わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

『PERFECT DAYS』感想~文脈の集合体としての幸福~

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誰に何を言われた訳でもないのだけれど、今年は月に2本くらいはブログ更新したいと思い。月2回でも話題を維持するのも大変なので、どうせ何かしらの感想になるはず。そしてそう決めてしまえば、月に数本は映画やらアニメ、マンガ、小説を読み続ける事が出来るだろうという打算もあった。そして、やはりその流れに乗っかって、今回も書いてみる事にする。

 

『PERFECT DAYS』である。カンヌ国際映画祭で最優秀主演男優賞を受賞、そしてアカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされている本作。言ってしまえば、この映画を見て感想を文字に起こすこと自体が陳腐な試みだと思う。余り長ったらしくダラダラ書くのも違うから、自分の感情を残す意味でシンプルな文章として残してみたい。



シンプルに言えば、役所広司が示す東京下町オフビート暮しの極地、とでも言えばいいだろうか。ただただ流れる日々、そこに挟まれる小さな非日常。家族や親族から離れ、都内のトイレ清掃を生業にして墨田区で一人暮らす初老男性の生活がループ形式で描かれている。

 

同じ主題が繰り返される中、さながら『8番出口』のように毎日少しずつ異変が挟まれ、ささやかな緊張と緩和の中に幸福を見いだす。映画の最後、恐らくヴィム・ヴェンダース監督が象徴的に「木漏れ日」という言葉を、この映画と重ねていた。確かに俯瞰してしまえば、全て同じに見える対象も、つぶさに見つめれば、日々異なる、それぞれの色や形が現れる。そうした揺らぎに焦点を当てたのが本作の趣旨と言える。

 

ここまで簡単に要約を書いたが、文字で何かを言おうとすればするほど、映画表現そのものの奥行きを感じてしまい、この感想自体の意味を見失う。これを読みながら「へえ」と言っている人は早いところ、見てほしい。

 

ただ、ぶっちゃけてしまえば、面白いかと言われればそんな事はない。よく言われるような快楽の元になるようなシズル感だったり、話としてのわかり易いツカミも、大きな問題の解消もなく、淡々と役所広司演じる「平山」が冒頭書いた通りの日々を繰り返すだけ。

 

一般的に物語は、何らかの葛藤と克服、行為と反省といった、直線的な時系列を前提にしている。そこには原因と結果があり、その整合性や納得感、緻密な伏線の回収などに対して視聴者は「面白い」などと満足を得るわけだが、本作はやはりそういう話でもない。

 

そもそも描いているのが「生活」なのだから当然なのかもしれない。だって、生活自体に意味はない。自分の日々に照らし合わせて見れば分かる通り、山もなく、谷もなく、終わる1日の方が遥かに多い。

 

しかし、そんなつまらない生活には、その人のバックボーンが少しずつ染み出している。ちょっとした他者への感情、夜寝る前に読む本や、通勤時に聴く音楽。その一つ一つ、生活を裏で支えている感受性、それまでどう生きてきたのかという過程がまざまざと小さな所作に顕れる。その細部に現れた所作を緻密に観察することで得られる喜びがあったりする。

 

その上で我々は想像出来る。淡々とした彼の仕事と生活の日々から、彼がどのような生い立ちを歩み、そして何を諦め、捨て、その代わりに今の生活を手に入れたのか。そこに及んだ選択と納得、そして後悔。決して直接的に語られず、表だって見えるものでなく、その底流を流れる文脈を感じ取る。

 

人が真に幸福や、生の実感を感じるのは、自分が歩んできた文脈に沿ったものと出会った時だ。何かに感情を動かされる時、それはそれまで生きてきた時間全てと眼前の事象が相対している。2時間と少し、平山の数日間から、個人的にはそこにあらゆる人生の美しい追体験を見たような心地すらする。



何なら、この表層には顕れないモノを見つめるという映画の構造自体、個人的には非常に今っぽい作品であるとも感じた。昨今、どんどんと、表面的なものに意味がなくなってきているように思う。言葉は正しいか否かを判断するものでなく、何を信じるかを示す指標になっている。

 

コンプライアンスや人権に沿った表現が自明の理となり、表層の意味を言葉の意味として、文字通り捉えてはいけないという感覚もある。芸術においてもAIの登場により、目に見えるものこそ全てになった今、その意味合いや動機が眼前には見えにくくなっている。

 

一様にそれが悪いとも言えない。それらはただ、時代の変遷であり、技術が存在するのであれば、それは実現してしまう。世の中で正しい事が定められたのならば、それに従わなければならない。それによって救われるものも多い。

 

でも、だからこそ、おそらく今。動機や文脈、なぜそれに至ったのか、それを察し、向き合うという事が、翻って重要さを増しているように思う。

 

表出される文字や絵についてもそうであるように。我々の人生そのものが、外面として何をしたのか以上に、どう生きたのかという点に集約される。ここまで書いてみたが、やはり陳腐な結論だと思う。この映画もそういう意味では陳腐な作品だと感じる。

 

それでも、言葉が氾濫し、何なら人間が自分で考えて言葉を紡ぐことにすら重要な意味がなくなってきた昨今だからこそ、この底流に流れる言葉を発する根源、生活を形作る文脈をよくよく見つめる必要がある。いや、そこにしか幸福という概念はないのだと感じる。この映画は、そんな今の時代だからこそ、刺さるモノがあったのだと感じる。

 

SNSを眺めても、絵は絵として、文字は文字として機能を果たしているようで、ただ、本当の役割や文脈を示す存在にはなり得ない。そして、先にも書いた通り、ふとした幸福や生きることの実感は、その底流にこそある。日頃、表層を流れる情報に浸かり過ぎて忘れがちになっていた暗渠の存在を、役所広司の演技によって思い起こされた心地。

 

久々にいい映画に出会ったなと思ったので、以上簡単ながら感想文でした。また引き続き、何かしら感想文やら雑感でも書ければと思います。

 

 

『16bit センセーション ANOTHER LAYER』熱量と未来、虚無と願いの話

C103が終わり、新年を迎えた。スペースに来て頂いた方はありがとうございました。新刊についてBOOTHでの販売を始めたので、コミケ参加出来なかった方はぜひ覗いてみて下さい。女装子マンガを読んで感想を書いた新刊売ってます。

 

sukumidu.booth.pm

 

それにしても、大きな地震があったり、航空機事故火災があったりと、年始2日目にしてもう気が滅入って仕方がない。改めて心から皆様の安心と安全をここで祈りたい。

 

 

何をしても不謹慎に感じるそんな中、新年早々溜まっていたアニメを消化する事で心の平静を保っていたのだけれど、ようやく『16bit センセーション ANOTHER LAYER』を見る事が出来たので、その話でも。

テレビアニメ『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』公式サイト

 

いや、ぶっ飛んでいるなと思った。本当にぶっ飛んでいる。

 

個人的な感想を先に言ってしまえば、緻密なタイムリープというより『バックトゥザフューチャー』をオタク文化という土壌で「雑に」やった感じ。なので、細かい考証とか置いておいて「歴史改ざん?!ヤッベーどうしよう!!」みたいなテンションで最後まで眺めると、多分余計なフラストレーションが少なくて済む。なんなら、小ネタは悉くおっさん向けだし、若い子が楽しんで観るには多少ハードルが高い気もする。

 

ただ、この作品が根底でやろうとしているのは、物語の緻密さなんかでなく、単純に熱量と未来の話だったと思う。あの時秋葉原の片隅で「何か面白いモノをつくってやろう」と息巻いた彼ら彼女らの気概が、今、この美少女文化を作った。あの頃では想像も出来ない未来を、ゲームは、クリエイターは作り出せる。そして、今後も。そんな前向きなメッセージだったように思う。年始に見るには元気が出る作品だったので是非紹介したい。

 

 

・簡単なあらすじ

以下概要。本作の元ネタは2016年の冬コミC91にて、90年代以降ギャルゲ、エロゲ開発に一線で携わってきたみつみ美里氏、甘露樹氏のエピソードをもとに、若木民喜氏が漫画として描いた同人作品だ。物語というよりも、記録マンガという性質が強く、時代と共に進むPCの進化、伴う開発環境の変遷、そして一気に盛り上がるエロゲ制作現場とそれに沸く90年代秋葉原の様子を、半ば資料的に楽しんで読むことが出来る。

 

そして、その作品をアニメ化するに辺り、単純なドキュメンタリーに留まらず物語化させたのが今作『16bitセンセーションANOTHER LAYER』である。

 

簡単なあらすじだけ記しておく。見た人はスルーで。

 

主人公・秋里コノハは美少女ゲームが大好きで、秋葉原美少女ゲーム制作会社にイラストレーターとして勤めていた。ただ、サブ絵師に留まり、日々モブ男性や背景を描く日々。企画も通せず悶々とした毎日を過ごす中、ふと秋葉原に見慣れないエロゲ屋を見つける。ワゴンセールの棚には『同級生』『Cannon』『こみっくパーティ』といった往年のエロゲが100円で投げ売りされていた。

 

店主らしいおばあさんに、その価格が安すぎること、またそれらゲームがいかに名作であるかを語ったのち、その店を去ったのだが、翌日その店を訪れるともぬけの殻に。そこに、投げ売りされていたえエロゲ作品の数々が手紙と共に残され、コノハに譲る旨書かれていた。

 

ふと、コノハはその中から『同級生』のパッケージを開くと、そのゲームが発売された1992年の秋葉原にタイムスリップ。そのタイムスリップした先で出会った美少女ゲーム製作会社「アルコールソフト」の面々と、ゲーム作りに勤しむこととなり…という感じ。

 

あらすじ終えた所で、少しずつネタバレも混ざってくるし、全部説明するのも無理なので、ここからは基本的に見た人向けに書いていく。読むかどうかは自己判断で。

 

 

タイムリープモノとしての「出来の悪さ」

序盤から中盤は、上記タイムスリップを経て、2023年現在の知識と技術を持っているコノハが、当時の作業環境(PC98でのグラフィック着色作業など)に苦戦する姿がコミカルに描かれる。そうした様子からおじさん視聴者には当時の懐かしさを、若い視聴者にはある種資料的、そして一周回って新鮮な感情を与えながら、進んでいくドタバタコメディとなっている。

