わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

ブリジット議論から「多様」という在り方に再び思った事

こういう話題が出るってのも時代なんでしょうね。

 

 

なんかすげー、一気に涼しくなった。

 

どうせまた残暑がぶり返すだろう」などと言ってるうち、普通に寝冷えして風邪を引きそうである。涼しいというか、これを書いている9月21日の朝は普通に寒い。

 

ここ数日、台風による低気圧にも見舞われ、気候弱者にとっては、実に厳しい日々を過ごしているわけだが、一週間は淡々と回ってくるので、今日もまた淡々と更新である。

 

 

ちょっと前にネットで話題になった話でも簡単にしてみたい。個人的に格ゲー好きなので、それに近い話が盛り上がってくれるのは個人的に嬉しいことなのだけれど、ここ数週間での盛り上がりはゲームそのもののとは多少性質を異にしたものだった。

 

それは『ギルティギア』の最新作シリーズ『STRIVE』にプレイアブルキャラとして00年代男の娘ブームの先駆(諸説あり)として知られるあのブリジットが数作ぶりに登場した事を端に発する。EVOでこの件が発表されて以降、国内外からの反響は大きく、解禁後にはプレイ人口が一気に増えたとのこと。そのキャラ人気は今も尚健在である事を世に知らしめた。

 

と、そんなことに関連してどうやらそのブリジットの性自認について一部国外のネットで話題になったようである。そもそも主語は「he」なのか「she」なのか。そんな素朴なやりとりから、無視できる規模の討論を超え、ついには公式アークシステムワークスから「性自認は女性」という見解が提出されたという顛末。

 

多様性を謳う社会であるはずの欧米から始まったとされるこの応酬を眺め、頭が痛くなった我が国古来からの男の娘ファンの諸兄は多かったのではないだろうか。

 

やはり主語を始め、何なら人名の前にも「男性」「女性」をいちいち文法上定めないといけない言語を使っていると、何が侮蔑的で、何が名誉なのかという感覚も日本語のそれとは異なってくるものだろう。

 

他方、別の国の言語では名詞にすら「男性名詞」や「女性名詞」というカテゴライズがある通り、男女に対する機微というものは、思いの外同じ人類であっても、文化圏によって共通項にしづらいデリケートな話題だったりする。

 

と、そんなブリジットちゃんの性自認炎上問題を眺める中、果たして「多様である」事とは一体どのような事かを問いかけられたようにも思えた次第。とまぁ、そんな事があったもんだから、この前も少し書いたのだけれど、改めて多様性という言葉について再び書き残しておきたくなったわけである。

 

その記事でも触れたけれど、多様性というものは主体的な発想ではない。自らの権利主張を行うにはあまり親和性がない思想である。というのは前回行った主張。一応リンク貼っておくね。

wagahaji.hatenablog.com

 

そもそも、昨今でよく言われる性的マイノリティ、いわゆるLGBTQ諸々についても、本来ならば「カテゴライズおよび団結すら不要」というのが目指すべき状態ではないだろうか。

 

そうしたカテゴライズや組織化が為されることによって、昨今は「時代が進んでいる」「仲間がいる」と前向きに捉えられる節が強い。勿論中世だったり、宗教的な教義一辺倒な時代よりは先に進んでいるのだろうけれど、実際にはそれも次のステップに進むための準備段階である事をより意識すべきではないかと思うことも多々ある。

 

実際、マイノリティが単独でいることのデメリットは、マジョリティにどうしたって多数決で勝てないからである。多数決による決め事では負けてしまう。ていうか、マイノリティという言葉の定義上、少数派が多数決で勝つこと自体不可能なわけだけれども、そうした方々が何か社会的に不便な事があって、それを覆すのであれば、一定数でも同様の人間がいるということの証明を行う必要がある。

 

つまり連帯と団結はあくまでも手段である。そこが目指すべきものでは決してなく、その先にある自然体として、個が個として受け入れられる状態こそが実態として目指されるべきゴールだろう。

 

ただ、どうしたって人間は変にドラマ化したがるところがある。目的よりもそのスタイルに重きを置く。その類のドキュメンタリーを見てもマイノリティの生き方が受け入れられるか否かという葛藤や、古い考え方との衝突、そして和合を経て大団円に至るという「和解」の姿を描きがちだったりする。

 

多様性という綺麗なお題目を強調しようとすると、そこに「異文化間対話」や「相互理解」を欲しがってしまう心理がある。マイノリティの苦悩の共感だったり、仲間の存在というエモさや美しさをストーリーとして、無意識下で欲しがってしまう傾向がある。

 

ここから透けて見えるのは、人は何かフレームワークを踏まえなければ物事を考えられないという悪癖だ。組織や属性、男女に国籍や宗教。自分自身が属する立場から相手を許容するのか、あるいは拒絶するのか。そうした二律的な物事の捉え方が、多様性をただの権利的お気持ち闘争に下げてしまう要因にも思う。

 

改めて、多様性という言葉が、究極的に指し示すものは、社会性を排除し、目の前の一人や出来事をどう見て、どう考えるのかというひたすらにシンプルな態度のことだ。

 

冒頭に挙げた話で言えば、純粋に目の前のブリジットちゃんを愛せるか否かという話である。彼が男だから、女だから、男の娘だから、という事でもなく、各種設定などから垣間見える生き方やセリフのひとつひとつを踏まえ、個として好きかどうか。愛せるかどうか。このナチュラルな姿勢こそが多様性本来のスタンスであろう。

 

加えて、身も蓋もない話をすれば、真に多様な社会というのは特段大きなカミングアウトも要らず、マイノリティであることの心的ハードルも低いという状態。もし何か当人に纏わる属性を知ったところで「へーそうなんだ」で終わらせられるそのような在り方ではないだろうか。

 

一見、エモさもなく、冷淡に見える「無関心」な場所こそが多様性の行きつく先だ。そこには軽蔑や卑下は勿論のこと、反対に優しさも気遣いも必要ない。マイノリティがいない世界というのは、同時にマジョリティも存在しない世界である。帰属意識が曖昧で、どうでもいい、という在り方。これが良くも悪くも多様性の極地と思う。

 

それは最早境界が存在しない『イマジン』の世界観であることは承知しているけれども、観念としては意識すべき場所ではないだろうか。どうしたって今、「多様」という言葉が権利闘争や、共感の奪い合いに使われやすい言葉であり、現にブリジットというキャラクターの性自認を通じて、主義主張がぶつかり合い、このようにネットは燃えてしまったわけである。

 

誰も気にかけない、それこそ真空のような場所こそが、多様性が最も根付く場所である。この基本的な発想こそ、改めて認識すべきものだと思うし、実現可能かどうかは別としても、エモさ優先、共感優先の価値観によって「多様性」の妙な濫用を防ぎ、不要な分断を防ぐ、という意味では持っていていいアイデアではないだろうか、と感じた次第。

 

 

なんか前回とあまり変わり映えのない話になってしまったけれど、やはり個人的には気にかかるキーワードのようでつらつらと今週も書いてしまいました。某国ではないけれど、本当、不要な争いというものは出来るだけ排していきたいものですね。多様性って概念は、そのヒントになる言葉だと思っています。

 

