『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?自我を形作る「意識」と「無意識」の並行システム』
竹書房 著:エリエザー・J・スタンバーグ 訳:水野涼 2017/7/6発刊
つい先週くらいまで、うだるような暑さに体も心もやられていたのだけど、気づけば徐々に涼しさの気配も見え隠れする時期となってしまった。小中学生は、もう夏休みも終わって、学校が始まるところもあるらしいし、NHKを見ていれば夏の甲子園も終わり、いよいよ晩夏に差し掛かっている知らせを至る所で感じる。
そんな折、時間は多少かかってしまったのだけど、冒頭掲げた本をようやく読み終えた。自分が前々から関心を抱いていた分野というか、不思議に思っていた事にひとつの解が与えられたようで非常に面白かった。なので、毎度のごとく懲りずにその感想やら、それに纏わる所感などを、根暗前提で書いていこうと思う。いや、ほんとおススメなので読んでみて。
・なぜ人は幻を見聞きし、それを信じるのか
本書のタイトルの通り『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』という問いは、なぜ人は幻を見て、それを現実と捉えるのか、をキャッチーにしたものだ。無意識下での人間の思考は、自分で思っている以上に多様な役割を演じ、そして自分の認識すら大きく塗り替える力を持つ。それは例えば、錯視や錯覚、そして幻聴や幻覚、そして嘘だったり作り話に至るまで。自分の脳は、どのような理屈のもとで物事を考え、そして現実を認知するのか。そんな話が脳科学や心理学の分野から延々語られている本である。
この本の中でも特に興味深いのは「作話」の話である。それは重度の記憶障害や認知障害を負った人が、ありもしない話を作り出すのはなぜかという事を論じた個所である。大きな記憶障害を抱えた人は、当然のことながら自分の成り立ちに大きな空白部分を抱える。自分がだれかわからない、家族がだれかわからない。仕事や家庭、自分というアイデンティティの成立や、これまでに知り合った人たちなどなど。そうしたデータが欠落した状態では、自分の自意識が危機にさらされる。
それに対する危機管理として脳が勝手に働くというのである。つまり、相手や自分から持ち掛けられた問いに対して、辻褄があってなかったとしても詭弁としてある種の整合性のある答えが勝手に用意されるという現象だ。本書内で紹介される医者と患者のコミュニケーションにこのようなものがある。
医者「あなたの名前はわかりますか」
患者「当然です。ただ、今ここで知り合いでもないあなたに打ち明ける必要はないでしょう。」
医者「今あなたが精神病院にいる理由はなんでしょうか」
患者「膝を悪くして昨日手術したばかりなのです。そのリハビリの一環です」
詰まるところ、自分の回答を持ち得ていないにも関わらず、まったく別のロジックで答えが発せられる。それが作話という現象である。しかも、そこからは嘘をついているという自覚が微塵も感じられない。本当に本人が信じ切っているのである。そして、その嘘と自覚されない嘘は、タイトルである「なぜ人は宇宙人に誘拐されるか」という問いにもつながっていく。
・信じていれば、嘘でない
次に語られるのが「宇宙人に誘拐された」つまりエイリアンアブダクションに遭遇したと信じる人である。そうした人は、必ずしも記憶障害や精神疾患を持った人だけではないというのが興味深い。この本では、睡眠麻痺いわゆる金縛りという現象からその体験を解説しようと試みる。
金縛りというのは、脳は働いているが、身体が眠っている状態といわれる通り、その身心のギャップに原因が見いだされる。目は覚めていると感じているのに身体は寝ているからこそ、自由が利かない。まさにエイリアンアブダクションの状況に酷似している。そして、そうした睡眠に近い状況は夢や幻覚を見やすい。もし、そうした宇宙人の誘拐というような発想が普段から根付いているのだとすれば、その無意識下のイメージがいわゆる宇宙人による接触という解釈を促すのも自然であるという。
脳は自分のイメージに対して自然な理解を促す。そこにないはずのロジックを生み出してしまうのだ。前者の記憶障害を抱えた患者の例でいえば「名前を思い出せない」のではなく「ここで名前を言う必要がない」という形に転換し病院にいる理由も作り出したりする。記憶の消失という事実から自分を守る。またエイリアンアブダクションのケースでは、記憶ははっきりするものの睡眠麻痺つまりは金縛りという現象に対する自分への説明がつかず、その状況に相似した「宇宙人からの誘拐」という解を導き出す。
それらは、本人が嘘をつきたいから嘘をついているのではなく。あくまで自分の理解の範疇を守るための脳の営み、つまり機能だというのだ。現実の現象が、自我を超えるとき。それは人の心的余裕を失わせ、結果「新たなロジック」をそこに作りだす。経験があるかもしれないが、嘘だと分かっていても、それを自分の中に刷り込むことによって、人はそれが現実だという認識を持つことは可能だ。そして自分の作話なのかすら分別不可能になる。詰まるところ、信じていることは「嘘をついていることにならない」というのである。