 

次第に物語の本筋は、コノハの歴史改ざんと、それを修正するという所に収束する。過去に飛び、無邪気にゲーム会社を手伝う事を繰り返す中で、徐々にコノハの持っている現在の知識や情報がその時点でのゲーム開発に影響を与え、最終的に99年にアルコールソフトが開発した『ラスト・ワルツ』というタイトルの大ヒットで、秋葉原どころか、以後のオタク文化を決定的に変化させてしまう。

 

『ラスト・ワルツ』を経た2023年の秋葉原は、高級住宅街と化し、多くのオタク文化は消え去った。老舗エロゲ会社は軒並みアメリカ西海岸に移転。(ちよれんすら、LAに移転し「ろすれん」と名乗っている説明はクッソ笑った)直接的な原因は分からないが、常磐新線プロジェクト(現・つくばエクスプレス)は頓挫し、スカイツリーは押上に立たず「電波塔」として秋葉原に誘致されている。

 

コノハはこの事態の重さに心を痛め、再度『ラスト・ワルツ』の後、秋葉原美少女ゲームが残るよう意図したゲーム作品を作り、歴史の再修正を図る。最後に残った『こみっくパーティ』(99年)を開き、『ラスト・ワルツ』の直後にその作品を発表し、果たして2023年の秋葉原は…?というラストの筋書きだ。

 

 

いや待て、と。フィクションなのは百も承知なのだけれど、コノハは今現実世界で存在する数々の作品をアイデアとして持っているのだがら、完全に「競馬結果を知ってから、過去に戻って儲ける」のと一緒じゃん。冒頭挙げた『バックトゥザフューチャー』でも禁忌として描かれているじゃん、と思ってしまう。

 

なんかタイムリープと仲間との再会によって、気持ちエモくしてるけれど、普通にズルである。コノハは、そのおかげでヒット作に関わった「伝説的クリエイター」という地位を得てしまうし、葉鍵や型月、ニトロ他、多くの名作が、コノハの歴史改ざんによって、ちゃんと正史通り世に出たかどうかの記述や説明はない。

 

そういう部分を見てしまうと、非常に本作は消化不良に終わる。実際、半分現実を踏まえた上で、タイムリープをするストーリー組立は難しい。映画『イエスタデイ』のオチで主人公が全て真実を吐き、曲の権利を投げ捨てた通り「フィクションだから」と何度建前を作ったところで、舞台は実際の秋葉原だし、作中作品はまぎれもなく、俺らが遊んだゲームの数々。見る側の人間は現実の社会が頭の片隅に過ってしまう。いや、全てハッピーエンドで良かったのかもしれないが、俺らの歴史を改ざんをしておいて、コノハの一人勝ち。なんだそれ、と正直思う。

 

 

・AIを超えるものを明確に提示する意味

しかし、主軸が雑なほど、この作品が描きたいモノは「90年代エロゲクロニクルを使った緻密なタイムリープ作品」でないことは明白である。タイムリープはあくまでも、型でありフォーマットなのだ。

 

それを示す象徴的な8話『エコー』。99年の『ラスト・ワルツ』製作直後、コノハの代わりに、アルコールソフトで一緒にゲーム開発を行っていたプログラマーのマモルが『天使たちの午後』を開き、85年にタイムスリップ。そこで出会ったのは「エコーソフト」という会社でゲーム開発に勤しんでいた「エコー」という人物だった。

 

明確に言及されないが、このタイムリープ現象の原因と思われる。人智を超えた存在であり、人間の想像力が一体どういったものなのかが分からない。恐らく、どこかの世界線でコノハの作ったゲームをプレイしその熱量に驚いた彼は、彼女に美少女ゲームを作らせる為、このようなタイムリープを仕組んだ事が推測される。

 

エコーは美少女ゲーム製作を通して、人間の想像力がどんなものなのかを試していた。ただゲームを何度作っても「面白い」と感じるモノは作れない。何が足りないのかが分からずにいる。そんな中、マモルとの会話の中で、人間の想像力のヒントを得ていく。彼が暗喩するものはまぎれもなく、現在におけるAIだ。学習し、正確なモノは迅速に作れるが、どこか面白くない。

 

2024年現在時点、AI自身が学習によって生み出す生成物の「面白さ」は、どちらかと言えば人間の文脈から外れる所にある。詰まるところ勘違い、可笑しさに近い。日本語話者でない人が話す、日本語の変なイントネーションが面白い、というレベル感にまだ留まっている。ただ恐らく、以後物語の生成も緻密になるだろう。ストーリーも演出も、AIが正しく「面白い」モノを提示する事は可能と思う。

 

しかし、本作では、ゲームを本当に面白くするものとして、クリエイターの「熱量」を明確に掲げている。エコーと出会った世界線のマモルは『ラスト・ワルツ』後の2023年、実際の今よりはるかにAIが発達した社会で生きている。ゲームを作るにもAIがほとんど作ってくれる。そんな世の中で、自分の罪の重さに打ちひしがれ、自分の手でゲームを作る意味を見失うコノハに、マモルはもう一度ゲームを作れと言う。本当に面白いゲームはお前が持っている「熱量」によって作られる、と彼女に説得をする。

 

ハッキリ言えば非常に陳腐な結論だと思う。「熱量」だ。そんな定量のものでもなく、理論でもない。言ってしまえば昭和における根性論の焼き直し結論だと掃いて捨てることも出来る。今、そんなの流行らないでしょ。そう思う。でも、完全に否定は出来ずにいる。少なくとも、僕個人はそう思う。

 

オタクという人種に嫌悪のまなざしが向いていた90年代初頭。美少女キャラクターそのものが、世間から見て一種の犯罪性の象徴に近かった時代から30年余り。現在において媒体の変化はあったものの、最早美少女という存在が一般化、日常化した事は間違いない。2000年代を青春として過ごした僕自身も実感として思う。それらはもっと日陰に隠れていて、なんなら通学中、総武線の車窓から一瞬だけ見えるラジオ会館電撃大王広告を毎日見たくてドアに張り付いていたのも懐かしい。出来るだけ美少女キャラが見たかった、そんな思いが当時あった。

 

今、そんな美少女キャラクターは、世に溢れ、様々な形で受容され、数々のコンテンツとなっている。それはひとえにモノを生み出してきた人々、またその熱量に感化され、広く広めようとした人々の熱量の総和よるものなのだろう。

 

僕自身も絵を描いたり、音楽を作ったりする中で、生成AIはある種、人間の想像力を虚無に近づける存在と感じることもあった。もう、自分が駄作を作らなくていいじゃん。いちいち時間をかけるだけ時間の無駄なんだよな。そういう発想に占められがちになったのは確かだ。ただ、本作が示すのは、AIが主流になった世界であっても、創作における熱量こそ「面白さ」の源泉であると高らかに宣言しているように思える。確信であり、ある種それは願いに近い。

 

やはり不透明な時代になればなるほど、この先を灯すのは、歴史であり、先人たちの意思だったりするのかもしれない。たとえ、それがいかに前時代的なモノに見えたとしても「熱量」こそが良質な物語を生み、そして世界さえも変えてしまう。秋葉原という街の在り方も、そこに居る人の幻想がより濃く反映されるという意味で、やはりどうしたって愛着を捨てられずにいる。その時代を現に見てきた人らの言葉と、そこで紡がれた物語は、一考に値するものだと正月から感じてしまった次第。

 

色々当時について知っていたり、現場を見た人の反感とか、純粋に面白くないとかいう反応もありそうなのだけれど、恐らくこの作品は、そうした純粋な思いによって構築されている。そう感じている。

 

 

と、気づいたら少し長めの文章になってしまった。すんません。

 

なんならあまり作品レビューにもなってなかったなと反省。自分自身もいい歳になり、仕事やら創作活動やら本当にどうすんだ。と自問する日々は増えてきたのだけれど、改めてこの作品からもらった熱量を、少しでも前向きな行為に変えていけるよう、頑張ろうと思います。

 

本当に日々ツライ、信じられない事が続くけれど、いつかそれが、それぞれの人生の行く先を照らすものになる事を祈って。今年もよろしくお願いします。

 

 

当事者として『正欲』を読んで感じた救いの在り処について

今更ではあるのだけれど、朝井リョウ氏の『正欲』を読んだ。
こんなにも「自分が読むべき本と出会えた」と感じたのは久々だったと思う。以下、その感想と僕なりにどうこの作品と向き合うのかという話になるけれども、ストーリーについての露骨なネタバレはしないつもりでいる。ただ、それなりに触れてはしまうので、最終的には自己判断で。
 
 
端的にこの本のテーマを言えば、異常性癖者の生きづらさだ。生殖に向かう、正しい性欲を抱けなかった若者らの葛藤と内省、そして社会との関わり方を描いた物語。平易な作品評としてはとても面白かったけれど、僕があまりに当事者の立場だったので、世間一般の方に強く勧める立場にない、というのが先んじての結論。
 
 
加えて、おこがましいのだけれど、僕がこの10年程、同人活動でやりたかった事が、この作中でほぼ示されていると思う。というのも、僕自身。ちょっと特殊な性癖具有者の一人として、同人誌やこのブログにおいて、世間一般が規定する「正しい欲」を抱えられなかったことへの恨み節と、この生きづらさを解消していく為の言葉を吐き出し続けてきたつもりである。
 
 
そこにきて朝井リョウ氏は見事なまでに、こうした怨念じみた感情を、緻密な群像劇に仕上げてくれた。正直に言えば、そのようなテーマにおいて見事な小説を書きあげたことへ嫉妬心もある。それと共に、こうした怪作を世に出し、多くの人へ届けてくれたことに対する感謝が混在しているというのが僕が抱いた読後の素直な感情である。
 
 
内容について触れていくが、群像で描かれる登場人物の心理描写は実に巧みであり、恐らくそうした方にインタビューをしたのだろうと確信が持てるほど、リアルな内省が散りばめられていたと思う。その中で僕個人が最も共感した描写は、それぞれの人物が自分の思いをさらけ出す場面というよりも、随所で描写される、気持ちが通じない相手への諦めを表すシーンだった。
 