何はともあれ、こう一気に涼しくなる時には、体調崩しやすいのでご自愛くださいませ。

 

小説を書ききってみて感じた事について

今日はシンプルに、やっぱ自分で体験してみないと分からないものってあるもんだよな、という話。

 

そういえば昨年夏、1年くらいかけて小説を書きあげた。その勢いで1件、賞レースにも投げてみたけれど結局のところ、箸にも棒にもという具合だったので、もう1年経った先日。やっと、気持ち的にも整理がついたのでネットに上げてみた。

kakuyomu.jp

 

昔から絵やら音楽など、創作全般に手を付けた欲張りな性なもので、やはり小説も一度書いてみたいと思っていた。10代の頃から何度か過去に手をつけたことはあったものの、やはり書ききることは出来なかった。

 

そんなこんなで、30代に入ってから「この10年のうちで一作くらいは書ききろうか。」と思っていたので、昨年本腰を入れて書いてみたら、ついつい15万文字も書いてしまった。

 

完成出来てしまったはいいものの自分でも扱いに困り、一度賞レースにでも投げてみるかと、夏休みの宿題のような感覚で新人賞に提出。まぁ上記の通りの結果に終わり、加えて燃え尽き症候群のような状況も相まって、1年の間、自分で書いた作品を触れたくもなくなってしまっていた。

 

そうこうしていると、世の中宗教二世の問題だったり、家族の話題だったり、そんな時事が周囲を騒がせる中で、自分が書いた小説もそれに近いジャンルだったため、1年経って読み返してみたら、身勝手なもんで「案外悪くないじゃん」と思えたわけで。これだけの文字数をただ放置しているのももったいないので、今回カクヨムにアカウントを作り、アップしてみたという次第。

 

こういうネット小説ってのは、読んでもらえれば確かに嬉しいのだろうけれど、同人誌と違って、実売がコスト回収に直結するわけでもなく、広く宣伝してみたところで、長すぎて読むこと自体人に勧めづらい。そもそも、最早客観視出来る代物でもなくなり、話として面白いのかどうかも分からない。つくづく、自分で作った小説や物語というモノは扱いに困るもんである。

 

以下、物語本筋の話というより、物語を作ること自体を通して得た実感を簡単に書いてみたい。

 

 

端的に言えば、小説というものは絵や音楽以上に難しい創作だと感じた。やはり一番のハードルは完成というゴールが遠い事だろう。そりゃ本数を書く中で掴めるコツやプロットの技術はあるのだろうけれど、あまり自我にテーマ性が近寄ってくると、最早話として面白いかどうかが判断つかなくなってくる。そういう意味でも、最初は短い話を書くべきだったのかもしれない。

 

ただ15万文字にも及ぶ物語を書く中で、オタクとしては通過出来てよかった経験だと思った。面白い物語を作る事に対するリスペクトは、以前と段違いに上がった気がする。オタクをやっていると、こういうブログやら知人との会話で、アニメや映画などの物語を批評する機会というのは否応なしに生じてくる。

 

そんな折、安易に「もっとこうすれば面白いのに」などと言えなくなったのは間違いない。1年間、淡々と小説を書き続けてみて、都度自分の書いているモノを読み返してみても、そもそも「面白い」って何なんだ、という沼に幾度となくハマった。今回、書ききるというチャレンジの中で一番意識したのは「面白いかどうかの判断を捨てる」という事だった。プロット時点で「面白そう」であれば、後は面白いかどうかは気にしない。でなければ、書ききることなど出来なかったし、こんなコンセプトを掲げてしまったからこそ、話が膨大な量に膨らんでしまったのだと、少し反省している。

 

多分プロやら本職の方は、上記のような全体の構成におけるバランス感覚や、どうすれば自分の頭の中にある「面白さ」を引き出すことが出来るのか、ある程度型に落とし込む術を知っているのだろう。起承転結を把握し、全体の長さを踏まえ、自分の作家性をどう表出するのか、恐らくそうした一連のプロットが形作られているような気がする。あくまで素人の妄想だけれど。

 

しかも、恐ろしい事に、話を作ることには面白いかどうかという内省だけが敵ではない。小説には単純に面白さを求めない「純文学」なるジャンルもある。だから、面白さなど気にせず、思うように書けばいいのだ。貴方のアートをさらけ出せばいいのだ。みたいな主張もまかり通る。詰まるところ、バーリトゥードなのだ。

 

長期間、ストーリーを練るという行為は、面白さの基準を失い、そもそも面白いものを生み出す意味も曖昧になるような危険と隣り合わせなのである。本当に最初の時点で自分が何をしたいのか、ゴール地点を明確に定めなければ確実に迷子、ひいては遭難し、テキストファイルは雪山の中に取り残された凍死体の如く、二度と日の目を見ない存在になり果てる。実際、そういうファイルはいくつかある。

 

一本書ききってみて。そういう恐怖感を味わうと、心から日々大量のアニメが制作され、ゲームが開発され、そして小説が刊行されていること自体がある種奇跡のようにも感じられる。例外なく荒行のような道程を経て、それらが世に出ている事を思うとひとつひとつの物語というモノをより大切に扱うべきなんだとなと実感したという話。

 

 

と、こううだうだと書いてみて「小説なんて懲り懲りです」で終わらせればいいものを、また凝りもせず、別件で話を少しずつ組み上げようとしている。やはり創作はトライアンドエラー。何度かやってみないと分からないもんだよな、と頭の片隅が主張してきているので付き合うことにしている。

 

正直言えば、文章を書くこと自体、このブログを続けている通り、嫌いではないのだと思う。懇々と、作りたいモノを作ってみるというプロセスは人生において貴重な時間をごっそりと奪うけれども、そんな時間をとれない程、お前は貴重な人生を送っているのかと問われれば、すぐには解答も用意できず。

 

しばらくは絵を描いたり、冬コミの同人誌作ったり、はたまた別途文章を書いてみたりしながら2022年の間はやっていく予定ですので、引き続きよろしくお願いいたします。気が向いたら、冒頭URLから小説も覗いてみてね。まぁ無理はしないでね。ということで今週はこの辺で。

 

そろそろ冬コミの企画を考えなければという話

C101受かれば、ちゃんと作る予定です。


何回経験しても、何故か失念してしまうという事がある。休日出かける際にカバンを変えた結果、平日、財布を家に置き忘れる。漫画の単行本を何巻まで買ったのか思い出せず、棚に同じ巻が2冊ある。ブログ更新をすべき日に酒を飲んでしまう。大江戸線に乗り換える時、結局どちらに乗ればいいのか分からず慌てて逆方面に乗る・・・

 

そして同様に。夏のコミケは8月。そして、冬のコミケは12月。そう書けば分かるのに「コミケは1年を等分している」と勝手に勘違いして、9~10月にかけて思いっきり油断していたら、当落が発表されたりする。

 

そんな危険信号に対して、今年は何とか気づく事が出来たため、タイトルの通り早々に動き出している。例年、コミケに出す同人誌に関する情報は、万が一落とすリスクもある為、ほとんど完成か、入稿の目途が立ってから宣伝も兼ねてブログに書くことにしている。ただ、今回に関しては、情報を公募するという手段を初めて取ってみたわけで。

 

