶようだった。
そして、自らの二次創作性を庵野氏とダブらせて語る新刊の終盤。宇野氏と富野氏の関係がそのまま、庵野氏と漫画家の島本氏に思えてきたりもして。何だかやはりオタクという稼業は煽り合いなんだろうかとか、ちょっとセンチな気持ちにもなったり。とかく『母性のディストピア』は、今の時代に拗らせていて、何だか倦怠感のあるオタクには良薬だったと思う。
最後に少しだけ。この『母性のディストピア』の結論部、民主主義政治における「中間たるもの」を語る部分。ここに関しては、民主主義を齧った人間であるならば、その結論は非常にスタンダードな事に気づく。アーレントやトクヴィル、Rダールあたりの系譜から、公共性と中間団体の存在をいかに定義づけるのかという問題が残る。権利団体や市民団体など、個人と政治を繋ぐレベルの層をどう醸成するのかという話だ。
はっきり言えば、ベタな結論である。それでも、この戦後アニメという迂回の末にそこに至る事は確実に無駄な事ではないと気づかされる。これまでのアニメーション文化の歴史は戦後という時代を虚構の中で再構築し、そのブレイクスルーを模索した思想史とも言える。ニュータイプが行き着くユートピアはどこなのか。バトーはどのようにその虚無を超えるべきだったのか。
我々が真に現代人であるには、経験してきた歴史を学ばなければならない。それは思想史においても勿論当てはまる。僕らがこの先の政治やこの先の文化を考える為に、どのようなSFを経てきたのか。それはサブカルチャーに潜り、そしてこれからのサブカルチャーを掘り進める作業に他ならないと思った。言葉では安いのだけれども、それは「サブカルチャーを再構築する」何かを始めよう。そんなきっかけになった出来事だった。
なんか纏まってもないのだけど、熱量として置いておきたくてこんな、怒られそうな文章を撒き散らしてしまった訳で。
本当にモテそうにない話で、そろそろイヴも終わってクリスマス本番を迎えてしまった。皆様におきましては体調に気を付けて、コミケも遊びに来てくださいね。