 
物語序盤「会話は出来ても、対話は出来ていない」というセリフがそれを端的に表している。価値観がまるで異なる相手とは、相互に対話すること自体が不能となる。理解を期待するだけ無駄。こうした感情は自分自身も幼少に強く実感したものであるし、両親や友人に対して、本心を閉ざしてきた過程そのものであると言える。
 
 
本作では、そうした「正常」と「異常」ディスコミュニケーションが主たるテーマになる。対話不可能なまでの断絶が、実は思った以上に身近に存在していること。この断絶にどう向かい合うべきなのか。当事者はどうすべきだったのか。周囲の人間はどう対応すればよかったのか。それら問いに対する具体的な処方箋は、本作において示唆はされているものの、明示されてはいない。果たして、我々はどういった角度で本作を捉えるべきなのか。僕個人の視点から、それぞれ非当事者、当事者それぞれに向けて思った事を書いてみる。
 
 
 
以下、本作をあくまで一般の価値観から眺めた方にお伝えしたいことである。
 
この作品のレビューを読んでみると「マイノリティに含まれないマイノリティの存在を知る事が出来た」「自分の理解外の存在に気付くことが出来た」というような文言が多かった。詰まるところ「共感」や「多様性」アップデートの為の道徳的フィクションとして本作を享受している方が多いように感じる。
 
 
ただ、あえて言うならば本作は単なる道徳的教材ではない。いわゆる「性的マイノリティ」になる資格のないマイノリティ達が抱く絶望感、あるいは人生への諦観は、個人的にかなり重なるところがあり、かなり実録といった印象だ。社会を風刺するフィクションでなく、ドキュメンタリーとして読んでいただきたい、ラフに言えば「いや、マジだからこれ」と思ったという話だ。
 
 
このブログの過去記事でも書いたことだが、性的異常性は、往々にして当人に性の知識が与えられる前にやってくることも多い。「性癖」と名前が付きながら、その衝動が性に纏わっていると自覚するのはもっと後だったりする
 
 
よく世間やオタクとの会話で使われる「性癖」という言葉は「性的嗜好の選択肢のうちのひとつ」という性質が強い。脚フェチだとか、固有のシチュエーションだとか、余りある選択肢のうちの好みを指し示す事がほとんどだろう。しかしながら、本作で示された通り、一部の人間にとっての「性癖」はそもそも「それでしか興奮をしない」という逃げ場のないものだ。
 
 
そして、そんな癖が根付いてしまうと、欲というより、いつか衝動に襲われる。作中にも描写された通り、中学高校において男子・女子のコミュニティで下ネタが自然と笑いのネタになるのは、各々がその欲求が共通の話題であると確認したいからだ。「これおかしいことじゃないよね」という社会での承認を経て、欲求はコントロール可能な欲求の形を保つことが出来る。
 
 
一方で、欲求を誰とも共有できず、自分の中だけで育て続けると、それは衝動になっていく。自分が異常であることを自覚すればするほどに、その衝動は強まっていく。その願望の事しか考えられない、といった時期すらある。世間一般と、全く異なる事に興奮を得てしまい、世間での「正しい欲」に添えない恐怖は、なかなか自身で体験しないと分からない。
 
 
僕個人の場合で言えば、トータルエンクロージャーと言われるような全身を包まれる事に対する異常な願望が幼少からあった。着ぐるみや全身タイツといったモノに対する衝動は、小学生低学年の頃からやはり抑える事が出来なかった。そして、中学生になり普通のAVにまるで興味が抱けず絶望するのだけれど、まさにそれは本作にもあるような社会や人間としての生活への諦観にも繋がる。
 
 
先にも書いたが『正欲』におけるキャラクターは、イフで生み出された存在ではない。そこにいる。今YouTubeを何の気なく検索しても、どこがエロいのか分からないエロ動画は数多く存在している。多様性から漏れ出た多様性は確かに存在しているのだ。それらに対して理解してくれとは言わない、無理なので。この小説を通して、そうした存在を実際のモノと認知し、社会において隣にいる存在と思っていただければそれで充分である。
 
 
 
その上で。反対に本作を僕と同じように当事者として読んだ方にもお伝えしたい事がある。
 
完全に上記と矛盾するのだが、本作はあくまでもエンタメであり、フィクションである。ということだ。フェチを抱えながら既に年も重ね、社会の中で巧みに生きている紳士淑女であれば何もいう事はないのだけれども、若い世代でこうした他との異常性に悩みながらこれを読んだ人は、そう思ってほしい。
 
 
こうした露骨な形で異常性癖の内面に深く寄り添い、また突き放した作品というのは過去あまりなかったように思う。だからこそ、読んでいて共感してしまう気持ちは強いし、自分の悩みが外部化される感動を覚えた方もいたかもしれない。それだけに、作中で描かれる一般社会との隔絶や、社会に対する絶望の描き方は鋭く刺さってしまう。
 
 
世間との隔絶を実感してしまうと、案外人間は「生きるか、死ぬか」という安易な二択を選ぼうとしたりする。本作でもそうした葛藤は描かれている通りだ。僕も経験している。ただし、実際の現実社会はそれだけでない。白か黒かで描ききれない、グレーであり他の色も沢山存在いている集合体こそが実際の社会だ。
 
 
同好の志は確実にいるし、もっと笑える、バカな話題も出てくる。それを楽しみとし、自分の異常性を糧にして創作に向かったり、前向きなエネルギーとして捉える人間も多い。作中では少し哀しい形でその末路が描かれるものの、社会と上手く折り合いを付けながら自分の衝動や異常性と向かい合っている大人たちは沢山いる。
 
 
小説は所詮小説である。全てが端的で、登場人物が歩む道筋は綺麗に舗装されてしまっている。そして人間の思考は往々にして、そうしたシンプルな回路で物事を考えやすい。だからこそ、現実では実際に会って、実際に話して、少しでも安心をしていく。心を複雑化させていく。単純ではあるけれどもこうした直接的な会話や、互助会を通して、人は自らの安定を求めるしかない。
 
 
社会的規範に反するような欲求、衝動についても同様である。創作においてそうした表現を規制するのは上記の通り逆効果である。マイノリティにもなれないマイノリティが生きるには、まず心理的安全が大前提である。どれだけ異常な欲求であろうと、それがコントロールできる欲求であることを当事者間で共有する。そうした丁寧なアプローチがあれば、現実はそこまで残酷でないものに変わっていくと思う。
 
 
 
非当事者が思うよりも、現実は悲壮かつ深刻であり、当事者が思うよりも、現実は楽観していい。『正欲』は「異常性癖」というテーマを扱って、このコントラストを巧みに示してくれている。この件に限らず、恐らく世間一般で言われる「生きづらさ」を解消する為のアイデアも、非当事者の認知、当事者のポジティブさというこの二律の狭間にあるものではないか。僕は本作から、そんな事を思ってしまった。
 
 
と、諸々まくし立ててきたが、このような小説が世に出ていたこと、しっかりと売れ、文庫化までされたこと。そして映画化も予定されているようで。
 
我々のような、少し変わった性にまつわる生き方を強いられている人間の人権ってなかなか見逃されがちなわけで。ケアしたところで社会的メリットがないから、自ら生き方を見出していくしかないんですよね。ただ、そういう人もいるんだ程度の認知が広がってくれれば、多少は呼吸のしやすい世の中になるんじゃなかろうかと一人考え事が捗ってしまった残暑の朝でした。
 
良い小説だったので、是非皆さんも読んでみて下さい。

普通に生きられないということ(コミケ雑感として)

 

今年も夏コミが終わった。

 

気づいたら、同人誌を作っては、頒布する、というルーティンも今年で15年になるらしい。自分事ながらTwitterを続けている事と同様に、ちょっと呆れてしまう。

 

当サークルは基本的に拗れた性癖をメインテーマに置きつつ、文章を主にして活動している。そもそも余り華やかなジャンルでもなく、パッと見てすぐ「ほしい」と思えるキャッチ―な本を作れる器量もない。ただただ、自分の興味関心に沿ったテーマの本を作り、イベント中に列が出来るわけでもない規模感のスペースにおいて粛々と頒布する。これを繰り返している訳である。

 

そうは言うものの毎度コミケは参加すれば楽しい時間だ。そこでしか挨拶が出来ない知人も多いし、そうした御仁と顔を合わせれば、相も変わらずにオタクでいることに安堵の念を抱く。ある程度参加年数が経つとコミケは同窓会になる、というのも頷けるというか、実際そうなっている。健康確認やコミュニティの実感を得る為に、リアルイベントは重要であるとも思う。

 

では、そこに果たして同人誌発刊なんていう過程は必要なんだろうか。単純にオフ会を開けばいいのでは?年齢を重ねるごと、そんな疑問が、徐々に自分の中で大きくなっていることに気づいてきた。

 

ハッキリ言ってしまえば、同人活動は非常にコスパの悪い趣味であると思う。得られる効用というのは、自分の頭の中が本などの現物になった瞬間や、あるいはそれを頒布出来た時くらいなものだろう。

 

そうした瞬間最大風速を除いてしまえば、日々生活があるにも関わらず、締切に追われながらイラスト・マンガ、文章を書き、コミケ参加者ならイベント当日は猛暑・極寒という厳しい環境だったりもする。更にイベント後には作ってしまった在庫に部屋が圧迫されながら、発行部数の反省を繰り返す。この趣味におけるしんどい側面はいくらでも目についてしまう。

 

加えて昨今においては、制作物をネットに開示することで、いくらでもそうした自己表現の場は作り出す事が出来る。報酬を受け取る仕組みも増えてきた。敢えて同人誌やコミケという場に拘る必要はまるでない。

 

そんな思考を抱きつつ。

 

コロナ禍を経て、コミケすら中止になる中で。僕自身の生活も少しずつ変わった。2019年を最後に同人活動を一旦休止。その後、結婚をし、家も構え、なんだかんだ年齢もいい歳になり、会社でも中堅と呼ばれる年次になった。偶然か、フェティシズム的欲求も相当に薄れてきた。ぼんやりとではあるものの、自分の人生の行く末が見通せる状況になったのは間違いない。