その手前、すこし早い気もするけれど、冬コミの企画についてここで書き殴ってしまい、自分の逃げ場をなくした方がいいのではという思いもあり、このような記事を書き出してしまったという具合だ。

 

加えて、既に情報を集めている現時点で僕自身が既に楽しくなってしまっている。

 

なんならこの集まった情報を眺めながら、酒を飲むだけでもいいんじゃねえかと思えてきている。まぁ、そんなこと言っているとせっかく情報提供頂いた方から誹謗中傷が届きかねないので、冬コミはどのような本にしていくのか、ちょっと現時点での投票頂いた内容を覗きながら、短く企画を紹介してみたい。

 

 

 

ということで、冒頭にサークルカット画像を掲げた通り。「貴方の性癖を歪ませた漫画」を特集した漫画評論本を作成する予定である。王道からニッチ作品まで「この漫画のせいでちょっと人とは違ったこだわりを持ってしまった」という経験だったり「どうも自分はストーリーの本筋とは違う楽しみ方をしているのではないか」と内省した事はないだろうか。

 

実際、僕自身もそのような経験があったし、なんならオタク同士の飲み会なんかでもたまに同様の話題で盛り上がった覚えがあって、冬コミはこのテーマで同人誌を作ってみる事に決めた訳である。

 

やはり自分だけの経験をもとに書いても、視点が狭まってしまうため、今回は公募という形で現在下記URLから誰でもフォームに記入できるようにしてみた。

 

是非お暇な方は、ご協力して頂きたい。フォーム内の自由記述文が全て掲載されるとは限らないけれども、作品については全て掲載する予定。幅広い観点からのご意見お待ちしています。

docs.google.com

 

ていうか、この募集を開始したのが一昨日。そして、現時点で既に50件を超える投稿を頂いている。本当にありがたい、というかやっぱみんな読んできた漫画に対して一物抱えてるのね…と、オタクは哀しい生き物だと再確認してしまった次第。

 

そして、今回の企画を立ち上げてよかったと思ってしまうほどに、既にその内容が面白いのである。男女も、性癖ジャンルも問わずというレギュレーションにしたおかげなのか、誰もが知る王道作品から、古典的名作、あるいはその人しか知らないようなニッチな作品と、非常にバリエーションに富んでいる。

 

勿論、作品が被っている人もいるのだけれど、またそれぞれに異なる観点から性癖に異常を来しており興味深い。本が出来ていないうちからこんな事を言うのも怖いのだけれど、この本、出来上がった暁には、仲間内とワーワー盛り上がる意味合いでも結構おススメである。

 

 

と、今日の記事では、詳細の記載はネタバレになるので避けておくけれど、今のところ最も得票を得ている作品を2つほどピックアップしてしまおうと思う。

 

その一つ目は『名探偵コナン』である。週刊少年サンデーに連載されており、毎年GWには映画化され、大ヒットする国民的アニメの筆頭作品である。個人的には意外なチョイスと感じたものの、やはり多くの人の目に触れているという事もあって、影響を与える母数が多い事は想像がつく。そして、サスペンス要素と少年少女。確かに意識をせずに見ていたら、あんな部分、こんな部分がやけに気になってしまったという点もあるのだろう。

 

そして、二つ目は『カードキャプターさくら』である。こちらについては「なかよし」に90年代に連載され、未だにファンを多く持つCLAMP作の傑作魔法少女作品。真っ当に見れば、真っ当なのだけれど、やはりオタクというのは作品内での様々な関係性が気になってしまう質で。年齢差、同性への恋慕、などなど多くの可能性に満ちた作品であるところは既に多くの読者の知るところであろう。

 

それぞれ異なる『コナン』『さくら』との向き合い方はやはり本になってから紹介してみたい。いや、本当に漫画の読み方って人それぞれなんだなと改めて実感している。

 

とまぁ、そんな有名作から「そんな漫画あったんだ」という作品まで。今回そうした作品群を眺めながら感じた事としては「沼というものは、沼にハマってから沼だと気づく。」という事だろうか。まさかそんな大衆作品が人の性癖を狂わすなんて、と思うかもしれないが、きっと人にはそれぞれの琴線やスイッチがあって、どういう作品やきっかけでそれが「オン」になるかは当人さえも分からない。

 

振り返ってみれば、あの作品が僕にとって、私にとっての「沼」だったりするわけだが、そんな各人の沼について語りあう事は多分、皆さまにとっても楽しい時間になるのでは、という思いでこれから大晦日に向けて本づくりを開始していきたいと思います。当落はこれからなのでそもそも受かるかどうか、という話はあるけれども、まだしばらくは上記フォームで「フェチ漫(仮)」に関する情報を募集していますので、何卒良しなに。

 

今日は短いですが、こんなところで。引き続きよろしくお願いいたします。

 

 

普段と違う街でグダグダになるほど飲んだことについて

久々のゴールデン街、楽しかった。


先週日曜日。何年かぶりに「何でそんな飲んでしまったんだろう」というレベルの深酒をした。後悔はしているが、反省はあまりしていない。

 

普段の日曜であれば、僕は比較的保守的な人間なので、飲みに行ったとしても早々に家に帰る。真っ当な社会人生活を営み10年超、ましてや嫁も家に居ることを考えれば、月曜日からの出社に備え、早々に就寝準備を行う事こそ、日曜夜の最適解だと容易に理解できる。

 

まぁ、理解はしてても、人間はそれ以上に愚かだったりするんだよ。

 

この日は何だか楽しくなってしまったのだと思う。ずっと無駄にヘラヘラしていた記憶が強い。あまり記憶にないが、写真に撮ってもらった僕はやけにいい笑顔だった。

 

結果、帰路の電車では、途中の駅で下車し、トイレにしばらく籠る。帰ってからは、気持ち悪くてベッドの上で寝ていられず、妻の冷たい視線に見守られ、リビングの床で就寝。当然のごとく、月曜朝にまで響いてしまい「もう二度と酒なんて飲まない」というバカ酒飲みあるある感情に襲われた次第。

 

今回あまりオチも主張もない。数年ぶりにそこまで飲んでしまったほど楽しかったということで、せっかくだしそんな日の事をツラツラ書いていこうと思う。

 

 

普段僕は、山手線の極東、神田・秋葉原・上野辺りを拠点に飲み食いをしている。そうすると、中々新宿ゴールデン街なぞ行く機会はない。先週末はふと知人から「納涼祭やってるよ」と誘われて、なんのこっちゃ分からんけれども、1~2杯くらい飲むつもりで足を運んでみたわけである。

 

ゴールデン街で飲むこと自体、久々というレベルを通り越していた。もう7~8年は足を運んでいないように記憶している。楽しい街なのは分かるのだけれど、こんな人見知り野郎が一人でフラッと覗けるような場所ではない。

 

実際、僕も過去に何度かゴールデン街で飲むことに憧れた時期があり、ソロチャレンジしようとしたわけだが、結局どの店の前でもドアを開けるのが怖くなって、入ることなく横丁を何度かスルー。そこから踵を返し、新宿三丁目辺りのタイ料理屋に収まるというクソほど情けないムーブを3回はやった。

 

