わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

スーパーファミコンと貧困と悪運

僕が小学1年生の頃、恐らく夏休みのことだったと思う。お盆だったので母方の実家に帰った。そこで、突然親からスーパーファミコンをプレゼントされたのだ。ただ、この歳になるまで、ずっとこの出来事がどうも不思議というか、腑に落ちなかったのだ。

 

何より家は貧しかった。ゲーム機なんていう高額の趣味用品を買えるだけの余裕はなかったはずである。初代ファミコンは家にあったが、それすらも友人からの借り物だった。小さな頃に僕が怪我をして、外で遊べなくなった事を同情した友人が貸してくれたのだ。タチが悪いことに、治ってからもずっと借りパク状態にあったし、なんなら一番遊んでいたのは親父だった。そして令和7年、未だに実家に眠っている。

 

そんな家だったから、スーパーファミコンなど買える状況にないということは分かっていた。しかも、僕の誕生日でもなく、正月も関係のないお盆に。しかも、敢えてわざわざ母の田舎でなんか買う必要もない。だから、おそらく母方の祖母あたりが、遊びに来てくれた孫を不憫に感じ、スーファミを買ってくれて、親経由のプレゼントにしたというのが落とし所ではないか、そう、この歳まで思っていた。

 

つい先日。久々に僕の実家に帰り、その時の事が話題にでた。「そういえばあのスーパーファミコン、どうせ母方の実家から買ってもらったモノでしょ」とすると親父が、違う違うと否定し「母方の実家が気まずくなり、適当に散歩すると言って外出し、近場のパチ屋に行ったら入れ食いになって景品交換した。」という事だった。まぁ、あり得る話なのだけれど、想像以上にしょうもなかった。親父は「当時あんな高いもの、買えるはずないだろ」と笑っていた。

 

今となってはどうでもいいのだけれど、そうか、パチ屋かぁとぼんやり感じ入ってしまった。人付き合いが苦手な親父がパチ屋に逃げ、入れ食いとなった世界線にいなかったら、僕はスーパーファミコンを手に入れてなかったということになる。誰か親族が僕のために用意したわけでもなく、偶然、運によって顕現したスーパーファミコンに僕はとても喜んでいたのだと、少し切なくなった。いや、いいのだけれど。

 

ふとこれに関連して、そういえば。我が家には初代プレステがあった。たしか、あれもクリスマスでも誕生日でもない、変な時期に家にやってきた代物だった。当然、僕は喜んだけれど、よくよく思えばその頃、家の貧困度はさらに上がっていた。家族で昼にカップ麺を食って、その汁を残して凍らせて、夜に解凍して米と雑炊にして食べていたくらいの時期。プレステについても深く考えないようにしていたのだが、恐らくあれも景品だろう。

 

思えば親父は「散歩」をしによく外へ出ていた。その都度何かを持って帰っていた気がする。当時の小学生向けホビーはよく売れすぎて品薄になっていた。ハイパーヨーヨー、たまごっちとか。そういった類のモノを突如持ち帰ってきていたから、ある種ヒーロー的な見方をしていたが、全部パチスロの景品だと思うと一抹の寂寥感がある。親からのプレゼントは基本的に運ゲーだったのだ。そういえばお年玉も、あみだくじで金額が決まっていたのだから、むしろその姿勢は一貫している。

 

案の定というか、小学5年生の頃だったか。本当に欲しがっていたプレステ2については、ついぞ我が家にやってこなかった。あのデフレの最中、4万円を超す価格帯である。景品でもなかなか厳しい出玉を要求されたことと思う。正月、誕生日、クリスマスと小学生が持てるすべての権利を放出しても、尚届かず。欲しいものが手に入らず本当に落ち込んだのはあの一度だけだった。

 

小学校も5、6年になり、ゲームは高いので誕生日やクリスマスのプレゼントは次第に音楽CDになった。そんな中、ビートルズにハマって買ってもらった『アビーロード』。音楽で感動して、初めて泣いたアルバムだったのだけれども、その中の収録曲『Carry That Weight』の「Boy you’re gonna carry that weight,carry that weight a long time(少年よ、これからの長い人生、君は重荷を背負っていくんだ)」という歌詞に、当時から何か嫌な予感を感じていた気がする。

 

人付き合いが苦手だったり、労働を忌避したり、何故か真っすぐ生きていけない親の血は自分にも流れているのだと、今更ながらに思い知らされている。(反面教師でちゃんと働いてはいる。今の所。)

 

過去、色々ゲームもプレイしたのだが、その体験も親父の悪運のおかげだったと思い知った今日この頃。純然たる善意からでなく、親父のパチスロの結果で僕の原体験や思い出は形作られていたわけだ。子供に対して、明確な意思による確実な体験がなくとも、子供はいつか大きくなるのだなと、しみじみと感じ入った師走の初旬でした。少し寂しくもある。