 

そんな中で、「あぁどうやら自分は、わざわざ自己表現なんかしなくとも普通に生きる事が出来るのでは」と感じた。それまで、自分の性癖や嗜好に悩み、世間一般とのズレを理解しようと必死に同人誌を作ってみたり、ブログで発散したり、様々な対抗措置を取ってきた。

 

でも、実際にはそうした内省は時間や年齢、立場が自動的に解決してくれて、ある程度社会のレールの上に乗れてしまえば、世間一般、同僚たちと同じように普通に生きていくことが出来る、そういう類の気づきだったと思う。

 

男子ならば誰もがどこかで抱いてしまう「俺は他のヤツらとは違うんだ」というイキりなど、早々に捨てた方がいい。小中学生ならまだしも、なまじ大人にもなって、そんなメンタリティのヤツは痛いだけ。芯になるアイデンティティもないから、自分を保つために他者との違いをピックアップして、そこに安住するしかなくなる。そんな自意識はサブイことこの上ない。迎合出来るのであればいいじゃないか。

 

そう考えていたのだけれど。

 

コロナとも徐々に付き合い方が分かってきた2022年夏。久々のコミケはナンバリングが「C100」ということで、今回だけの記念、という事で総集本を作った。「もうこれ以上は」そう思いつつ、やはりその次も、その次も、サークル申し込みを行っている自分がいる。正直ネタは尽きている。企画など、その時の思いつきに等しい。でも本を出したい、という妄執はどこからか沸いてくる。

 

更に元来抱いてしまったフェティシズムも弱まりはすれど、決して治らないものである、という事が徐々に分かってきた。まるで通常の行為に興味が沸くことはなく、他の各種性癖がそうであるように、一度抱いてしまった特殊性癖が正常に戻ってくれることなど、やはりないのだと実感として知った。

 

いくら迎合しようとしても、社会の中で、本を毎度自費出版している人間などどう足掻いてもマジョリティな筈はない。また、結婚をすれば子供の予定やらを尋ねられ、その都度、微妙な気持ちになりながら返答する。日々仕事をしても空転しているような心地が続き、そこが自分の居場所とも思えない。一度「正常になれるのでは」と期待してみたものの、拗らせでもなんでもなく、あぁ、自分は本当にただ静かにズレているのだと最近ようやく理解した。

 

反面、そう自覚してから。何だか、コミケやら同人イベントがとても暖かな場所に思えたのだった。訳の分からない妄執を抱いて、自分の本に意味があると信じ込んで、季節の度に苦しい思いをしながら本を作るなんて異常者に溢れている事が、ある種の救いに思えたのは間違いない。当然に作られている本の趣向や、ジャンルについて差異はあれども、発刊をするに至る物語が各作家ごと、随所に存在している。それだけで、マジョリティにすんなり迎合することが出来ない自身を、少し肯定された気がしたのは確かだった。

 

過去にもこの手の文章は書いてきた気がする。同人活動を続ける、コミケに参加する意義について似たような文章を書いた覚えがある。ただ、歳をとる中で。どうしたって、自分には無理な生き方や、逆によくわからないけれど捨てられない義務感のようなものが徐々に先鋭化してくるようで。そうしたものを社会一般に照らし合わせ、修正しようとしても、恐らく難しいという事が分かってきた。

 

その時に、自分本来のスタンスを受け入れてくれる土壌がある、というのはありがたいことだと思う。わざわざ面倒な同人活動なんかせず、粛々と日々の幸せを受け入れる。これが出来たら、どれだけ良かったことか。そう思いながら、また冬コミの申し込みを成立させてしまった。やはり、何かしらの形で脳内にある企画を表出したい。意欲がなくなったとしても、どこかで燻っている。もう、そういう性なのだと思う事にした。

 

世の中から見て、痛々しくとも、どこかには受け入れてくれる場所がある。なんとなく、コミケの後、ふと部屋の片隅に残っている本の在庫を眺めながら感じ入ってしまいこんな文章を書きだしてしまった。特段、僕自身の内省的ぼやきなので、主張もクソもないのだけれど、コミケという場所に対して感じる感謝の念を、根暗な発想ベースで改めて文章化してみた次第。

 

とりあえず夏の新刊やら既刊は残っており、BOOTHにて通販もしているので何卒宜しくお願い致します。

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明日からの仕事再開に今一つ現実感を感じないのだけれど、やはり働かなくては。そんなお盆休み、最後の夜でした。

 

 

【C102告知!】2日目東へ08-b「わがはじ!」頒布誌紹介

日々、うだるような暑さが続く。夏バテとかそういうレベルでなく、ただただしんどい。こう暑くては仕事に対するやる気も出ない。正直、仕事のやる気に関してはオールシーズン出ない。

 

そんな酷暑日が続く中ではあるが、やはり今年のお盆も有明には多くのオタクが集まるという。8月12日(土)13日(日)の2日間にわたって、夏のコミックマーケット、C102が開催となる予定だ。かく言う自分も参加予定。

 

もう夏コミ直前ではあるのだけれど、宣伝記事などを書こうと思う。


思い返せば、前回の冬コミはコロナ罹患により欠席してしまい。東京都からの支援物資と頒布できなかった新刊在庫に囲まれ、Twitter(当時)を指咥えつつ眺めては、延々と流されるテレ東の『孤独のグルメ』ばかりを見ていた年末。

 

今回はその際に出そうと思っていた新刊を、ゴリ押しで新刊扱いするので実質なんと新刊は2冊である。すごい。それに加えて委託頒布1冊となるので、以下の通り紹介していきたい。


⓵(準)新刊『フェチ漫!~貴方の性癖をねじ曲げたマンガ~』 A5判型 ¥1,000

2022年12月の冬コミにて新刊の予定だった本書。

 

コンセプトとしては副題の通り、「貴方が過去に読んで、性癖をねじ曲げられた作品を教えて!」というもの。Twitter(当時)上でアンケートを行い、皆様様より100作品以上提案を頂いた中で、一般向け漫画に絞って67作品をチョイス。

 

猛者(オタク)どもの個人的な熱量こもった思い出文と共に挙げられた、67作品すべてに目を通し、そのポイントについてレビューを行った。改めてご協力頂いた方々、本当にありがとうございました。そしてその余りの熱量に多少しんどくなりながらも、耐えきって本を作った自分も偉い。

 

読み進めるうち「ああ、俺もそうだった!」という共感を抱ける箇所もあれば、中には「なんでこの作品?」というタイトルも。一人過去の思い出と照らし合わせてほくそ笑みながら読んでも良し、友人知人らと「いや自分の場合は」と語り合うきっかけにしても良し。酒の肴として適切な本が出来たと自負しておりますので、是非お手にとってみてください。


既にBOOTHでも購入出来ますので「コミケなんか行けるか!」という方はそちらからもよろしくどうぞ。

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目次欄サンプルは以下の通り。

 

 

②新刊『わがはじ!~sexual collection~』 A5判型 ¥1,000


正真正銘この夏の新刊。とは言っても、このブログの再録がベースなのでほぼほぼネットで読めます。先に謝ります、すみません。ちなみに9本がブログ再録、1本が書下ろしという構成になってます。でも纏める事に意味があると思ったんですはい。

 

詰まるところ根暗オタクの性癖エッセイなのは、どう足掻いたところで否定しようがないけれど、10年以上続いてしまったこのブログから「性癖」「フェチ」「女装」といったテーマを抽出して選りすぐって本にしてみると、思った以上に今っぽい話も随所に見られる気がする。LGBT議論から、女装趣味者の捉え方、2018年にレインボーパレードに参加する為訪れた台湾の風土なんかも一部で触れていたり。

 

あくまでも一人の特殊性癖こじらせオタクの自己分析かつ当事者研究といった文章の羅列ではあるものの、同様にニッチな性癖に悩んだり、世の中の異常と正常の狭間で生きづらさを抱えている人なんかに届けば幸いと思う。やはり、世間一般と異なる性嗜好を抱くと生きづらい。そんな世の中でも精一杯生きつつ、少しでも苦笑してもらえれば幸いである。

 

以下目次はこの通り。

 

 

 

③委託『しゃうととぅざとっぷ~星の川学園声優部活動日誌~』A5判型 ¥1,000

おたっきぃ佐々木 - Wikipedia


アニラジのパイオニア的存在、おたっきぃ佐々木氏による青春声優部活ラノベ同人誌の第一弾。そもそも「まさか小説を書いていたとは」という驚きもさることながら、どこか2000年代を彷彿とさせる王道学園部活ものについつい滾ってしまう。

 

加えて本誌冒頭には「今まで一緒に仕事した声優さんに感謝をこめて」という一文、この時点でエモすぎるんだが。おたささ氏がこれまでの足跡を踏まえ、ひとつのストーリーに昇華しようという気合が見て取ることが出来る。

 

物語の大枠は圧倒的声量を持つ主人公・龍ヶ崎あかねが「声優部」にスカウトされ…という展開。それぞれのキャラクターデザインもしっかりと作りこまれ、今後何かしらの展開すら期待してしまう。そんな物語のインタールードにあたる同人誌を、当サークルにて委託頒布していく予定。

 

巻末にはおススメレシピに加え、なんと声優・榎本温子さんとの対談も掲載と謎の豪華さ。おたささ氏の紡ぐ青春声優群像、是非手に取ってみてほしい。

 


という訳で今回当サークルでは、以上3誌を頒布致します。

 

プチお得情報として、⓵②を合わせて買って頂くと、¥1,500となります。やったね。
それ以外の既刊については、基本的にメロンブックスさんの電子頒布か、一部在庫があるものについてはBOOTHにラインナップを加える予定です。

 

毎度になりますが、当サークルでは基本的にちょっと人と違った拘りや性癖を軸としながら様々な角度から本を作ってきました。どちらかと言えば、誰かになにかを広めるというより、既に一物抱えた人がホッとするような本が作れればと思っています。


今回についても同様、評論と呼ぶには少し独りよがりではあるけれど、気が向いたら遊びに来て、手に取ってみてください。

 