・人は「正しさ」以上に自分を守ることを追求する
人は精神疾患や脳の損傷のあるなしにかかわらず「作話」つまり自分の中でのロジック展開を行う習性がある。その発想に立つと、昨今のツイッターなどネット界隈での発言を垣間見てみると面白い。正直「この人何言ってんだろう・・・」っていう事案に出会うことは少なくないのではなかろうか。
例えば、ネトウヨネトサヨの政治議論。彼らはお互い政治議論などを毛頭する気もなく、イデオロギーの打ち合いに終始している。「正しさ」をそれぞれが別に持ち、まったく違った歴史・事実認識から主張を展開する様子などは、冷静に眺めているとなかなかに不思議である。また、例えば何か熱狂的なファンなどの発言も興味深い。
例えば昨今では歌い手やYoutuberが炎上した際には「法律よりもその人のが偉い」という持論を持ち出す。某フェミニストは過去の自分の行動からはかけ離れた「ポルノ批判」を展開するし、その言動については周囲の人も戸惑うばかりである。延々誰かを叩き続けたり、あるいは自分の信念をぶつけてマウントを取ろうとする人。そういう人は正直ネット上には珍しくない。
僕は前々から何かに対して過激な発言や、一方的な非難中傷をする方を見て「この人らってどのような思考回路で生きているんだろう」とか疑問に思っていたりもしたが、今回の本を読んでその答えに近い発想を与えてもらった気がした。詰まるところ、作話や幻聴、幻覚、錯視、それら人が生み出すエラーに共通している概念は「自分を守る」という点である。記憶障害を患った人が、その空白を無理やり脳の理屈でカバーするのと同様。自覚的についた小さな嘘だって、結局は自分の自我を守るためにあるものなのだ。一つ一つの考えが、過去から積み上げた自分を守るために自動的に生成されたものと考えると、頷けてしまう場面が多い。
・人との意見の違い、その前に知るべきその本当の意図
以上みてきた通り、本書が指し示すのはこの「とことんエゴイストな脳」の存在である。自我を守るため、本人の意識とは別次元の箇所で嘘も構成する。事実という概念は無視をして、ただただ理屈に合うことを勝手に醸成する。無意識下で僕らはどれだけの「作り話」をしているのかわからない。
そうすると、とかくネット上にてみられるような、寄り添う余地もないような言い争いにも徐々に理解が及んでくる。そう、彼ら、彼女ら、そして僕らも。結局何かを主張するという事はそれ自体の正しさそのものよりも「自分」を守っているのだと。そう自覚してふとこのような発言たちを眺めることで「正しさ」の相違というか、時間の消耗にしかならない議論がなくなることを祈るばかりだ。
伝わっているだろうが、これは議論や対話という人とのコミュニケーションに対するニヒリズム的意見ではない。違った思想や意見をぶつけ合うことは重要だし、人として実に生産的な営みである事は確かだ。人は人と話し合ってこそ、アイデアが醸成されるというのも真なる話だろう。しかし、その一方で不毛な意見の殴り合いが存在することも間違いない。これ言い合ってても意味あるんだろうか?とか。そういうときには往々にして「何がとられるべき対策か」「正しい選択肢はなにか」という問題軸がズレ、結局「自分の信念だけを守る」という議論になり果てる。ただし、それは脳の機能としては非常に自然なことであり、自我を守るというのは、整合性よりもはるかに大事なことなのである。
結局何が言いたかったのかって、人が意見を述べたり、自分の信条を語るときって、案外自分を守っている。その自覚や相手への認識があるだけでもだいぶ無駄な時間が減らせるのではないかと感じたのだ。これは、障害を負った人たちだけの話でない。日頃社会に出て、またネット上でやりとりしている中でも、多分にみられる脳の営みそのものであろう。
だって、様々な意見はそれを発した本人の為の話なのだから。信じることは、自我を守る第一歩である。それがたとえ支離滅裂だろうと。あるいは他者との常識に差を感じたとしても。僕らは誰だって、たとえ障害があったとしても、自分という存在を守るために脳は動き、自分という存在を落ち着けるのだ。三つ子の魂百までというか。自分の生き方を守る為に、僕らは何かを信じ、そして言葉を発する。自分の発言もきっと「保身」の意図がいたるところに見える。それに注意しなければならないのは当然なのだけど、周囲のそんな主張にいちいち自分の心を惑わせる必要もない。
それら意見は、所詮自分の意思やこれまで生きてきた中で見つけた何かを守るためにあるのだから。今回良書からそんなことを気づかされ、なんとなくネットの意見もそれぞれが、エゴに基づいていると思うと、逆に愛おしくなったり。結局正しさの主張なんて、自分を守りたい結果なのだなとか考えたらちょっと楽になった。酔いながらも長々書き続けたが、適当にここら辺で終えようと思う。冒頭にも書いたけど、この本おススメです。