 

ふざけなければならない

普通に働いて、普通に生きている。それ以上でも以下でもない生活。人はそんな日々に対して「幸せと思って生きろ」と言ってくる。病気の人、貧困に苦しむ人、はたまた他国では戦禍によって日常もままならない人が多くいる。それを考えれば「普通」というのは、なんとありがたい状態か。それに感謝も出来ないような程度の低い人間なのかお前は。みたいな苦言が延々と頭の中で聞こえてくる。いや、まぁそうなんだけれど。

 

そうは言ってみたところで、何かパッとしないこの感じ。ずっとスッキリしない。昔から色々創作活動やら同人活動は続けていたり、最近ではネットラジオの真似事のようなことはしているが、それによって何か生活が変わるのかと言えば、案外そうでもない。それ自体がライフワークだと納得して、懇々と続けるほかない。至って地味なルーティンではある。

 

加えて歳をとり、どうも余計に「日常」に縛られてきている。何をするにもほどほどが良い、という価値観。実際身体もそれに合わせて、量を食べられなくなってきている。養命酒を飲んで寝ると翌日寝起きが良い。健康診断で「D」判定になった。運動の為なるべく会社からは歩いて帰るようにする。何なんだ。言い逃れしようもなく「日常」じゃないか。

 

そう思えば思うほどイライラしてくる。世の中が僕にちゃんとしろ、と強いてくるようで。そんな、覆いかぶさってくる日常に抗う為に。ふざけなければ、と思う。ふざける、というのは、ちゃんとしないということだ。大人になると、意識せずともちゃんとしてしまう。恐ろしいまでに、ちゃんとした自分を取り繕えるようになる。もっと、雑でいたいのに、体面を気にして経験則でそれらしい振る舞いが出来るようになってしまっている。つい日経とか読んでしまう。

 

やはり、そんなことじゃいけない。もっとふざけていないとダメなのだ。ふざけないとまず、暗くなる。ツイッターで書き散らす内容も延々暗い内容が続いている。最近「ネットでよく暗い話しますよね」と数人に言われた。僕のツイッター運用はただただあふれ出る気持ちなので仕方ない側面はあるが、根暗が根暗とバレて良いことはない。ふたつめに、真面目になってしまう。真面目に将来とか考えて投資とか資産運用しか面白いことがなくなってしまう。これでは良くない。

 

では、ふざけるといっても具体的に何をすればいいのか。例えば写真を撮る時には、爆笑問題太田光みたいなポーズで撮りたい。マクドナルドのポテトは食べる前に一度鼻に突っ込みたい。身近な製品の中にあるモーターをウルトラダッシュモーターに替えたい。蛇口から水を出すとき、スプーンで受けて広げてあたりびしょびしょにしたい。これ不謹慎かも、と思ったらまず言ってみてから考える…まあ、なんだっていい。

 

コンプライアンスだとか、ガバナンスだとかいって、世の中はどんどんちゃんとしていく。最近の「ちゃんと」は人間の許容量を超えた「ちゃんと」ではないかとたまに疑問に思う。人を傷つける恐れがあるから、ちゃんとすべきだ。罪を犯したら一生の終わりだから、ちゃんとすべきだ。みたいな意見も毎日見かける。

 

ネット上では、誰もが無謬の前提で発言する。自分は誤りを犯さないと何故だか自信満々だったりする。僕は、きっとふざけてしまうので、誰かを傷つけることもある。調子に乗って、余計なことを言うこともある。「ふざけない」ことの一番の怖さは、そういう自分は間違えうる、みたいなバランス感覚をうしなうことかもしれない。誰かをいつか傷つける、そんなリスクを抱えて、遊ぶ。「ちゃんと」しすぎた無菌室の中に、ユーモアは生じない。

 

だから、意識をしてふざけないといけない。そういう危うい場所にいることを自覚して、それでも面白いものを求める。日常に抗っていく。下らない事を積極的に考えていく必要性がある。そういうことを考えた日でした。

文フリ雑感と同人活動を続けることについて

文学フリマが終わった。遊びに来て下さった方、ありがとうございました。

 

簡単にイベントに対する雑感として。

 

コミケの雰囲気も好きだけれど、久々に参加した文学フリマはなんかこう垢ぬけたようなイメージを受けた。売っているものも、どちらかと言えば「同人誌」というよりも「ZINE」といった感じ。明確な定義の話はしないけれど、何が違うのかと言えば、好きなものについて発信するというよりも、寧ろ自分の内発的な発信に向いているような感じだろうか。コミティアやデザフェス寄りというか、そんな印象を受ける。10年前の文フリよりも快活としていて、そのこと自体に賛否はあれども、良い方向に向いているのではないだろうかと僕は思った。