冒頭の通り、本当に暑いだろうし、また台風の影響も懸念される為、参加者各位については各自身体と精神に気を付けてこの2日間を楽しめますよう。

秋葉原という地名~この町で人々は何を願ったか~【2018年夏コミ既刊より抜粋】

そろそろ夏コミも近いので新刊の宣伝、とも思ったのだけれど、その前にふとやってみたい事があった。それは5年前の2018年、夏コミC94に刊行した同人誌「'00/25 Vol.9 「アキバ」の「コトバ」」の中で書いたコラムの抜粋だ。

 

様々、秋葉原にゆかりのある人を招いて対談を行った1冊で、その合間に、自分自身も秋葉原の歴史を踏まえたコラムを3篇書いた。これについて一度ネットで公開してみようと前々から思っていたのだけれど、なんだか5年も経つと忘れていたというのが実情である。

 

参考文献は一番下部に掲載している通りではあるものの、どうも独りよがりに書いたため、寧ろネットに公開してコミュニティノート的にツッコミどころがあれば指摘頂きたい、と思った次第。その第一弾としてお試しに公開してみようと思う。また自分自身、このシリーズを書くために国立国会図書館に行ったり、結構苦労したのでこういう記事はオープンにした方がいいっしょ、という思いもあった。

 

まぁ結構長いのでお暇な方で、アキバに興味がある方は覗いてみて欲しい。ということで以下本文。※2018年8月時点での情報です、ご了承ください。

 

 

◇火除けの地から交通の要所へ


神田佐久間町の秋葉の原といえば、神田っ子には思い出の多い遊び場所、元は火除地で火防の秋葉原神社が祀ってあった。方二三町の空き地で最初の貸自転車屋があり、借馬屋があり、花相撲や軽業もときどき興行、チャリネの曲馬も第一回はここで大当り」(中公文庫『明治世相百話』山本笑月

 

 明治~大正期における世相を書いた『明治世相百話』の一端、秋葉原に該当する箇所を抜粋した。地元民にとっての遊び場であり、色んな新しいビジネスが勃興、イベントなども盛んにおこなわれる。なんだか今、イメージされる秋葉原の像に似通ってはいないだろうか。

 

 まずはそんな印象を頭の片隅におきつつ、秋葉原という地名の淵源について簡単に触れてみよう。江戸といえば、数々の「大火」の名が歴史の教科書にも残っている通り、時代としてもエリアとしても、火災が非常に多かったという。その原因は、消火技術の未発達さと過度な人口密集にあった。よく耳にする「喧嘩と火事は江戸の華」という言葉が後世まで伝わるのも、そうした事情によるものなのだろう。特に秋葉原がある神田地区に関してはそうした大火の火元となることが多く、秋葉原の地名のきっかけもそこにある。江戸時代が過ぎ、迎えた明治2年神田相生町(現在の昌平橋付近)を火元にした「相生の大火」と呼ばれる火災が起こった。相生町に住む職人宅から出火した火は周辺の1100戸を焼失させたという。東京府はこの事態を受け、焼け跡を延焼防止のための「火除け地」とし神田花岡町(現在はヨドバシカメラakibaマルチメディア一帯)に火災の際の延焼防止区域として、広場を設ける運びとなった。

 

 翌明治3年。江戸時代からの大火の多さを憂慮していた明治天皇が、この広場に鎮火三神である火の神火産霊大神(ほむすびのかみ)、水の神水波能売神(みづはめのかみ)、土の神埴山毘売神(はにやすひめのかみ)の三柱を皇居内の紅葉山から遷座勧請した。当初「鎮火社」として祀られたそうであるが、当時庶民にとって火除けの神様と言えば「秋葉さん」と相場が決まっていたようで。本家の「秋葉大権現」あるいは「火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)」を奉斎したわけではなかったが、当時では地元民から次第に周囲は「秋葉神社が祀ってある広場」だから「秋葉原」と認知するようになった。ただ呼び方は「秋葉ノ原(あきばのはら)」や「秋葉っ原(あきばっぱら)」、さらには「秋葉ヶ原(あきばがはら)」や「秋葉原(あきばはら)」など様々な呼称で呼ばれたようである。そのように誰かが確定的に決めたわけでもなく、当時は通称で呼ばれていたものだから、現在の「秋葉原」(アキハバラ)という呼び名に定着するまではまだ多少時間がかかる。

 

 人口密集地域に作られた小さな町二つに及ぶ空地、そしてそこには「秋葉詣」に人が集まるときた。そんなおいしい遊び地を神田周辺の生粋の商人たちが放っておくはずがない。冒頭引用した『明治世相百話』でもわかるとおり、様々な催しやら商いが生じ、神田を地元にする江戸っ子たちからは重宝された様子が伺える。特に盛り上がったのが文中にもある貸し自転車屋だという。戦前、このエリアには既に山際、広瀬、石丸といった電気問屋も存在しており、その後の時代の黎明も僅かにあったが、それ以上に自転車屋が非常に多かったという。思い出せば2000年前後まで、中央通り沿いに小さな個人の自転車屋が残っていた事も懐かしい。その名残だったことも考えられる。

 

 明治も時代が進み、区画整備や消防に対する意識が高まりを見せる中、この広場も次第に火除地としての役割を終えていく。そこに目をつけたのが、鉄道国有化の前夜、各地に群雄割拠をしていた鉄道事業者である。明治23年鉄道事業者の一つであった日本鉄道は、その火除地の存在と、神田川を目の前に据えた水運の便に目をつけ、土地を東京府から買い下げ上野から貨物目的の路線を引いた。当時で言う「秋葉原線」であり、それが現在の秋葉原駅の母体となる。その際、神田川から水を引き、駅区画内に堀が作られ、貨物駅の船着き場として活用された。その名残としてJR昭和通り口改札脇にある「秋葉原公園」も数年前まで石堀に囲まれており、80年代まではそこに水が流れていた。今でも公園の道路側に「佐久間橋」と書かれた橋名板が見受けられる。つまり、その下には水が通っていて、現在の書泉ブックタワー脇から神田川まで川の流れがあったことを示している。

 

 少し視野を広げ、時代も進めてみたい。その後、明治39年頃から、国がいよいよ鉄道を国有化事業とし旅客扱いの路線整備を進める。それまで、北は上野、南は新橋、西は御茶ノ水、東は両国まで、という具合に鉄道は現在の東京駅を中心とした銀座・神田・秋葉原エリアにまで届いていなかった。この頃から帝都中央駅構想が練られるようになり、分散している路線を取りまとめ都心に交通網の集約点を作る流れが起こった。結果、現在では東京駅がいわゆる「中央駅」としての役割を担っているが、当初は「万世橋北」つまり秋葉原駅もその候補に挙がっていたようである。

 

 しかし、「神田川の外」要するに、今の地名である「外神田」という立地が「東京の中央駅としてふさわしくない」とネックになったようで、東京の鉄道網における中心地とは至らなかった。それでも明治も末を近くした明治45年。甲武鉄道(現在の中央線)がそれまで御茶ノ水止まりだったところから延線し、万世橋駅が仮の終着駅として設定。まもなく大正4年には東京駅が完成、追って旅客扱いも開始された為、万世橋駅の役割は短かったものの、その跡地には過去に交通博物館ができ、多くの人が訪れた。また今では「March」という商業施設が作られている。当時の万世橋駅の趣を残しながら運営されており、近くに本店を構える「肉の万世」とともに秋葉原一帯における一つのランドマークともなっている。

 

 大正14年にようやく東北本線、上野―東京間が開通。それに伴い秋葉原においても旅客取り扱いが開始された。諸説はあるもののここで初めて明確な形で「アキハバラ」という呼称が定着したとされる。(貨物駅時代には当然「秋葉原」の名はあったものの、呼称はマチマチであったようだ。旅客扱いとなってさすがに呼び方がバラバラでは不味いという話から現在の読み方が定着したとみられる)それから7年後の昭和7年に、それまで両国・御茶ノ水止まりであった総武線もいよいよ開通。今も街のシンボルとして残る立体交差の高架がかかり、秋葉原が庶民の交通の要所となったわけである。

 

 とかく神田川の水運から始まり、貨物駅のターミナル時代、戦後都電が都民の足だった頃、そして地下鉄含めた鉄道が縦横無尽に駆け回るようになった現在。東京の主要部における交通の要所として、秋葉原駅はその役割を果たし続けている。現在では、日比谷線つくばエクスプレスはもちろん、少し足を延ばせば都営線岩本町駅、銀座線末広町駅、また千代田線新御茶ノ水駅湯島駅という具合に各路線の駅にも隣接しており、多くの人がこの街を利用する前提が出来上がっている。こうしたアクセスの良さも、街の多様性を産む土壌となっていることは間違いないだろう。


秋葉原における神社と信仰

 ここまで秋葉原という場所の淵源を覗いてきたわけだが、そもそも「秋葉原」という地名からしても、「電気の街」や「オタクの街」というイメージの反面、下町文化が根付き神社や信仰とも関連が深い土地であると分かる。ここでは一旦、秋葉原に縁する神社に目線を向けてみよう。そこからこの街がどういった土壌の上に成り立っているのかを考えてみたい。

 

 「秋葉原」の地名の直接的な由来となったのは冒頭でも触れた通り「秋葉神社」と言われている。ただ、現在「秋葉神社」として社屋を構えている神社は秋葉原から少し離れた場所にあり、最寄りの駅はといえば秋葉原ではなく御徒町となる。明治二三年の貨物駅開業の段階で、そこにあった神社を移すという話になり台東区松が谷という土地が都によって払い下げられた。足を運んでみれば、社地は整えられ、静かながら荘厳な雰囲気を湛えている。しかし、今や世界的にしられる「アキバ」の地名の由来にもなったことを考えるとこの立地は多少寂しい気もする。ただ、今もなお「秋葉神社」は秋葉原エリアでもひっそりと神棚にて祀られていたりする。

 