そんなこともあって、ゴールデン街自体が紹介制の飲み場という印象も強く、お高く留まった印象すらあった。そんな中、久々に開催されたという「納涼感謝祭」では、多くの店が協賛しており、スタンプラリー形式になっている。つまり、最初からフラっと入っては500円で1杯飲んで、スタンプ押してもらって帰るのもOKという、ある種、それぞれお店のお試しが出来るというテイストが強い。

 

そもそも、30代も半ばに差し掛かってくると、新宿という土地以前に、普段生息している秋葉原や上野においても、新しい店にまず行かなくなってくる。馴染みの店があるのだから、そちらに顔を出した方が自分も安心するし、行きつけの店の為にもなる。リスクとリターンを考えると、ついつい「いつもの店」に行ってしまう。

 

そんな安定を求める気持ちというのは、酒を飲んでいるうちに忘れてくるから不思議である。知人に唆され、おススメのお店をいくつか回ってみると、思った以上に楽しむことが出来た。勿論、いくつか店を回っている時点で、アルコールも相当量回っており、最早、敷居に対する不安など感じられる状態でなかったという話もある。

 

それでも、あの狭い区画の中で、豊かなバリエーションの飲み屋が密集しているという事実はやはり圧倒的である。サブカル、下ネタ、昭和テイストにと、数店回っただけでも、非常に居心地のいい店と出会えたりして、自分がいかに出不精になっていたかという事を再度実感させられた。また、ゴールデン街から少し場所を変え、もう数店素敵なお店を紹介してもらい、気づけばその日だけで7件のはしご。

 

まぁ、そりゃあ冒頭で書いた通り酩酊するわ。それでも、やはり普段と違う街だからなのか、知人と別れるまでは比較的シャキッとしていた記憶はある。ただ、別れた瞬間にはもうボロボロだったから、なんだかんだでアウェーの飲み場に気を張っていたのかもしれない。営業時代、客先との飲み会で無理をした後のようだなと、思い出しついでに少しほろ苦く感じたのは、多分普通にこみ上げた胃酸のせいだと思う。

 

コロナ禍があり、なかなか慣れない街で飲む機会も少なくなった。人によっては「そもそも飲みに行くなんて」という人もいるのだろうが、まぁ、飲み屋というものは往々にして行き場のない人が行くものであって、そんな行き場すら失うと、僕みたいな人間は結構本気でやってられなくなってしまう。人間強度が露骨に下がる。

 

そして、たまには違う街で飲むのも改めていいなと思った。当然の事ながら、店も客もそこに居る人の空気が違う。たかが狭い東京の中、更には山手線の東西の違いじゃねえか、と思われるだろうが、新宿を拠点にする人はそういう事情があって、秋葉原に居座る人はそういう性質がある。それぞれ固定の場で飲むことに、何か問題があるわけでもないのだが、たまに遠征でもして、そうした違いを味わうと、それはそれで酒が進む材料になる。

 

僕は相当人見知りするくせに、根本的に人が好きなので、店主と客の話を聴いているだけでも良い。酔っていれば、そこに応酬をしてみたりもする。すると会話が弾んだりして、どこの誰だか知らない相手と一瞬だけでも意気投合したりする。その感覚というのは、そういう雑多な飲み屋ならではだろう。ましてや、馴染みのない土地であれば発見も多い。そんな空気に乗せられて、ついつい吐くほど飲み過ぎた、というのが日曜の顛末。ダメだねほんと。

 

 

折角今回、納涼祭というお試しイベントを経験し、ゴールデン街にいよいよソロでデビュー出来るのでは。という期待感を自分に持ってみたものの、多分無理。だってイベントの日に来たくらいで、再度顔出したって言われてもな…みたいな反応されたら傷心で死んでしまう。

 

と言いつつも、出来る限りまた行ってみたいなとか思ってます。誰か連れてって。ということで、今日で8月も終わり。今回本当にネタがなかったので、諸々ネットに纏わる事でも書こうと思ったらまた極めて根暗な話になるので、敢えて夏の良い思い出を残してみました。

 

たまにはそういう日があってもいいと思います。今日はそんなところで。

 

 

トークバラエティから「知らない」と言えるようになった話。

ようやくコミケも済み、先週はおたっきぃ佐々木さんとのトークイベントも無事に終わり。総じて、遊びに来てくださった方、お世話になった方は本当にありがとうございました。

 

先週記事の通り、引き続き新刊の通販やらA-buttonさん、大怪獣サロンさんでの委託販売は継続していますので、こちらは何卒よしなに。トークイベントも継続されそうなので、また告知致します。

wagahaji.hatenablog.com

 

それにしても、イベントが開催される前後というのはブログが書きやすい。だって、話題が常にあるから。しかし、そんな「ハレ」の日は過ぎ去るもので、人は否応なしに日常に帰っていく。週1度の更新。余り気張らずにふと感じた根暗な独り言を漏らしていく。

 

 

過去を振り返ると。これまでに作った同人誌はほとんどが対談によって構成されてきた。にも関わらず、普段から僕と交流がある人は分かると思うが、あまりコミュ強という性格でもなく、特に知らん人と話す時にはめっちゃ物怖じする。Twitterのスペースとか、複数人いて、知らん人が入ってくる場所でよう喋れんなと思う。

 

この夏コミでも。知り合い(と呼んでいいのかも一度躊躇う)のサークルへ挨拶に行くのに、絶対数回はその前を通り過ぎる。本人か分からないし、そうだと確信しても、なんて話かけるべきかで迷う。結果、3~4回スペース前を通過してから、ようやく声をかけてみたら「…何度か通過してましたね」なんて言われ、赤面する。人間は怖い。

 

こんなのが、過去対談企画を続けてきたのだ。ハッキリ言えば、元来の根暗な性格面を、上っ面なスキルで何とかやり過ごしていた、という事だと思う。そのスキルについて、余り自分自身で考えた事がなかったけれど、対談ベースの同人誌シリーズもひと段落したところで、僕のコミュニケーションについての考えを簡単に文として残してみようという試み。

 

なんだなんだ偉そうに講師面してコミュ力ハウツーでも書くんか?お前も評論島で情報商材を売るんか?など色々と厳しい指摘が(脳内で)聞こえてくるものの、一旦無視をさせて頂きそんな話題について語ってみようと思う。

 

 

「コミュニケーションは場数だ。」これは大学時代、就職活動に取り組んだ時期、大学のキャリアセンターで死ぬほど刷り込まれた言葉である。

 

文系大学生にとって、就職試験は実質コミュ力試験と言っても過言でない。そして、僕はそこで一度爆死した。「面接はとにかく数だ。」そう言われ、素直に信じた僕は、大学4年生の頃、面接で都度撃沈を繰り返し留年。不安神経症も再発し、まぁボロボロだった。

 

しかしながら、ひとつ気づけたこともあった。学生同士が数人のグループを組まされ、特定の話題に沿って議論するグループディスカッションという選考。僕はこれを得意と豪語してもよかったと思う。就職留年したので、2年間合計100近くの会社を受けた中、一度も苦に思ったことがなく、現にその段階で落ちた事もなかった。

 

比較的浅い選考タイミングで行われるということもあったけれど、働き出して10年ほど。こういうフラットな場の話し合いというのは、比較的問題なくこなせていると思う。

 