 

また機会があれば応募してみよう。と総論としての文学フリマの話からやはり、薄暗い内省の話に移っていく。

 

こういったイベントに参加するたび、ついついモノづくりに関するお気持ちが沁み出てしまう。心の割れ目からじわじわと。こんな表現から察しがつくとは思うのだけれど、それは決して「作ってよかった!」というような良い感情だけではない。むしろ作ってみたところで、そこまで捌けなかった新刊に対する後悔の数々だったり、または次に作ろうとしている本に対する不安や失望だったり。イベント直後は負の感情が8割といったところだ。

 

だって面白いものなら、きっと話題になるし、そりゃあ売れるわけで。反面、話題にもならず、売れなかったということは、意味のない時間とお金をただただ費やして、ドブに捨てていたのだなという結論に至りたくなる。現地で沢山の人が参加しているのを眺め、その人らに自分の本が刺さらなかったという現実があるからこそ、余計にこうした気持ちに襲われる。実にナイーブおじさんである。

 

しかも気づけば僕は、このルーティンを10代の頃から18年も続けている。数えれば今年までに同人誌を26作品ほど作っている計算になった。恐ろしい。そんな同人活動を振り返れば「ちゃんと売れたし、作ってよかった!」と断言出来る本は4~5冊あたりではないだろうか。打率でいえば、1割後半。プロ野球選手ならそろそろ進退を考えねばならない成績だろう。そんないい思い出を抱えながら、本を作り続けている。

 

一体この行為はなんなのだろうと何度も自問する。数少ない成功体験に依存している、というのも確かにある。実際過去に「売れてるなぁ」と断言出来た時には、それはもう気持ちよかった。多少生々しい話だが、同人誌の販売でお金が儲かる云々よりも、自分の思想を外部化させたものが直接バンバン売れていく、あの光景は特に脳汁が出る。同人趣味の一つの醍醐味であることは間違いない。

 

ただ、そんなドーパミン中毒だけで同人稼業が続けられるかと言えば、前述の通り厳しいものがある。パチスロや競馬、その他多くのギャンブルと違い、同人誌制作は準備時間にバカみたいに時間がかかる。イラスト・文書作成からデザイン、印刷所への発注などなど作業工程だけ考えれば、ほとんど仕事みたいなものだ。そんな仕事に近い事を強いられているのに、更には印刷代という掛け金を支払い、最後の最後に頒布というギャンブルに出る。無論売れればいいが、その可能性は結構低い。それではあまりにも救いがないのではないか。

 

では、頒布数に打ちひしがれるサークルにとって、同人稼業の救いとは何なのか。このあたり、同様のお悩みを抱くサークルさんを招いて傷のなめ合い会でも開催してみたいところなのだけれど、まずその前に自分のパターンを開示してみることにしよう。

 

自分にとって作品や本を出す、というのは例えるならバッターボックスに立つことだと思う。自分の脳内から世に何かを出して、その是非を問うというのは、大げさかもしれないが「勝負をする」ということだ。そして、バッターボックスに立つだけなら、誰の目を気にする必要もない。何の資格も不要で自分の意思だけで出来る。

 

また、勝負の勝ち負けも実際は自分で決めてよい。新刊の完成をもって「勝ち」とする人もいれば、1部でも頒布出来れば「勝ち」かもしれないし、1000部捌けて「完勝」とするサークルもある。規模はそれぞれで良い。でも、恐らく創作を行う人々は、大なり小なりリスクをとって「勝負」をしている。

 

そして何より重要なことは、世の中誰も「勝負しろ」なんて言ってくれないのである。最終的にバッターボックスには自分の意思で立たなければならない。自分の意思で勝負するからこそ「ひりつき」を得ることが出来る。「勝つかも」という期待に賭けることは、他の誰が止められるわけでもない権利だ。恐らく僕も、頒布数など結果以上にこの「勝負をしている」という感覚を得たいが故に、本を出し続けているのかもしれないな、とふと思った次第。もちろん、売れて、結果として読んでもらった感想などいただけると、とても嬉しいが。

 

なんのことはない、僕も言ってしまえばギャンブル中毒者と同じなのだ。「生きがいを得る」というのは恐らくどこかでリスクを抱えながら、そのリターンを得る行為の中に生じるものだ。印刷代と在庫、そして時間というコストを払って、自らの作品や企画の是非を問う。このリスクを背負ってモノをつくるからこそ、あまねく創作者は「楽しい」と感じているのだろうし、また彼らにはリスペクトを払うべきなのだろう。まあ、人それぞれなのだろうけれども。

 