 まず、もともと「秋葉の原」と呼ばれるきっかけとなった場所、JR秋葉原駅である。本文での対談でも話題になっているが(H氏との対談参照)現在ではご当地ショップ「のもの」の奥、会議室にある神棚に秋葉神社は祀られている。その発端は思いのほか切々たる事情があった。上記の通り、神社が秋葉原駅開業に伴い松が谷遷座されてしばらく。戦後、秋葉原では火災が数件起きており「秋葉さんを遷座したから」なんていう声も上がった。さらに決定的だったのが昭和37年、当時秋葉原駅長だった内藤剛二氏が回送の特急とき号に触れてしまい、亡くなるという事故も起きた。その件を受け、その年の秋口、秋葉原駅秋葉神社の分社を祀ることとなった。そして、未だに駅構内でも定例的に安全祈願の秋祭りが開かれたりしているという。こうした事情を鑑みるに駅に祀られた「秋葉さん」は火伏だけでなく、未だにこの駅の安全を見守っているのかもしれない。

 

 たださすがに、JR駅内の会議室とあっては一般客がおいそれと覗くことはできない。そこでもうひとつ、我々も未だに確認できる場所にある小さな「秋葉神社」がある。それが秋葉原におけるパーツ専門街の一つラジオセンターだ。狭い路地から二階に上がると、そこには小さな祠が丁寧に手入れされており、よくよく読めば「秋葉神社」と銘打たれている。戦後よりここラジオセンターを取り仕切った山本長蔵という人物は信仰が厚く、土地の安穏を祈って祀ったという。またこの秋葉神社だけでなく商売繁盛の神「伏見稲荷」も一緒に祀られている。なんだかごった煮な感も受けないではないが、戦後の混乱期を生き抜いたパーツ露店店主たちの切なる願いが込められているのだろう。そして、このラジオセンターで買い物をした人なら知っているかもしれない。「山長通商」とはこの山本長蔵氏の愛称からつけられた店名である。そうした埋もれがちな歴史が案外、表立って残っている事もこの街では珍しくない。

 

 また、秋葉原以前に神田の神社といえば真っ先に「神田明神(社号・神田神社)」が挙がることだろう。この土地の興隆を担った神社であり、大手町にある「首塚」とならんで平将門信仰のメッカとしても知られる。さらに江戸総鎮守である神田明神江戸城からの表鬼門の位置にあたり、裏鬼門にある日枝神社とともに家康の時代から江戸の安穏が託された場所としても有名である。

 

 実はこの神田明神がこの表鬼門になる以前、室町の時代に江戸城を築城した太田道灌という武将がいる。この時代に江戸城を守ることを目的とし、数多くの神社が江戸城周辺に勧請、造営された。その中でも江戸城における元来表鬼門の役割を担った神社が、今神田川沿いに佇む柳森神社である。

 

名は太田道灌佐久間町に植樹した柳の木から名前がとられ、今なお通り沿いには柳の木を見ることが出来る。秋葉原の裏手、ほとんどオフィスが隣接する中で一種異様な雰囲気ではあるが、小さいながらも非常に落ち着きのある空間となっている。京都の伏見稲荷から勧請したということで商売繁盛などの神社として認知され、境内にある「おタヌキ様」は「他を抜きんでる」という事から出世や商売に縁起がいいとか。神社にて飼われている猫さまとも触れ合えることもあり、平日お昼時には近隣のサラリーマンや住民の憩いの場にもなっている。

 

 そして、秋葉原の中心街の中にもこれまた小さな神社、あるいはその影を見る事が出来る。まず比較的アキバに通う人間なら目にしていると思われるのが講武稲荷神社である。場所は秋葉原から昌平橋に抜けるガード沿い、旧石丸電気本店のそばと言えば伝わるだろうか。こじんまりして可愛らしいスペースながらも、本堂までの階段が設置され、脇を飾るお稲荷さんの乗った「キツネ岩」もなんとも見ていて癒される。元は大貫伝兵衛という者が講武所(武術の稽古場)の用地払下げを浅草橋長昌寺にある稲荷神社に記念していたところ、見事許可。その感謝の意を込めて、明治九年に稲荷社を遷座し建立。現在では地元町会の倉庫も併設され、うまい具合に土地活用がされている。ふと自分の地元にある神社にも「備品倉庫があったなぁ」などと思い出してしまった。成り立ちから今の姿に至るまで、色んな意味で生活感が覗けるお稲荷さんである。

 

 また電気街のメインストリート沿い、田代町(外神田四丁目)に知る人ぞ知る神社がある。10年前ほどより、一部ネットメディアで取り上げられ、そのニッチさから一時期注目の的となった「花房神社」である。江戸時代からここにあるという事は分かっているものの細かい創建年代は不明。本文中、お散歩対談企画でお世話になったごん助氏の旧実家の真裏である。人一人がやっとあるけるほどの細い路地を入ると、そこに突如現れる。ごん助氏旧宅を始めとして、周辺の民家は再開発によって激しく建て替わりを繰り返している。それら変化をゆっくり見守るようにして鎮座する花房神社は、やはり激しく商業化していく土地にあっても「人の暮らし」が確かにそこに根付いていた事を後世に知らせてくれるスポットである。

 

 そして、最後。ここはすでに神社として残っていない。今回、先のごん助氏と散歩する中で気になった場所がある。それは旧松富町、末広町よりの駐車場の一角。特段気にすることもないコインパーキングなのだが、壁の作りが異様に重厚である。聞けばここも一九六五年まで存在した「三社稲荷神社」の跡地とのこと。穀物・食物・農業の神として知られる倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られていたとのことで、立地を考えれば青果小売店が林立していた場所だと想像がつく。こうした半世紀以上過去のモノとなってしまった神社跡地もふと目を向けることによって、その土地が持っていた特徴、そしてそこに住んでいた人の生活が浮かぶ。今ではすっかり趣すらなくなってはいるものの、そうした壁一枚からも、このような名残を見つけることが出来る。

 

◇そもそも「秋葉神社」は秋葉原にあったのか

 以上の通り、それぞれの神社を見てきた。ただ、再三書いている秋葉原の地名の由来「秋葉神社」の存在には疑問が挙がる。よく言われる経緯としては「明治2年・相生の火災⇒火除け地が残る⇒明治天皇秋葉山or皇居内紅葉山から秋葉神社を勧請⇒市民に親しまれる⇒明治23年に貨物駅として日本鉄道が用地払い下げ⇒「秋葉神社」は台東区松が谷遷座昭和5年松が谷に社屋が造営」という流れである。10年前ほどだろうか。「野菊のハッカー」というブログにおいて、「秋葉原」という地名の由来については種々検証、こうした史観に鋭いツッコミがいくつも挙がっている。確かに調べれば調べるほどに種々の疑問が沸く。

 

 元来、秋葉信仰自体、悟りに至った修行僧と山岳信仰が合わさった神仏習合の手本のような神様である。秋葉原の「火除け地」に遷座勧請された神社は冒頭書いた通り「鎮火社」である。明治新政府によって「神仏分離」「廃仏毀釈」が叫ばれていた時代にそんな「秋葉三尺坊大権現」が祀られるはずがない。証左に本家本元の静岡県秋葉山秋葉神社でもその流れは避けられず「明治5年に教部省秋葉権現を三尺坊とは異なる鎮守と判断し、更に修験の家伝に基づき祭神名を火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)であるとした。」(ウィキペディア秋葉山本宮秋葉神社より)とある。つまるところ、その当時において公式に勧請すべき「秋葉さん」は「火之迦具土大神」を祀った秋葉神社であるが、それでは時系列が合わない。

 

 また現在松が谷にある「秋葉神社」の由緒書きを見ていても、明治23年の貨物駅操業開始による土地払い下げによって遷座勧請されたのはやはり「火の神火産霊大神、水の神水波能売神、土の神埴山毘売神」の三柱を祀った「鎮火社」であったのは間違いない。そして、その後昭和5年になって祀っている神様はそのまま、社号だけが「通称」に寄り添う形で「秋葉神社」へ変更になったという。つまるところ「秋葉神社」自体は、松が谷以降の名称であり現在の秋葉原に「秋葉神社」が存在したことはない、ということになる。

 

 これ以上掘り下げるとキリがないので、別の機会を設けることにしたい。ここで注視したかったのは国家や神社庁が正式な形で「~神社」と社号を改めたところで、そこに住む人々の思いというのはそれを乗り越えてしまうという結果だ。「秋葉原に正式な秋葉神社は存在していなかった」という歴史は、逆説的にこれほど当時の秋葉信仰というものが根強かったということの証明になりえる。秋葉講(参拝しようにも旅費がないため地元で金を出し合って、代表者数人が静岡県本社をお参りする)が数多く起こり、そこに行けない人のことを考えた結果各地に分散する形で秋葉神社が勧請されたわけである。特定の宗教という形ではないにせよ、当時の火伏に対する考えや、土地の安穏を守る「秋葉さん」に対する願いは今の時代では想像できないほどだろう。特定の神社やトップダウンの意思ではなく、ただ人々の願いや思いがそこにあったから、秋葉原は生まれた。そうは言えないだろうか。

 

 遠大な回り道をしてしまったが、本筋に話を戻して「秋葉原」という土地を見てみると、その地名の成り立ちすら「秋葉原らしい」といえるかもしれない。今回、それぞれの対談を覗いていただければ、こうした文章を書いた私の意図を多少なりとも分かっていただけるのではないかと思う。

   
◇◇ 参考文献 ◇◇
・『明治世相百話』山本笑月著 中公文庫 1983年6月
・『秋葉原は今』三宅理一著 芸術新聞社 2010年6月
・『江戸→TOKYO なりたちの教科書 一冊でつかむ東京の都市形成史』
 岡本哲志著 淡交社 2017年2月
・『江戸東京の神田川』坂田正次著 論創社 1998年11月
・『文学・芸術・文化 一九巻二号』近畿大学文芸学部論集より 
 「秋葉原 地名の由来」猪口教行著 2008年3月
秋葉原電機振興会HP「秋葉原アーカイブス」
 http://akiba.or.jp/archives/history00/
秋葉山本宮秋葉神社HP
 http://www.akihasanhongu.jp/
・神社と御朱印秋葉神社
 https://jinja.tokyolovers.jp/tokyo/taito/akibajinja
・野菊のハッカー「「秋葉権現勧請説」を天下の千代田区に質問してみる。」
 https://signal9.exblog.jp/8329246/
秋葉原史記事(mouseunit's Blog)「秋葉原 地名の由来」
 http://blog.livedoor.jp/mouseunit/archives/44484918.html
千代田区HP「町名由来板・松富町」
 https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/matsutomi.html

 

 

ということで、以上が1本目。あと2本あるので、気が向いたら継続的に載せていきたい。ちなみにこの文章が掲載されている既刊はメロンブックスで電子版頒布中なので、是非とも何卒。以下、そのURLでございます。

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=407240

 

『君たちはどう生きるか』を『エヴァ』と対比して見てみるという提案

色んな意見あるけれど、僕は好きでした。

①冒頭

(こっからネタバレあり)

②これ『エヴァ』のアンサーソングでは?