では、面接とディスカッションはなにが違うのだろうか。面接とは端的に言えば、自分の事を話し、相手に理解して頂かなければならない儀式だ。自分自身を「ロクな人間でない」と思っている状態で、そんな自己をさも上質な商品のように相手に提示しオススメするわけである。

 

僕みたいな元々自分に自信がない人間がこれをやるとなると、マルチ商法を自覚しながら、胡散臭い商品を相手に押し付けている気分になる。無論、そんなメンタリティで受かるはずがなく、延々そんな面接を繰り返す中で当人の精神性は崩壊する。

 

それに対して、グループディスカッションは、自分が客観の立場に立てば良い。加えて、ロールプレイで構わない。自分という商品を無理に介在させる必要性もない。ていうか正直な話、一般的話題を扱うディスカッションなど、テレビで見るトークバラエティで見たまんまを再現出来れば上出来なのだ。

 

僕自身、そうしたバラエティ番組を見るのが好きだったので、小さな頃から集団コミュニケーションの教科書代わりにしていた側面がある。その中で、僕が未だに最も参考にしているのは「アメトーーク!」の蛍原さんの振舞いではないかと感じる。

 

なんならあの番組は、回にもよるが好きな漫画や家電といった同好の芸人をカテゴライズ化し、わいのわいのと盛り上がりつつ、対象のプレゼンを挟んだりするという構成であり、オタクの飲み会に近い。その中で蛍原さんは、どちらかと言えば「そこに与しない視聴者」側として、一言挟むというMCの立場である。

 

当然、実際のオタク飲み会の場面を想定すれば、楽しむうえでその場に出てくる話題を知っている事に越したことはない。ただ、参加者の年齢にバラつきがあったり、専門的な知識を持つオタクばかりが集まれば、当然のことながら自分の知らない話題も沢山出てくる。

 

更に言えば、オタクという人種は「知らない」という事を悔しいと感じがちな人種で、尚且つ、情報量を抱え過ぎた結果話が下手になったりする。知ったかぶりをしてでも、こいつに負けたくないと思う反面、加えて相手の話の骨を折ってしまうという恐怖が二重に重なり、会話が悪循環に陥る事もある。

 

そんな中で「アメトーーク!」で蛍原さんが、周囲から沸いて出てくるマニアックな話題に平然と「いやぁ、知らんわぁ」「へー、そうなんやぁ」とただ素朴に返すのを見て、当時中高生だった僕は小さな衝撃を受けたのを覚えている。それでいて場の空気が死んでいない。「あぁ、知らないって言っていいのか」。これは会話における発見だった。僕も徐々に無理をする事を辞め「それ知らなかったわ」と素直に伝える術を身に着けた。

 

すると寧ろ相手は、こちらが即座に共感出来なくとも「知識を共有したい」という意思があるのだから、こちらがその知識を得る姿勢さえ身につけておけば自然と話題は弾む。僕はきっとディスカッションにしろ、対談企画の場にしても「アメトーーク!」「さんま御殿」「いいとも!」などで見て学んだ「ただ聴くことの豊かさ」を、単になぞっているだけな気もする。

 

勿論、対談前には相手の事は学ぶし準備は出来る限りした。だけれどぶっちゃけた話、聴く方が自分が喋るよりも楽しいのが本音だし、これはあくまでも僕の気質の話である。

 

ただ、最近。この「知らない」事を素直に受け入れる姿勢が重要だと特に感じてしまう。家電だったり特定の漫画でなくとも、何かにとことん詳しくなって、饒舌にプレゼンするだけがコミュニケーションではない。ネット上では「論破」や「言葉の強さ」がコミュニケーション能力を決めるかのように見えやすい。反論に次ぐ反論の勝者にこそコミュ強だと。ただ、その反論による殴り合いにコミュニケーションとしての価値はあるんだろうか、とも思う。

 

コミュニケーションは、本来受け手が居て初めて成立する。決してそれは「打ち合い」ではなく「受ける」という行為が要る。相手が受けるからこそ、人は安心して話してくれる。そこにコミュニケーションが生じる。

 

僕はこれまでに書いてきた通り、自分事や何か対象を主体的に話す事が苦手だ。この文字もゆっくりと練りながら、消しては書き足しを繰り返している。恐らく反論の余地はいくらでもある。隙だらけの文章だと思う。それでも誰かしらが、静かに受けてくれるのでは。という仄かな期待から文字を残すことが出来ている。

 

日々、Twitterで殴り合いみたいな会話を眺めていると、自分の言葉を吐き出す事すら難しいと感じてしまう今日この頃。ネット上では「民放のトークバラエティなんてバカらしい」と一蹴されるかもしれないけれど、丁寧にエピソードを引き出す小さなリアクションの一つ一つにこそ、今バラエティを見るべき価値があるんじゃないか、と思った独り言でした。

 

自分のコミュニケーション能力分析というアレな話から始まり、案の定、暗い話になってしまいましたが、何とか更新出来たという事でまぁいいか。今日もお疲れ様でした。

 

 

 

コミケが終わって、コミケが始まる。(告知と内省)

ということで、夏コミお疲れ様でした。来て頂いた方は本当にこのような時勢の中ありがとうございます。御礼ついでにいくつか告知。新刊については、下記の通りBOOTH通販してますので何卒よしなに。

 

加えて、今回もご厚意に甘えて行きつけ飲み屋委託させて頂いております。

秋葉原では「Game Bar A-button」さん。

twitter.com

中野では「大怪獣サロン」さん。

twitter.com

それぞれ、ちょっと癖のある飲み屋さんですが新刊並びに既刊も置いていただいておりますので(大怪獣サロンさんへは明日持参する予定)是非、お近くの方は遊びに行ってみてください!

 

また少し趣向が変わりますが、今週19日(金)先月に引き続いておたっきぃ佐々木さんとのトークイベント開催いたします。

まぁ普通に飲み会ですね。ここでも、夏コミ新刊は持参するかと思いますので、お暇な方は遊びに来てね!

 

と、柄にもなく告知を終えた所で、今日は2週続けて、コミケに纏わる湿っぽい話。まあ、このブログでは余り需要など考えずに、独り言を巻き散らかす場所だという事で、多少我慢頂けると幸いです。今週でコミケ進行も終わるから許してね。

 

 

8/13(土)14(日)の2日間に渡り開催された夏のコミケ、とうとうC100が終わってしまった。コロナ渦中の熱狂を振り返りつつ、しぶしぶと現実の生活に戻り、雑然と仕事に向かう。

 

仕事に全く集中できないお盆明けの平日。そんな中僕はと言えば、自分自身に対して完全に呆れていた。こんなはずではない。いつからこのような人間になってしまったのだろうか。何度、自分を叱責したところで、この思考はもはや変わりそうにない。そんな葛藤の一片をここに書き残してみたい。

 

既にこのブログでも感慨を漏らしていた通り、今回は記念すべき100回目のコミケ。他の人にとってもそうであるように、僕も今までのコミケと多少異なる気持ちで臨んだイベントだった。

 

ハッキリと言ってしまえば、僕はこの夏コミが終わったら、完全に同人活動も、コミケ参加も終わりにしようと思っていた。地球は平面であり、その端には滝があると頑なに信じていたあの頃の人たちみたいに、昔からなんとなく「C100の先はない」と、そう信じ込んでいたのだと思う。