事実、同人稼業を行う者としてはTwitter運用も難しくなった今、確かに結果は望み薄な時代ではあるものの、企画を思いつく限りは本を作り続けていたい。なんだか文フリの明るい空気に当てられて、少し凹んでしまったので、前向きなことを書いてみました。個人的にはもっと暗い即売会も好きです。

文学フリマ新刊の話とエッセイを書くことについて

久々にブログを更新する。同人誌を作っていたら、案外満足してしまったので長めの文章を書かなくなっていた。今週末、文学フリマに参加する事もあり、新刊について多少語りたかったので、短いけれど更新することとしてみたい。

 

 

 

前回の宗教二世に関するエッセイに続き、躁うつ病をテーマにしたエッセイを書くことにした。前回は多少肩肘張って書いたのだが、今回についてはもっと自然体に。ぶっちゃけ、あまり読む人のことを考えずに書いた気がする。

 

自分の病気の事を書く、というのは正直読む人のためでなく、自分の為に書くという方がしっくりくる。僕の場合、そこまで大病したわけでもなく、少し生きづらいだけ。誰が読みたいんだそんなもの、とも思う。それでも、文字にしてみようと思った。そのきっかけは、作中でも記載したが、もっと色々なことを肩肘張らずに書いていいのではと感じたからである。

 

なんなら僕は昔からエッセイが好きだ。文筆家に限らず、お笑い芸人、よく分からない文化人に至るまで。これまで数々の「名作おもしろエッセイ」を読んできた結果、エッセイなんてものは文才ある人間の独壇場である、という認識を持つようになった。人生の棚卸が面白いのだから、その人自身が面白いのだろう。文字を書くのを趣味にしていたが、僕が書けるようなものでもないと思っていた。

 

そんな中、いつだかの文学フリマでその認識が少し変わった。当然のことながら、エッセイジャンルで同人誌やZINEを書いている人も多くいる。そんな本を手に取ってみたのだった。失礼な話なのだが、案の定そこまで面白いものでもない。日常が日常として描かれており、とても些細な事ばかりが書かれている気がした。

 

それでも文字になったその日常は、思いのほか心に沁みた。わかりやすい面白さはないのだけれど、その反面しっかりリアルで、嘘がないのだなと感じた。俗に言う飾らない文章、というヤツだろう。文学フリマで適当に買ったのだから、その著者のパーソナリティもつかめず、書いている人が誰かも分からないのだが、なんだか「そういう人も現実社会にいるのだな」ということがじんわりと胸に響くような、そんな心地良さが残った。

 

いくつか買って読んでみるうち、自分でも書いてみたくなった。前回夏コミの宗教二世の話は正直、少しだけ話題になればいいなという狙いがあった。話題も話題だし、時事的にも気になる人が出てくるだろうという打算があった。ただ、今回文学フリマで出す「躁うつ病エッセイ」に関しては、需要がまるで分からない。作った自分で言うのもなんだけれど、ただただ僕がぼやいているという感じ。恐らく5年前の自分なら、決して世に出さないタイプの文章だろう。

 

きっと歳をとって変化したのだろうと思う。文学フリマで買ったいくつかのエッセイに影響を受けたのもあるし、ただただ自分の人生に諦めがついてきたというのも確かだ。エッセイを書くと、その人間の身の程が知れてしまう。哀しいかな、大して面白くない人間であることがバレるのだ。

 

でもそろそろ、その面白くもない自分の人生と向かい合うべき時期がやってきたのかもしれない。なるべく、話せば面白いヤツだと思われたくて、文章を読んでもらえれば、何か一物あるヤツだと。そんな風に思ってほしいという欲がずっと頭の片隅に存在していたのは確かだ。でももう、そろそろそういった類の妄執とも別れる時がきたのだろう。

 

だから、今回の文学フリマ新刊で出す『脱物語としての躁うつ病カウンセリング記』はさして面白くもないと思う。

 

なんなら、ワナビー的思考に対する諦めを滔々と語っている。いつか成功する、報われるという物語がなくとも人はなんとか生きていけるんじゃないの、という提案をしている本だと思う。なので、同世代だったり、同じように足掻いている人、あるいは躁うつ病の当事者に届けば嬉しい。背伸びするのでなく、地に足付いた文章を書いたつもりなので、そういう姿勢が伝わってくれればこれ以上のことはない。

 

ブログも久々書いたものだから、なんだか文字がギクシャクしているけれど、たまに書き散らすのも悪くない気がする。

 

文学フリマに参加するのは久々なので、楽しみにしたい。当日お会いできる方は、ご挨拶させてください。

夏コミ新刊について

いよいよ夏コミが目前。徐々に高鳴る気持ちはすり減ってはいるものの、ちゃんと盛り上がっている気はしている。

 

