年も締まる年末、なんかこの所ずっと鬱傾向なので生きづらさについて少し考えていた。
昔から自分の内面と出力される行動が、今一つ合致しない感覚がある。挙動不一致とでもいうか。
こいつの事が嫌い、と思っていても気付いたら媚びている。こんな仕事辞めてやる、と思いつつ日々従順に業務にあたる。まぁ、文章にすればいくらでもこんな人いくらでもいるのだろうけれど、恐らくその度合いと質の問題なのだろう。
折り合いをつける、という言葉がある。同じ意味で言えば妥協することだ。妥協と聞くと何か安易な方に流されるような、そんな後ろめたいイメージを抱く人もいるだろうが、こと人生に置いて妥協することは生きるために得るべき重要なマインドである。「まぁ、こんなものでいいか」と、現実と理想に折り合いをつけることは、日々をまともな精神で過ごすには必須スキルだ。
折り合いをつけられない人間がいわゆる「生きづらさ」を抱える人なのだろう。世の中一般に言うような生きづらい感覚は、これまで見たような「妥協することが出来ない」人を言うのだと思う。そして、往々にしてそういう人は身の回りに存在する。
生きづらさ、がここまで市民権を得た言葉になったのも、こうした理想と現実の葛藤というものが、日常生活で普通に起こるハレーションであることを示していると思う。貴方はなりたかった自分になれたかと問われれば、胸を張って「その通り」と答えられる人間は、そこまでのマジョリティでないはずだ。きっと。
僕の実感に話を戻すと、挙動不一致と書いたが、行動としては全然妥協できる。なんなら、性質として人との揉め事全般が苦手、というより、揉めている状態に身を置くと全てのステータスが半分以下になるデバフがかかる仕様となっているため、揉め事を回避すべきという発想が行動原理のうちにある。揉めたくても、揉められない。
揉めたくないのであれば、隣人を愛せばいい。そう思うけれど、最近特に「あぁ、自分はそもそも人全般が嫌いなんだな」と感じる機会が多い。
例えば、何のYouTubeを見たのか、最近家族が政治批判をするようになってきた。特に最近ホットな税制だったりについて言及するわけだが、直接税と間接税、国税と地方税の見分けもついていなかったりする。それを批判すると、分かりづらい仕組みがいけない、となる。
ため息は出るものの、色々見ていて、こういうムーブは広く一般的なものだと思う。政治を批判するのに、国の仕組みを基礎からちゃんと学ばなきゃいけないという事に、違和感を抱く。我々国民に対して、政治を判断するための情報は正しく簡単に、適切に提供されるべきものであるから、当然マスゴミの偏向報道は悪だし、ネットで提供される情報も自分に合うようスクリーニングされているべき、と声高々に言う。一方、ネットで「ちゃんと学んでください!」と叫ぶ輩が、決して岩波書店の古典を提示することはない。
結局、大切なのは自分は正しい、あるいは共感を得ているというノリと雰囲気なのだ。意味はエモさやストーリーにまとめられ、価値は共感を集めた数に集約される。人間の認知など古来からそうであったところ、ネットがより具体的な形でそれを可視化させた、というだけだろう。生きていくのに、知への誠実さは不要で、その場の勢いと自分の感情に任せた振る舞いさえ出来ればなんとかなる。
古来から、と書いた通り、これは誰かが悪い、という話でなく人間一般に備わったオプション機能だ。集団で生きてきたヒトは、客観的で確かな事実を認識するよりも、集団でのノリ的コンセンサスに価値を見出してきた生き物である。僕の中にもこういう傾向は当然に存在するし、普段の生活では揉めたくもないので、ノリと勢いに任せて生きている自覚もある。
この傾向を嫌悪すればするほど、これを自然にこなす自分に辟易する。この不一致がとても気持ち悪い。というあたりで、冒頭に掲げた生きづらさへ話題は戻る。
嫌悪するなら、もっと迎合も出来ずに正面から苦しめばいいのにと日々思う。嫌悪する対象に、かくも自然に擬態できるこのスタンスを長いこと理解できないでいる。まぁ、そんなめちゃくちゃ厨二みたいな価値観を、アラフォーになった今でも抱えているし、こんな感情が原因で時たま気が狂いそうになるし、安定剤を飲み続けては、なんとか気持ちを抑えている、という話。
来年もまたきっと生きづらいね、というところで何も締まっていないが、終わりたい。メリークリスマス。