 

10数年前ほどだろうか。同世代の友人らと、早朝の東ホール駐車場に並びながら交わした会話が頭を過る。「俺らいつまでコミケに参加してるんだろうな」「さぁ、C100くらいじゃない?」「その時には、俺ら30半ばか。」「そこまで参加したくはないかも」「確かにな」

 

その会話の通り、大方参加していた10人前後のメンバーは絞られていき、結局今の今まで飽きずに有明に集ってしまっているのは、僕含めた2〜3人ほど。

 

何も根拠はない話なのだけれども、10代からコミケに参加して。なんとなくC100を迎えるタイミングというのは「自分自身が大人にならなければならない時」なのだろうと、そう思っていたのだ。年齢の節目とかでなく、僕はそこをひとつの「大人としての区切り」と捉えていた。

 

そして2019年冬。10年近く続けていた同人雑誌シリーズが最終号を迎え、この先どうしようか。なんて考えていたところ、コロナ禍があり、2年に渡ってコミックマーケット自体が開催されなくなってしまった。不謹慎ながら、僕は丁度良かったと思っていた。もうサークル参加する意欲もあまり湧かなくなっていたし、引き際を探っていたのが本音。

 

加えて結婚だったり、仕事も安定してきて、僕もいい大人になったのだから、もう余計な振る舞いは終わらせよう。スクール水着も着なくなって久しい中、この10年以上名乗っている「すくみづ」なんていう馬鹿げたHNにも別れを告げるべきとも思っていたし、そもそも何者でもない人間の創作活動など若さ故の特権じゃないか。と感じるようにもなっていた。

 

せっかくの余暇。仕事でもないのに締め切りに焦り、入稿出来たと思えば、必死にTwitterやウェブ上で事前告知。一つの拡散やリアクションに一喜一憂するのも、いわゆる世間様で言う「大人らしい」態度ではない。

 

だから、この夏コミが最後。C100を迎えたら、僕は大人になって、一区切り付ける。その思いで総集編を作り、在庫も残さない程度の部数に設定。大方、想定通りの頒布実績。あとは周辺に手売りやら、協力頂ける方々に委託をお願いし、全てキレイになったらおしまい。同人誌という趣味も他の趣味同様に楽しかった。それで終わり。

 

以上がちょっと前、具体的には先月終わりくらいまでの思考。

 

それがどうだろうか。まさに今僕は仕事に集中もせず、冬コミの企画に頭を悩ませている。C101の参加申請と白紙のサークルカットを前に、またこの冬コミで一体何を作るべきかで、思考回路が忙しく動く。アホじゃないのか。つい先日まで抱いていたあの感慨は何だったのだ。完全に辞める辞める詐欺じゃねえか。そんな自分をいくら罵倒してみても、バカな下ネタ評論企画ばかりが浮かぶ。こんなん呆れる他ないだろう。

 

自分の中の背反する感情に戸惑う中、ぼんやりとこめかみ辺りから声が聞こえる。「聞きなさい、理性よ」脳内の感情を司っていそうな箇所がまるで歌劇のようなテンションで反駁してくる。多分、病気なのだろう。諦めて耳を傾けてみる。

 

「自分で分からないのであればハッキリ言ってやろう。お前、夏コミがすげえ楽しかったんだろ?自分含め、むしろそれ以上にバカな人間どもが、好き勝手本やらゲーム、音楽、衣装を作り、互いの脳内を曝け出す奇祭が、それに参加することが、久々にクソほど楽しいものだと改めて実感したんじゃねえの。約3年ぶりのコミケに、ただただ興奮を覚えたんだろ、違うか?」

 

思った以上に、ぐうの音も出なかった。

 

感染拡大傾向にあったり、台風が直撃したりと情勢を見れば完全にアゲインストな状況下であったことは確かだった。本当に人が集まるものなのか、そもそも自分自身が参加していいのかという葛藤は先週ここでも書いた通り。

 

それでも、やはり多くの人が集まった。参加者1日8万人辺りだったらしい。全盛からすれば半分前後なのだから盛り上がりに欠けるのかもしれないが、そもそも2年半ぶりにあそこまで多くの人を見た。そして、その中には顔を長いこと見られなかった人も多くいた。まず純粋にそのことが嬉しかった。

加えて、こんなご時世にも関わらず、あれだけの人がバカみたいにモノを作っているという事実に震えた。何年もコミケに通い、既に当たり前になっていた光景も、3年の時を経て再度確かめると全く違うモノに映った。なんだ、俺もまだバカでいいんじゃん。肩から力が抜けた気がした。

 

同人作家にもっとも必要なモノは、狂気だと言う発言をよく見る。それはその通りだと思う。上で掲げた通り、冷静になれば同人活動などコスト過剰の趣味だ。コミケにサークル参加したものの全く売れなかったnoteがバズっていた通り、リターンもどれだけあるか分からないのに、自分の趣味趣向だけで投資をし、殆どの人が赤字に終わる。本当に狂っているとしかいいようがない。

 

でも、狂っていることが許される場所こそがコミケだ。理屈や理性、損得から勘案すれば生まれ得ないモノばかりが並ぶ場所。コスパも悪い、阿保らしい趣味だからこそとことん没頭できる、そんな可能性を久々に身体で実感してしまったというのが今回の敗因。最初から負け戦の感も否めない。

 

面白さってのは、そういう理性でコントロール出来ない所に生じる何かであって、やはりあの場所はそういうモノの吹き溜まりなのだ。そういう場には、まさかと思うような出会いがあるし、何か作らねばと思わせてくれる。正直言って、大人になれない痛々しい人らの集まりではある。でも、痛々しい、恥を晒すことでしか生じ得ないものもある。

 

野放図に、なんでも勢いで出来た頃から歳をとり、少しずつ、そういうバカらしさを敢えて取り込むタイミングに差し掛かっているのかもしれない。ふと、そんな事を教わった今回のコミケ

 

入場だとか規制に関して、ネットを見れば様々な反省点やら課題なんかは山積しているんだろうけれど、コミケってのは有志の祭りだ。純粋にあの場を保ち、開催まで漕ぎ着けてくれた方々には感謝の念しか沸かない。終わるつもりが、こうしてまた何か作るモノを探しているというのも、次のコミケを開催してくれるという同志がいるからに他ならない。そこに関しては、ただただ頭が上がらない思いである。

 

なんだか結局長くなってしまったけれど、C100本当にお疲れさまでした。今回参加出来なかった方々も含めて、次回の冬ではお会いできることを祈って。

ほろ酔いながらコミケ直前にして思う事。

久々の逆三角ですわー。


いよいよ8/13~14の2日間にわたり、コミックマーケット100が開催となる。先日ここで告知をした通り僕自身もサークル参加をする。参加される方は何卒よしなに。

wagahaji.hatenablog.com

 

ということで、ちょっとコミケというイベントに関する感傷的な話でも残しておこうと思う。独りよがりな述懐になる気がする。

 

 