この夏は新刊として、さわやか宗教二世エッセイということで、自分自身の創価学会との関係について振り返る本を作ってみた。

¥1,000 です。

ここでは宣伝というよりも、今回作った本の補足というか、ちょっとしたお願いの話でもしてみたいと思う。今回は、創価学会員の二世として生まれ、その中で真剣に信仰と向き合ったにも関わらず、いかにしてそのメインストリームから外れていったのかという点について「しくじり」として記述した。

 

内容が内容なだけに、もちろん肯定的な話というよりは功罪の側面を書いている部分が多い。ただ、アンチというわけでもなく、あくまで僕自身が向いていなかったという性格面での問題や、育ち方のズレをメインコンテンツとしている。宗教組織としてどうなんだ、という話はそこまでしていない。

 

当初、この話題を書く際。周囲の知人らから「尖ったテーマだね」と声をかけてもらったりもしたが、仕上がったものを見れば、取り立てて「尖り」を感じる内容でないことは分かってもらえると思う。シンプルに言えば、ただただ僕自身のエッセイ文章なのであって、強い批判や提言などをしているわけではない。ただ、そこにあった一つの人生を見つめ返す行為である。

 

この手の文章は、自分の人生の切り売りであるからして、オリジナリティやら創作性とは関係がない。悲しいけれども、たいして面白い企画も思いつかず、体験談を人に話すにとどまった結果生み出された本というわけだ。

 

ただ、実体験は実体験なので、そこから生じる感情もあるのだろうとは思う。だからこそ、今回読んでいただいた方には、感想を書いてもらえると嬉しい。今まで以上に単なる企画というより、自分の人生の一部分という本なので、どういった目線でこれを見てもらえるのか、ということが僕自身純粋に気になるのだ。むしろ、そうした外部からの目線は、ある種の救いのようなものになる気がする。

 

今回の本の冒頭にも書いたことだが、本書の目的の一つに、自分の治療がある。何を治療するのか、ということは読んでもらったほうが早いのだけれど、そうした声を頂くことで初めて冷静な目線で自分の人生を振り返ることが出来るのかも知れない。

 

正直勝手に本を出しておいて、感想よこせというのも身勝手な要望なのは重々承知なのだけれども。そういった意味で是非、ご協力頂ければ幸いである。別に読むことへのハードルを上げているわけではないのだけれど、いつも以上に感想もらえたら嬉しいです、という話。すでに頂いた感想からも、何か新鮮な心地というか、自分の人生なのに「あぁ、そういう見方もあるんだ」などと驚かされている。

 

もう良い年齢になってきて。色んな物を諦めたり、スンとした気持ちで眺めなければならない中で。こういう本を作ってみたというのは、いい経験になったと思うので、是非とも手にとって頂ければ幸いです。

鬱状態についての簡単な対策

ブログ更新も1月以上空いてしまった。気づけばバカみたいに暑い。そして鬱っぽい。こういう時こそ傾向と対策である。

 

この頃。とても気持ちが凪いでいて、何に対しても強い関心を持つことが出来ずにいる。それこそ先般行われた参院選の過程だったり、日々ネットやテレビなど様々な党や候補者の言説を浴びても、どこか他人事を延々聞かされている心地になっていた。政治のみならず仕事に関してもそう。当然業務なのだから、やらねばならないことはやるけれども、それも自分の意識の外で行われているような感覚が続く。

 

嬉しいことや、悲しいことに対するとらえ方も変化している。すべてが天気に対する感想くらいの感情で物事をとらえてしまうのである。何か良かったことがあったときの感情は「あ、晴れたな」くらいの感覚。反対に、誰かのせいだったり、何かの問題が起こりネガティブな感情が沸いても「雨だな…」くらいの感覚。その低層にはすべて「仕方ないか」みたいな、投げやりな思いがあるような感じ。責任や因果すらもう考えたくないのだ。

 

要するに、自分の人生に対して主体性を感じなくなってきた、というところだろうか。自分の意思で何かをなしたところで、その結果にはあまり関心はないし、反対に嫌なことがあったとして、それは自分の意思外のことだから受け入れざるを得ないということ。

 

思考停止と呼べばその通りではあるのだけれども、恐らく色々な感情を抱くこと自体に疲れてしまったのかもしれない。SNSで情報を頭に入れたところで、その情報に価値があるのかどうかすら分からない。自分がどう感じるのかすらどうでも良い。出来る限り寝ていたい。こんな感情と向かい合って冷静になればなるほど、鬱傾向であるという結論だけが頭を過る。

 

さて、こんな時どうすればいいか。以下対策を自分のことながら書き出していく。長年の双極性障害持ちを活かし、経験則から考える対策と傾向の列挙。精神的に弱った際、人類に出来る唯一の抵抗である。

 