「母」のモチーフについて

④「暴力的な世界で関係性を諦めないこと」

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かなりブログ記事を書くこと自体が久々となってしまった。

 

いよいよTwitterも消えてなくなってしまうかも、という状態が続いていたし、今さら僕が何か文章を書いたところで、という無力感が強かったのも確か。それでもつい昨日映画を見て、気持ちが動いたので、こういう瞬間は大切にしておこうとキーボードを叩いている次第。

 

その映画とは、スタジオジブリ最新作『君たちはどう生きるか』だ。大した宣伝もせず、SNS上での口コミと大喜利効果により、スタートダッシュは好調な興行成績を残しているという。かく言う僕も、ネットの波に煽られて鑑賞してきた。どうもネット上の評判を見ると賛否両論、寧ろ近しい所では批判のが少し多い感じ。

 

なので「実際、面白いのだろうか」と多少身構えて鑑賞したのだが、個人的にはかなり良かったと思う。確かに幾分か難解な話の作りにはなっているものの、まぎれもなくジブリ作品だし、一つ一つの描写は繊細で美しく、あからさまな娯楽エンタメというより、ある種ファンタジー世界観そのものを様々な隠喩含めて思い切り楽しむ作品といったところだろうか。

 

そんな中で、ふと沸いてきたタイトルのような思いつきについて滔々と述べていくことにする。極力、直接的な描写は避けようとはするものの、やはりネタバレもふんだんに含んでしまっているので、作品を見た方にのみ、あと暇な方にのみ読むことをおススメしたい。

 

 

 

 

・これ『シンエヴァ』のアンサーソングではないの?

最初からぶっちゃければ総括として抱いた感想は見出しのそれである。『君たちはどう生きるか』では、場面の転換が素早く、台詞まわしがいちいち暗喩的だったり、それぞれ登場するキャラクターも置かれている状況に対する理解が早い。見ている側が置いてけぼりを喰らうシーンが多い。うーん、この感じどこかで、と思い至ったのが『エヴァ』を見ていた時の気持ちである。

 

実際、ネット上の各所ご意見を見ていて、本作に対する批判の大部分は物語の整合性や伏線に対する回収を得ることの難しさにあると思う。ただ、これが例えば庵野作品ならそんなに文句は出なかった気もする。

 

「なんかそれぞれ難しいこと言ってるけれど、結果ハッピーエンドだしスッキリ出来たから高評価でいいんじゃね」とか、あるいは「あのシーンはどの伏線だったのか」「このオブジェクトが意味するところは」「こことあそこの時間軸は一体」など解釈論議に咲かせる、という具合のオタク特有の楽しみ方を提供してくれたという評価軸になったのではないかとも思ってしまう。(現に嫁とは、後者の感じで楽しく論議出来ている)

 

本作における賛否両論というこの事態は、作品性というより最初から鑑賞者の期待したモノと作品の間に齟齬が生じてしまったが故に起こった現象ではないだろうか。どこかでスタジオジブリ作品は「子供向けの大衆娯楽」という思い込みがあり、こうした暗喩がふんだんに盛り込まれた展開に対して「理解が追いつかない」という事自体に拒否反応が出ているのではないかとも勘ぐってしまっている。

 

寧ろ、肩肘張らず、本作は宮崎氏なりの『エヴァ』を終えた庵野秀明に対するアンサーソングのように本作を見れば、この難解さも含めて楽しめるのではないかと感じたのでその話をしたい。

 

実に乱暴なのだけれど『エヴァ』を10文字以内で表せ、と言われれば「子供が大人になる話」だと僕は思っている。『エヴァ』はシリーズ通して、シンジ君だけでなく、アスカ、ミサト、ゲンドウ、その他様々な登場人物が難解な世界観や生死と向き合いながら、ぶつかったり鬱になったり、いい感じに繋がりかけては、結局世界が滅んだりする。

 

『シン』での最終章では、シンジによってゲンドウ始めそれぞれキャラの精神分析がなされ、病理が解きほぐされる事によって創世を成したお話だと僕は理解している。詳細については、その感想文リンクを貼っておく。

 

wagahaji.hatenablog.com

 

そして『君たちはどう生きるか』に話を戻せば、これもやはり主人公・牧眞人が「大人になる」話だと僕は思う。そのようにシンプルに捉え直すと、この2作品を繋げる補助線が(個人的には)見えてくると思っている。以下『君たちは~』と『エヴァ』にどのような類似性を見ているか、という点について2つ程書いている。面倒なオタクがなんか駄弁ってらとでも思って、軽く読んでいただければ幸いだ。

 

「母」という存在のリンク

先んじて書けば、僕は「大人になる」ことの定義のひとつとして「家族を他人と理解し、他人を家族として受け入れること」ではないかと考える。

 

本作がインスピレーションを得たとされる岩波文庫版では、主人公・コペルの父が亡くなっているという設定だが、本作では主人公・眞人の母が火災(恐らく空襲)によって亡くなり、事業家である父と母方の田舎に疎開する所からこの物語はスタートする。しかし、眞人の精神世界、あるいは大叔父が構築している「下の世界」においてその死は今一つ判然としないまま話が進む。

 

また、現実世界においては、眞人の母ヒサコと瓜二つである妹ナツコと、父が再婚する流れとなる。既に子供をその身に宿し、眞人は他人としての「母」と出会う。見知らぬ母に似た他人と、血の繋がりを感じられないまだ見ぬ弟、あるいは妹を前に眞人は自分の素直な気持ちをさらけ出すことなく、悶々とした日を過ごすというのが序盤のストーリーだ。

 

どことなく、このヒサコの存在は『エヴァ』におけるユイの存在と重なるように思える。彼女も実験中にエヴァに取り込まれ実体としては亡くなったものの、その魂はエヴァ初号機に搭載され、搭乗者であるシンジを救ったりもする。そして彼女のクローンであるレイもまた、ここに書くまでもなく、物語の中でシンジとの関係性を構築する。

 

『君たちは~』において。現実世界でのヒサコは眞人に小説版の『君たちはどう生きるか』を遺し、思想の面から彼を後押しする。「下の世界」においては、母の幼少期の姿で火を操るヒミと出会うことにより、ナツコを探す冒険は前に進むことが出来た。加えてヒミ自身も、眞人の事を将来産むであろう自らの子どもであると理解し、ラストはそれぞれの時間軸に飛び出していく。

 

このように、死んだ「母」を感じさせながら、幼少の姿として再生させ、家族というくびきから離れた関係性を構築していくという構図に、両作品とも近しいモノを感じる。特に男子にとって、母と離れることは大人になる為の重要な条件ではないかと考える。

 

また、逆も然りである。それまでナツコに対して抱いていた、他人としての「母」という感情。それを乗り越え、最終的には彼女やその身に宿した子をも自らの家族として受け入れた眞人。これはマリという他人をパートナーとして選び取り、自らの人生を築こうと一歩踏み出したシンジのラストシーンとも重なる。

 

以上のようにして「家族を他者と理解し、逆に他者を自らの家族と選ぶ事」が大人になる禊として描かれており、この点について両作品はリンクしているのではないかと僕は思った次第である。「少年が大人になる」事を描くため、母をひとつの軸としながら展開しているという相似形ではないかと感じた根拠である。




・暴力的な世界で他者との関係を構築してくこと

もう一つ双方ともに描かれた「大人になる」ことの条件は「他者との違いを受け入れ、それでも関係を諦めない」という点ではないか。

 

こちらについて『エヴァ』で考えれば、ゲンドウが目指した人類保管計画が分かりやすい。結局、ゲンドウは大人になれなかった父だ。先にリンクを貼った感想文にも書いたことだが、最終盤で赤裸々に語られるゲンドウの半生は、まるで他者を受け入れられず、また唯一愛せた妻を諦めることも出来ず、人類が全て魂の次元でひとつになる事を目指したものだった。

 

最終的にこの計画はシンジに諭される形で破綻する。個体としての差異をそれぞれ受容すべく創世された世界で、シンジたちは生きていくことを選んだ。

 

以下は解釈違いかもしれないが、同様に『君たちは~』において語られる「下の世界」はある種、生と死が閉じた完成されたユートピアだったのではないかと推察している。大叔父が維持していたのも、そのユートピアにおけるバランスであり、その世界にも大叔父の老いに伴って限界が来ていたものと考える。

 

そこで血の繋がっている眞人がその後継者として選ばれた。だが、彼は自ら傷つけた頭の傷跡を指して「悪意の証拠」としてこの打診を断った。自ら美しい世界を蹴って、嫌な学友のいるアウェイの学校があり、母は既におらず、新しい家庭の待つ現実世界へ帰る選択をした。自らが悪意ある人間と自覚し、母や新しい家族、侍女らに守られている事を自覚し、その責任を引き受けたのではないだろうか。

 

※こっから、一人解釈語り。インコを始めとした鳥のオマージュは、僕個人の中での解釈として「人間の意思に反するもの」=「自然」の暗喩ではないかと考えている。宮崎氏の飛行機好きからしても、人の意思で飛ぶものに対して、ある意味でアンチテーゼ的に鳥が配置されているのではないか。だから必然として人間と対立する。大王が激昂したのも、人間が意思に対して重きを置く傲慢さへの怒りではないかと邪推している。なんなら、大叔父の積み「石」は「意思」をかけたダジャレではないかとも薄っすら思っている。

 