思えば、僕がコミケに初めて参加したのは2005年のC69。以降16年に渡り、盆暮れは凝りもせず有明に集い、コロナ禍で中止になるまでは毎度参加。かつて、そんな奇行を訝しげに見ていた親もいつしか諦め、年に2回。もはや僕に欠かすことの出来ないライフワークとして、家族やら周囲も認知するようになってしまっていた。

 

過去数回家から近いからと親が僕のサークルを覗きに来たこともあった。まぁ、親があんな場所にいるというのは決していい気持ちではない。評論島を探して、特殊性癖島に迷い込んだ両親を慰めるなど「気まずい」という言葉の更に上を行く感情も味わった。

 

と、そんなコミケに纏わる思い出を振り返っていると、その中でひとつ鮮明に思い出す事がある。それは僕の祖母の命日だ。

 

祖母が亡くなったのは、ちょうど12年前。それはコミケ会期中の8月14日だった。僕は「祖母が倒れた」という知らせを、大手のエロ同人サークル列に並んでいる時に聞いた。両手にはアレな同人誌がたくさん詰まったエロゲメーカーのショッパーを抱え、他のオタク同様タオルを首に巻き「ファッションセンスなど犬に食わせろ」とばかりの、とても実用的な出で立ちで戦場に立っていた。友人の分含めて何部買えばいいのか、限定がかかっていないかなど検討しつつ、頭の中で計算している時、親からの電話が鳴った。正直、色々最悪のタイミングだった。

 

買い物を頼まれていた友人に急いでその旨説明をしてから、ビッグサイトを離脱。空気にそぐわなすぎる手荷物を抱え、汗だくのまま親族の集まる地元の病院に馳せ参じる。当然の事ながら両親含め親族もそろっており、漢字は書けないけれど「顰蹙」という2文字がありありと目の前に映し出されているような気がした。

 

病院にたどり着いて数時間後、祖母は我々の願いもあえなく、そのまま他界してしまった。生前、とても良くしてもらっていたので、非常に悲しかったのと同時に、両手に持ったショッパーが、コミケ会場でのそれよりずっしりと重く感じられたのを覚えている。一体自分は何をしているのだろう。という自責の思いが頭を占めていた。

 

そして、最悪な事にその翌日が僕にとって、初めてのサークル参加の日だった。初めてのオフセット印刷を行い、釣り銭を準備して、意気揚々といざ戦場へという最中の出来事。正直、不謹慎と感じて参加を取り止めようかとは思ったが、式が翌々日になり、せっかく印刷してしまった同人誌も勿体ないということで、何とも言えない後ろめたさを感じながら、親にも背中を押してもらい何とか参加に漕ぎつけた。

 

未だに思い出しても、ほろ苦いサークル初参加の思い出である。

 

そんな記憶を過らせながら、今年というより、今。久々の夏コミ参加を前にして、当時と似たような後ろめたさを感じている。当然の事ながら、新型コロナの感染状況だ。他人事と思っていたのも束の間、いよいよ感染の脅威は職場、家族、友人と周辺に迫り、聴けば実家の父も罹患し、なんなら結構危なかったらしい。そんな情勢下、感染のリスクを背負ってまで参加するべきイベントなのだろうか。どうしたって、そういう感情が拭いきれる気がしない。

 

僕がこの記事を書きながら、ぼんやりと祖母の命日を思いだしてしまったのは、どのような理由であれ、コミケ参加に対する「後ろめたさ」を久々に感じてしまったからに他ならない。

 

それにしても不思議なものである。これが仕事であればいくらか割り切れる。現に、こんな感染状況下、日々半ばあきらめながら出社を強いられている。当然、出社しなければ回らない仕事は存在するし、何より給与を得るというお題目があるからこそ、後ろめたさを振り切れる。程度はあれど「仕事だからしょうがないじゃないか。」と言いながら、色々な事を呑み込めたりする。

 

翻って、コミケというイベント自体を顧みるとどうだろうか。勿論、多くの人にとって大切なイベントであるし、この催しが生きがいになっている人もいる。しかしながら、詰まるところ個人の趣味の域を出るものではない。なんなら、冷静に考えてみればコミケなど実利を考えれば「意味のなさの塊」のようなイベントではないだろうか。昨今では経済効果等も大きく、一概にそう言えなくなってきているけれど、元を辿れば、ただの「オタクのオタクによるオタクの為の壮大な自己満足」イベントである。

 

だからこそ、このような情勢下。参加してもいいもんなのか。大人の判断をするならば見送るべきではないだろうか、と悩んだりしている。現時点でも明確な答えは持ち合わせていない。特に昨今は時代の価値観が進み、様々な環境や情勢の中、僕らはこうした「意味のなさ」に対して、徐々に冷静な判断が出来るようになっている。あの頃、あれだけ重要と思われていた根性論や精神論も、一種の「意味がないもの」として仕分けられ、捨ててもいいという風土が徐々に出来つつある。

 

この時代「意味のない」ものは本来なくなりやすい。もっと優先すべき実利がある。守るべき社会的資本がある。個人的な意思がある。元号も令和に代わり、そういう価値観が一般的になってきている。

 

しかしながら。今回コミケに参加する事の「後ろめたさ」の理由を考えながら、反対に気づかされたのは「無意味なものの価値」だ。我々は、仕事でもなく、稼ぎを得る為でもない。何なら社会的な意義でもなく、得られるべき成果も明確に見えないイベントを長年にわたり、ここまで大事にしてきた。コミケに集うオタクらはこの「意味のなさの塊」のようなイベントを無駄ではないと信じている。

 

ハッキリと言えば、このタイミングでコミケを開催すること、参加する事はリスクでしかない。欠席は勇断であるという言葉もその通りだ。正しい判断だと思う。しかしながら、この実利面では意味のないように思われるコミケというイベントを開催する為に、余りにも多くの人間が、多方面に渡る努力を行ってきているわけで。そうした意味で、改めてこのイベントの価値を感じてしまった、というのが今回の趣旨。出席するしないの問題でなく、コミケという場の稀有さに改めて気づかされた思いである。

 

好きなモノを愛好し、その愛を表現する為に。あるいは、自分の信念を叩きつける為に、コミックマーケットという場が存在する。とことん馬鹿らしく、とことんシンプルである。経済効果など知るものか、と言わんばかりのDIY精神こそ、やはりこの場には相応しい。コロナ禍という逆風吹き荒れる中、参加せずとも、こうした「意味のない集い」に真剣になる。そういう精神性にこそ、僕は心からのリスペクトを抱いているのだと感じてしまった。

 

加えて、「後ろめたさ」を感じている要因はこうした世相の情勢だけでなく、自分の年齢も含めたものだ。いつまでこんな事をしているのだろう。近年そんな問いが延々、自分の後頭部に突き刺さっている。

 

だけれども、やはりこのコミケという場所はおっさんの弱い心に打克って、この先も残されるべきものだと思う。何かを作ろうという意思は、どう足掻いても青臭いものになる。痛々しいものにも思える。結局無駄に終わることもある。それでも、何かを好きという意思が本質にあって、ここまで大きな規模になったイベントはなかなか他にない。数値で測れない、無意味な価値を育んでくれる場所を、やはり我々は大切にすべきなのだと、逆説的に思ってしまったという話。

 