まず第一に、眠いのであれば単純に心身が疲れているのだから出来る限り寝ればよい。眠れる時には眠る。それが最もシンプルにして最大の自己防衛行為だ。眠ることで体力のみならず思考もかなりクリアになる。寝ている間に余計な物は忘れ去り、記憶の整理が行われる。人間、精神的にやられる時は、6割方記憶に攻撃されている。眠ることで、そのあたりから解決を目指すのは最適解と言えよう。その際、過剰なアルコールは睡眠の質を下げるので控えたほうが吉。そして、個人的には外泊すると見事に眠れないので、やはり自宅でゆっくりするのが正しいのだろう。

 

その上で、動ける時ならば。おおよそ鬱傾向の時は二種類に分かれる。人と会えるか否かである。鬱的思考で頭が占められている時というのは、往々にして一人自分を責めてみたり、亜空間を眺めては何もない世の中を憂いてしまう。精神的に人とコミュニケーションをとることが可能な状況であれば、極力人と会ったほうが良い。人と会うことは気分の発散につながる。行きつけの飲み屋でもあるのであれば、家に帰らずなるべくそこで時間をつぶすべきだろう。病んでいる人間は、暇な時間にろくなことは考えない。ぼーっとしてりゃいいじゃないかと、言われたところですぐに悲しい内省が始まる。

 

一人で出来る趣味に手を出してみたところで、頭はハッキリしない、創作活動もサッパリ、ゲームをやるにも集中力は途切れ、どうしようもない。それではじゃあ、逆に。人に会えないような気持ちの時はどうすりゃいいの、という話だが、寝るしかないのである。非常にシンプルなチャートだ。寝るか人と会うかの二択だ。とにかくなるべく一人で暇な時間を作らない。鬱傾向にある人間が一人何かをしようというのがそもそもの誤りなのである。

 

眠くもない、あるいは眠れないという状況なのであれば、文字を延々書きなぐる、というのはおススメかもしれない。今自分が感じている絶望だったり、不平不満などなど、とりあえず思考を外部化させることで、いったん頭の中を整理する。ただ、これもほぼ眠っている時に行っていることを代替しているだけなので、本当は寝たほうが良い。後からその時に書きなぐった自分の文章を読み返し、自分がいかにアレな人間なのかを再認識してしまう可能性もある。実際私も毎日そのような文章を書き散らしている。後悔しそうな時は、直に睡眠導入剤を飲むべきだろう。

 

とかく空いた時間は寝るか、一人にならないか。これを徹底しながら、鬱の波が過ぎ去るのを待つしかない。不思議なもので、気分の波はコントロールできるものでもなく、季節のようにやってくる。双極性気質持ちの方は皆そうしているのだと思うけれども、抗えば抗う程に、から回るし、波の反転が遅くなる。やりたいことはあるのに、出来ない自分を延々責めてしまうから。

 

まぁ、この管理がうまくいってれば今、このように悩みもしていない。どれだけ気を付けていようと、どこかでフラストレーションが溜まり、いつものように自分に絶望したり失望したりしている。いつかは晴れると期待しながら、また変にやる気など出さないように、丁寧な暮らしを心掛ける。

 

対策をしていようといまいと、最終的には落ち込むのだから、また気長に少しだけ気分がマシになるのを待とうと思う。皆様もクソ暑い中で体調も崩しやすいけれども、お気を付けて。

 

 

思想をフラットにするために

入梅の頃はなんだか無性に文字を打ちたくなる。気分が下がり気味になるからだろうか、余計な考え事がよく頭の中を占めるようになる。

 

ここ数日でTwitterには排外主義だとか、差別主義といった言葉がよく流れてくるようになった。話題の出所は置いておいても、コロナ禍が明け、インバウンド需要も旺盛になったことで、そもそも対外的に開いた社会でない日本においては、恩恵は確かに認めながらもその功罪部分への鬱憤が溜まっていたということだろうか。

 

日々ネット上において、かなり右寄りな物言いの人が増えたのと、それに対抗する左寄りな人の言説が飛び交っている印象を受ける。

 

そこに輪をかけて「声を上げなければならない」と言った強めの民主主義を推す主張もなだれ込んできている。トランプに対しては一見さげすみながら、米国の自国優先的なポピュリズムに対してどこか羨望を持った人たちが多くいるということだろう。

 

そんな情勢を眺めつつ。私個人の発想をここに書き込んでしまうと、正直これらの論争はどうでも良いという感じがする。こうした問題に大して、中道と言えばなんだか聞こえはいいが、そんなに大した発想でもない。誰にも、何にも期待をしていない、というのが正しい言い方だ。

 

在るべき日本人像みたいなものも本来は存在しないし、この国の在るべき姿みたいなものも想像しにくい。素敵な同僚もいれば、嫌いな同僚もいる。そして良い外国人もいれば、悪い外国人もいる。ただそれだけの話である。

 