エヴァ』と『君たちは~』における、主人公の選択はそれぞれ別個ではあるものの、明確に「大人になる」事への答えを指し示していると感じられる。

 

そして、この部分というのは元ネタ小説版『君たちは~』でも通じる部分がある。どれだけ文明や文化が発達しようと、貧乏やいじめはなくならず、人間として生きるツラさはどこにでも存在している。それでも自分を中心に考えず、誰かと繋がっている事でまた意思を持つことが出来ると信じる事。そして最後に「君たちはどう生きるか」と問いかけた流れを踏まえると、しっかりと映画本作がタイトルだけでなく『君たちはどう生きるか』という小説を源流に据えている事が分かる。

 

「大人になる」というシンプルかつ矮小とも取れるテーマ性ではあるものの、既に御年80歳を超える巨匠が、若い世代に対して決して説教くさくなく、直感的なイメージ性をベースに懇々と「生きること」を伝えてくれたように僕は感じた。そして、その淵源には庵野監督が描ききった『エヴァ』という作品が、少なからず影響をしているのではないかと邪推しているのでは、というそんなお話。

 

 

 

以上、好き勝手書いていたらなんだか長くなってしまった。久々に文章を書くと、文章下手になるし、辞め時を失ってよくないね。たまにはストレス発散にいいもんだなと思いつつ、次回の更新あたりでは、ちゃんと夏コミの宣伝もしようと思いますので、よろしくお願いします~

 

本当に日々クソ熱いので健康には気を付けて。

Vtuberの実存について~星街すいせい2ndLive『Shout in Crisis』感想

有明ガーデンシアター、いい箱ですよね。

今回。人気Vtuber、星街すいせいのライブに行ったことで「Vtuber」という存在の捉え方が改めて少し変わった。そんな話をしてみたいと思った。

 

・顔を出さないという選択

直接ライブの話をする前に、僕はどのような感情をVtuber全般に向けているのか簡単に整理したいと思う。

 

ここにも何度か書き記したけれども、ホロライブやらにじさんじといった大手箱を中心に、Vtuberという文化に触れるようになってから気づけば1年強ほどになる。配信を観たり、音源に聞き入ったり、グッズを買ってみたり、推しの絵を描いたり。気づけば各所に散財をしながら、その世界にハマり続けている。

 

その中でも、圧倒的な歌唱力でその名を馳せているのが星街すいせいだろう。先日はYoutubeチャンネル「FIRST TAKE」にも登場し、初回配信時同接15万人を叩き出している。そんな彼女が、本日1/28(土)に有明ガーデンシアターで2ndアルバム『Specter』を引っ提げてライブを開催する、という事なので是非現地で見てみたいと思いチケットを確保した。

 

思えば「Vtuber」という存在に対して見る目が変わったのも、彼女がきっかけだった。最初は「Vtuberってゲーム配信者が2Dアバターを使って配信しているんでしょ」程度の認識だったけれど、彼女の1stアルバム『Still Still Stellar』の出来の良さに、正直衝撃を受けた。「え?なんでわざわざこれでVtuberなの?」多くのVtuberに触れていない人と同様、顔出しの方がシンガーとして有利なのではないか、という疑問を抱いたことを覚えている。

 

「中の人なんていない!」みたいなファンダメンタリストの反駁は聞こえるけれども一旦置いておいて。Vtuberらが「顔を出さない」「キャラクターとして存在する」というのは、外見が二次元化する事によってシンプルに「可愛い」存在になるメリットを生む反面、その実態に対して疑義が生じてしまうというデメリットがある。「一体アバターを使って、何を隠している(何が隠されている)んだ」と、ついつい気になってしまうのも人間の性だ。

 

ただ、沢山の切り抜きやらアーカイブを見て、Vtuberの世界にハマっていく中で。そんな疑義もVtuberの強みであると僕は理解するようになった。タレントの名前を検索にかければすぐに「中の人」とサジェストが出る通り、その二面性はある種の魅力だと言える。「設定上の一人称がブレる(つい「わたし」って言っちゃった)瞬間まとめ」など切り抜きが上がっている通り、本当の内面性がアバターというペルソナからあふれ出る瞬間、というのは見ている側の好奇心を煽る。ギャップ萌え、という言葉も死語になっているが、そうした「素」と「キャラ」の絶妙なバランスこそ、Vtuberの人気を構造的に支えているモノの一種だと思う。

 

加えて、僕は元々生身のアイドルが少々苦手だ。直接、目の前にいる人間を推す、というのは中々に生々しさを伴う行為だと感じる。恋愛感情とファンとしての心理の境界を、上手く想像することが出来なかった事が主たる原因だと思う。そこにおいてVtuberという存在は、対象を二次元化させることで恋愛感情要素を薄めた代わりに、キャラ萌え要素を加える事に成功している。それが幅広いオタク層にとって「推す」ことへのハードルを下げたのでは、と考えている。

 

詰まるところ、僕がハマったことにより、少しずつ周囲から「Vtuberって何がそんなに人気なの」と聞かれる機会が増えていた。そこに対する理屈の仮説として用意したものが上記の話だ。僕自身もVtuberというシステムが何故、多くの人に受け入れられたのかという点を考えることは興味深く、一旦の回答としてこのような理解をしていた、というのが今日までのお話である。

 

・星街すいせいに感じた「存在」

ライブ冒頭。代表曲『Stellar Stellar』を聴きながら、僕は少し混乱していた。今回運良く、アリーナのかなり前方で席を確保出来た事もあり、ステージを間近で眺められた。言ってしまえば、ステージには長方形のスクリーンが存在し、そこに映し出された星街すいせいが動いているのを観客は眺めるという仕組みだ。

 

上段でこれだけ語ってはいるものの、そもそもVtuberのライブ参加自体が初めてだったので、ハッキリ言ってしまえば「本人がそこに存在していない状況」を楽しめるのだろうか、というのは不安としてあった。歌声はそりゃ生なんだろうけれども、個人的に「実存しない存在に対して、ライブの臨場感は生じ得るのか」という意味で、実験的なライブ参加であった事は否めない。

 

そして、開演。その不安や疑いに対して、抱いたのが先の「混乱」だ。理性ではそこに存在しているものが「スクリーンだ」と認知しながら、僕の主観としては、間違いなく彼女はそこに居る、と感じてしまったのだ。

 

勿論、ステージやスクリーンそのものの技術的側面もさることながら、今回から新型コロナ対策も緩和され、観客の声出しが許された事もその「存在」を後押ししていた事は間違いない。星街すいせい自身の圧倒的なパフォーマンスと、それを後ろ支えする生バンド、そしてこれまで声を出すことを制されてきた星詠み(星街すいせいファン)達の爆発的歓声とコール。そして、それに応じる彼女。それら全てが折り重なったことで、確実に彼女がそこに存在しているものだと、僕は認識してしまった。

 

セットリストは新アルバムの曲を基調としながら、1作目のアルバムからも人気曲をチョイスし、我々観客も休む暇なく見惚れるしかなかった。ただ、その中でも個人的に象徴的だと感じたのは、自分で作詞を担当したミドルテンポバラード『デビュタントボール』だった。それまでは客を沸せるチョイスが一変、上方スクリーンに歌詞の断片を載せ、会場もアンニュイな雰囲気が占める。日々明るく努める中で感じる虚無と、さながら非日常を魔法と呼ぶその歌詞は独白にも近く、淡々と歌い上げる様には息をのんでしまった。

 

更に、ライブ終盤。彼女の曲にしてはとても内省的で暗い言葉が並ぶロックチューン『放送室』を歌い上げた後。MCで、この曲は直接自分の苦悩を語った歌詞だとストレートに語る彼女の言葉は、配信で聞けるような気ままで自我の強そうなペルソナとしての「星街すいせい」のそれではなく、明らかにただただ、急激に人気を得てしまった今と、自身のギャップに悩み、苦しみ、歌うことで何かを打開しようとする「星街すいせい」の姿だったように見えた。

 

僕は上段において、Vtuberのシステム的な魅力として「アバターと素の人格との二面性」という事を書いた。推測として正しい側面もあるとは思うし、理解のない人に説明する上では理屈上でも頷いてもらえるモノだと考えている。ただ、今回このライブに参加したことで感じた最たる事は、ただただそこには、ペルソナも、素もなく、シンガーとしての「星街すいせい」が「居た」という事実だった。

 

僕らはVtuberとか、最早そんな、枠組みやシステムの話など関係なく、星街すいせいのライブに行き、彼女の歌を聴き、声を上げ、喜び、楽しんだ。それだけだった。

 

多分、他の星詠みの方々に言わせれば「何をお前は今さら当たり前の事を理屈捏ねて言ってるんだ」と怒られるかもしれない。すいちゃんは、すいちゃんとしてそこに居る。僕は、そんな当たり前の事を、ようやく現場で理解した。理屈ばかりであった僕にとってのVtuber観がひとつアップデートされた、そんなライブだったのは間違いない。

 

様々な暗い側面もこの2ndアルバムには詰め込んだと語り、しんみりした空気を跳ね飛ばすように「自分の嫌な所を直すのでなく、受け入れて、今だけは笑って帰りましょう」と星詠みたちに告げた彼女は、他の誰でもなく彼女そのものだったと思う。アンコールの最後、全ての観客を巻き込んで『ソワレ』を歌い上げた彼女は、恐らく全てを出しきったのか、輝くように消えていった。

 

 

何か、Vtuberのライブ、ということで様々ギミックを気にする人がいる。いや、これまで見てきた通り僕自身もそうだった。「どういうこと?」「本人いなくてどうやんの?」という疑問は確かに真っ当だと思う。ただ、現場を見ることでしか理解できない事がある。理屈なんかでなく、そこに彼女は存在し、躍動しているのだ。冒頭に揶揄したファンダメンタリストと同じことを言ってるのだけれど、星街すいせいは、今日そんなシンプルな事を僕に教えてくれた気がする

 

 

という感じで、ライブ後に熱量が沸いてしまい、勢いで書いてしまいました。読みづらくてすみません。また3月にも4th Fes.と楽しみなイベントが続くので、こちらも粛々と追っかけたい所存です。