今回、参加すべきか否か、どちらも正しい判断ではあるけれど、このイベント自体はやはり、オタク自身が意思を持って継続していかねばならないものだと、なんだかそう思った次第だ。

 

ということで、軽く酔いながらも書き連ねてみたが、やはり感情の押し付けになってしまった模様ですみません。加えて、どうやら13日(土)は台風直撃の可能性…実際、ビッグサイトにたどり着くにも大きなハードルがありそうだけれど、それはそれ。今は自分の出来る範囲で準備やら、告知やら、行っていこうと思います。

 

体調には気を付けて、楽しめる範囲でコミケを楽しみましょう。

『バス江』に感じた「ふざける」ことの本懐

いや、面白いね。バス江。


こう週1回、ここに何かしらを書き続けようと思い立って早2ヶ月が経ったらしい。我ながら、継続できている事自体は偉いと思う。

 

ただ、いつもの悪い癖で「気軽に続けたい」とか言いながら、気づくとすぐ硬めの論調だったり、無駄にエモを狙った書き方をし始める。すぐ人の目が気になりだして、安易に評価を求めたがる。自分の論調や思考に自信のない証拠である。とか、内省を始めれば2秒でオーバーキル自傷ワードで頭が満たされるため、こういう時、思考は止めるに限る。

 

コミケの原稿も終わり、なんなら完成した新刊が家に届いた。あとは当日の感染対策および灼熱地獄を耐えるだけとなったので、本ブログコンセプトを軌道修正する意味も込め、今日は適当な事を漏らすことにしたい。

 

 

今更だけど『スナックバス江』が面白い。好き。

 

前々から気になってはいたものの、手を出すまでには及ばなかった。ただ最近周辺で2〜3人から「お前は読んだ方がいい」「あの精神性に、お前はマッチしている」「バス江に向いている性格だ」などと言われ「多分、disられてんだろうな」と感じながら、薦められたものは仕方ないので、ようやく電子版をポチポチして、読み始めたら堕ちてしまった。実際、向いているらしい。

 

知っている人は流してもらいたいが、場末のスナックを舞台にしたヤングジャンプ連載のギャグ漫画だ。基本的にはママとチーママの明美、および客が織りなすオムニバスギャグという感じ。読んでみると、気楽に読める割に、扱っているネタが結構今の世の中の空気感を的確に抉っていて、笑うだけで済まされない感情が胸に残ったりもする。

 

特に昨今のネット文化には敏感で、普段僕らが「これ言ったら、きっと怒られんだろうな」とSNSで飲み込む言葉も、容赦なくボケに昇華され、バッサリとキレの良いツッコみにより成仏してしまう。こうした小気味の良い応酬は読んでいて清々しさすら覚える。とまぁ、ギャグマンガを事細かに解説することほど詰まらない事はないので、機会があったら黙って読んでみて欲しい。

 

と、この漫画を読んでいてふと感じたことは、そもそも最近こう「ふざける」という事自体の重要度が増していないか。と思ってしまったのである。先に述べた通り、強めなモノ言いをするもんだから『バス江』はバズリやすい。コマの切り抜き画像が挙げられ、拡散しもはやネットミーム化している。要するに「ギャグマンガという前提じゃねえとこんなストレートにモノ言えねえよ」という民意の裏返しにも思える。あまり言ってはいけない「ふざけたい」という願望が、この漫画の人気を支えているようにも感じる今日この頃。

 

また、ギャグマンガという枠組みだけでなく、舞台である「場末のスナック」であるからこそ許される会話、という側面もあるだろう。僕自身も実際、スナックだとかバーだとか。そういう客や店員との区分けがラフな飲み屋で適当な事言ったり、周囲の話を聴くのが好きな質である。

 

例えば、席に付いてくれたフィリピン人ママが突然、引くくらい重たい過去を独白しては「ダメねこんな暗いハナシばっかしてちゃ」と誰に言われた訳でもなく未来を見据えたり、延々やしきたかじんを歌うオッサンにママが「あんたバリバリの東京人だろうが」と笑い、オッサンはキレ返す。なんか、こう会話に混ざらなくとも、人間って脈絡がなくていいんだと思わせてくれる。

 

特段目的もなく、適当な言葉を吐き、笑い、下らないやり取りを交わす。ネットに籠っていると味わえない空気。そういう場では、誰しも、どこかふざけている気がする。訳の分からない人間が集まり、知らない人同士会話が始まり、好き勝手言ったりする。流石にギャグマンガのようにオチはないが(『バス江』すら数回に一度オチを見いだせていない)それすらも、人の一面として受け入れてくれる場所というものは、やはり必要だと思う。

 

更に翻って考えると。「ふざける」ってのは、思った以上に簡単な行為でなかったりする。こう文章を書いていても、真面目な文章の方がスラスラ書ける。だって、ロジックに沿えばいいだけだから。淡々と順接を並べ、時に逆説を挟み、多少の抑揚を付けながら結論に向かえばそれでよい。

 

え?面白くない?当然、だって真面目に意見を書いているのだから。面白さより、正しさがそこにあるべきでしょう。ハッキリ言えば、今のネットにおける文字や言葉はこんなんばっかが目に入る。

 

それに対して「ふざける」という行為には下心がある。誰かに構ってほしい、笑ってほしい。詰まるところウケを求める行為そのものだ。そりゃウケを狙うってのは、人のリアクションありきな事だし、それを気にした時点で、考える事が増すのは当然かもしれない。だからこそ、程よくふざけるのは難しい。でも、その割「ふざける」事が蔑まれていたりする。こんな多くの社会問題、政治問題が跋扈するこの時代にバカなこと言ってんじゃない。そういう人が多いように思えてしまう。

 

ついでに言えば、真面目な方が楽なのだ。「正義を掲げて、信条に沿う」ってのは、一面勇気ある言動にも映るけれど、もう一つの側面は、ただただ楽だったりする。陰謀論やら似非科学でも何でもそうなのだけれど、人間は楽したがる生き物だから、常に疑いを持ち、思考を回しているのはツラかったりする。そういう時に頼れるものが、いわゆる「正しい思想」になってしまう、という人はよく見かける。そして真面目な人ほど、正しく、案外楽な方へと無意識に流れていく。

 

ウケ狙って、ふざけるにも体力がいる。世の中を疑って、笑うにも思考の回転がいる。一介のシュールなギャグマンガでありながら、ネット上でその言葉の暴力を存分に振るっている『バス江』は、今の時代において「ふざける」ことの重要さを、結果的に示してしまっているんじゃなかろうか。とか、

 

 

まぁ、自分で書いていても過言だと思う。それでも、色んな人の事考え、意識してバカやる事は結構大変で、皆が笑えたり、ふざけ合えたり出来る状態を作りだすってのは思った以上に大切な事ではないかと思った次第。それにしても、スナックの水割りって、家で作るのに比べてなんか旨いんだよな。『バス江』を読んでて、そんなことまで思い出してしまった日の戯言でした。

 

度々のコロナで、行けていない店も多くある。何年前かに行った湯島のパブや、錦糸町のスナックのママから延々LINEが届く。そろそろ顔を出すべきだろうか。何はともあれ、そういうグダグダした飲み屋の空気を存分に楽しみたい。夏だしね。

 

という事で今日はここら辺で。