日々社会の中で他者を見ていたり、あるいはネット上でのコメントを眺めていると、基本的に、人には自分が直接的に属する家族や友人関係といったコミュニティ以上の単位で、物事を考える能力や資格はないのだと感じる。

 

国はこのようにあるべき、と言ってみたところで、その「国」の解像度を一個人が持ち得ることなどない。理屈上で正しそうな事を言ってみても、それは結局、様々な人がモザイクのように属している国の中での一意見なのであって、その中でわざわざ大局を語ること自体に意味はないのではないかと思う。

 

もちろん、一国民としての自覚を持った意見なのであれば筋は通っている。個人が自分の利害について主張することを妨げるものはなにもない。当人がその感情を持ちだして、共感を得たいという気持ちも分かる。

 

むしろ官僚であるとか、大臣であるとか、議員であるとか。立場が公人になればなるほど、私人としての意見は置いておいて、こうした一個人の利害を掬い取り、一定の利害を持った集団や組織の代弁を行う、というのがその職務となる。人々の共感を元手に使って、てこのように大きな規模の判断を行うのが今の国の仕組である。

 

ただ、個人にしろ、公人にしろ、近年はその発言がネットによって歪んでしまっているのではないかと思う。インターネットというものが出来たせいで、人はあまりにも個の力を信じるようになってしまった。個人は公人であるかのようにモノを言い、公人は私人であるが如く意見を宣う。多くの人が本来の立場、分相応な発言が出来ずにいる。

 

そうした言葉は、発言のベクトルがひたすら自分に向いている。誰かの為の言葉でなく、ただただ自分の為に言葉を吐いているように思える。質が悪いのは、国だとか世界だとか、語る対象が大きくなると、語っている当人はその対象の為を思って発言しているように勘違いしてしまう。つまり、ロマンに溺れてしまうということだ。

 

ハッキリ言えば、自分のうだつが上がらない日常への不満を、国やら世界情勢といった大局への批判という形で昇華させているだけなのだが、それら「言説」はTwitterやらヤフコメを通じて、誰かに届いてしまう。そこで得られる共感がすべて諸悪の根源だ。誰かから認められている、そう思うと人は、そこに意味を見出す。自らの言葉に価値があるものだと思いこむ。

 

冒頭で書いた通り、今、差別主義やら排外主義やら、主義主張のやり合いを見て。そんな応酬に辟易している人については、こうした言葉のやりとり自体、基本的に意味はないと断じた方が楽になるだろう。

 

はたまた、そんなやり合いに興じている人については、楽しさや気持ちよさの反面で失っているものもある事を自覚すべきではないかと、そんなことを思ってしまった。

 

すべてはお節介なのかもしれないが、少なくともこうした大局を語る言葉というのは、無駄に人の感情を高めてしまう。共感の素材になってしまう。ひいては、そこで注目経済が発生し、誰かの金の種になる。折角の熱量がそのように下らない消費に充てられること自体、健全な状態ではない。

 

虚無主義的だと叱られるかもしれないが、冷静に物事を見るとはこういうことである。まず自分の言葉の限界を知る事。自分が発する言葉に酔わない事。それが実直な価値判断の第一歩ではないか。大きなロマンはそこにない。だからこそ、自分が本当に大事にしなければならない人が見えてくる。その小さな積み重ねこそが、本来の政治的な営みであると思っている。

 

色々なノイズが目に入ってしまい、内省的になってしまった。夏コミの原稿も進めねばと思う入梅の日でした。

徒党を組むことについて

以前も書いたが、恐らくヤフコメを人より熱心に読むようになってしまった。誠に遺憾である。

 

ヤフーニュースに付けられたコメント欄の意見、ヤフコメ。前々からしょうもない政治討論の場や、中高年のネット掲示板という形で揶揄されがちではあるものの、むしろ昨今のTwitterよりも真剣みがあって見ごたえがある。実社会ではどこにも発散する場所がない意見、時に陳情であり、政治への苦情であったり、また自分の人生に対する悲哀をただ書き連ねる人もいて、人間交差点といった趣をそこに感じる。

 

その中でも特にコメント数が多くなりがちな話題のひとつに、就職氷河期世代に関する話題がある。政府による遅きに失した支援プロジェクトなどが散発される度に、関連ニュースのコメント欄は各人、人生の語り場となる。就職活動の失敗から、家庭や子供とあらゆる幸福を捨てたこと、これまでどれだけツライ人生を歩んできたか、それに比べ今の新卒の扱いときたら、といった不平もチラホラ。また、資産形成が不足しており老後が不安、といった意見も目立つ。

 

そんな中で「努力不足」と断じるようなコメントがあろうものなら、苛烈なほどの「うーん(否定的リアクション)」がつけれらる。ある種、同じ境遇の人々が集まり、そこで良く言えば励まし合い、悪く言えば慰めあう、疑似的なコミュニティが形成されているようにも見受けられる。

 

自分自身、就職氷河期世代ではないが、その後のリーマンショック時の就職難世代ということもあり、就職難がその後の人生に大きく影を落とすであろうことは容易に想像がつく。そうした意味からも、やはり他人事ではなく、こうしたコメントの一つ一つを興味深く眺める中でふと感じた事がある。

 

彼ら・彼女らの意見は、過去の政権批判、また現在の政権に対する批判がメイントピックになるわけだが、そうした多くの当事者が発するコメントを読んでいても、こうした意見発信や「いいね」によるリアクション数が、特定の政党に対する支持基盤にはなりえないのだろうな、という印象を受ける。

 

かつて2000年代後半、Facebookが全盛であったころ、アメリカの大統領選においてオバマ当選にネット世論が影響を及ぼしたり、あるいは中東においてSNSでの民衆の高まりがアラブの春を引き起こしたり。ネットが社会のうねりを生み出した事例が世界各地で起こった。そうしたケースから、こと日本においてもネットにおける意見が民意形成のひとつとして重要な位置づけとなることが想定されたが、結局、局部的に影響が垣間見えただけに留まる。これまで企業団体、労組や宗教団体といったいわゆる中間団体が担っていた意見集約といった民主主義主体としての役割を、ネットは果たせないでいる。

 

ヤフコメでも実際、就職氷河期という話題に対して現状のツラさや、政府批判的な意見が多く集まっているにもかかわらず、民意形成の地盤になり得ないというのは、なんだかもったいない。まして、それぞれの境遇にはお互い共感が集まっているにも関わらずだ。

 

では、こうした意見が本当にひとつの社会的な力になりうるのはどのタイミングなのか、といえば、やはり人が直接会う時なのだろうと思う。試しに、こうした氷河期世代の自助・共助グループを検索してみると、チラホラはヒットするが、あまり数はない。そして地場で小さく行っている事例ばかりだ。もちろん、そうした地場の繋がりは重要だが、こと政策にまで影響を及ぼせるような何か当事者団体があるのかと言えば、決してそうではないというのが現状なのだろう。

 

そもそも、ヤフコメ民も自覚してはいるのだろうが、ネットで何を言った所で世の中はまるで変わらない。それがどれだけバズろうが、だ。実際にバズった事がある人なら分かるだろうが、バズりそのものに意味はない。インプレッションが増え、収入に繋がる人は別だが、数日間、暇なネット民のおもちゃになり、そして忘れられていくだけである。

 

やはり何かを変える、自分自身の思いの丈を事に起こす為には人と会わねばならないのだと思う。それはとても面倒で、リスクがある。自分の時間を使う事にもなるし、その出会いが良いものなのか保証してくれるものはない。それでも、誰かと会って思いを共有することでしか、何かを動かすことは出来ない。

 

やけに政治的な物言いだと思われるかもしれないが、ここで言いたいのはもっと初歩的な事だ。同じような境遇の人とは、会って話した方がいい。それだけである。愚痴でも良い、世間の恨みつらみでもいい。それを直接話が出来る人をお互いに探す、という点こそが大きな分岐のスタート地点になる。

 

インターネットはお手軽に自分の意見を投稿できるし、それに対する共感も可視化される素晴らしいツールだ。ただ、結局それだけなのだ。ちょっとでも現実を変えなければならない場合には、人と会う、その機会を作るコストを払わなければならない。当事者なのに、延々他人事のようなコメントばかりを吐き出す沼に陥ってしまう。なんなら、氷河期世代の問題を問わず、ネットで意見を漏らすことによってもったいない溜飲の下げ方をしている人がかなり多いのではないか。

 

徒党を組む、というと何か卑怯な事をしているように見えるが、今困っている人全般に必要なことは、この徒党を組むことではないかと思う。ネットというツールが出来て、人は繋がりやすくなったが、逆に徒党を組むことは難しくなった。ネットを通じて誰かを見る時、それはとても独りよがりな行為になる。だからなんでも言えてしまう。意味のない意見ばかりが飛び交う結果となる。

 

その目的を、もっと直接のコミュニケーションに向けた方が建設的なのではないだろうか。何かおせっかいのようだけれども、あれだけのエネルギーと人生に対する姿勢があるのに、正直それが政治的に反映されないのは非常にもったいない。自分の人生を肯定するためにも、人は匿名でない人間と話をすべきだし、多少のコストを払っても直接面と向かいあうべきなのだろうと、最近よく思うので書き連ねてしまった次第。

 

何かそこに救いがあるとしたら、やはり連帯なのだと思う。詰まらない結論だけれども、徒党を組むという事をバカにしてはいけないと感じた日でした。