うっせえわ、という空気
みたいな状況なんだと思う。
今思えば、この曲がめちゃくちゃ売れたのも、世間の空気感がマッチしたのもあったのだろう。先日、トランプ大統領が誕生した理由分析みたいな記事を読んだ。普段人種差別的なことを言っているけれど、なんでヒスパニックの方々すらトランプ支持に回ったか、という話に対して「トランプの発言に気を害している人は、彼の言うことを真面目に捉えすぎている」と答えたようで。少し笑ってしまった。
ノリと同調が全てを覆っているような空気。何を言うかは置いておいて「そんな所もあるけれど、あの人は、いい人だからさ」みたいな。知的な思考に意味はないどころか、それを言語化して高説垂れることは、ある種、選民思想のような状況になる。「何分かりづらいこと言ってんの」というのが今の空気なのかもしれない。確かにリベラルな人らが言葉を弄して、様々なジャンルにおいて政治的な正しさを説いて回るということにも胡散臭さがついて回る。複雑な論調でロジックを振りかざす事自体、差別的な振る舞いに捉えられる可能性がある。
今、読んでいる本が『言語が消滅する前に』というタイトル、國分功一郎氏と千葉雅也氏の対談をまとめた書籍だが、まさにこのような話に触れており、むしろ言語で規定されず、即解決を提示される状況下の方がより民主的ではあると書かれていた。具体的に言えば、言語と格闘し、書籍から何か納得を得るよりも、動画数分で理解するという事の方がより親しみが湧いてしまうように。
世間ではそれをタイパと呼び、後者を重宝するような風潮が強まっているが、それに留まらず前者の何かを我慢して、成果を得る事自体が英雄主義的な側面を持っており、人々の中にはうっすらながら、それを拒絶する感情すらそこにあるのではないかと。簡単に衆愚と切って捨てる事ができない程に、それは民主的なものでもある。民主的な結論は、誤っていようとそれはそれで貴重なものとなる。
自分自身としては読書する方だし出来れば知的な情報を前提に思考を組み立てていたい、と思うのだけれど、当然時代の要請もあり、動画文化にはどっぷり浸かっている。タイパを重視しないまでも、簡易な方に人は流れていく。今回のトランプ氏の当選について、何か考えがあるわけでもなく、まぁそうだよなぁ、くらいに眺めていた。なんなら自分もアメリカに居たのなら「こいつのがおもろいわ」くらいに考えて投票するのかもしれない。そのノリは理解できる。
この「ノリ」は、言語以上のわかりやすさを我々に提示する。4コマ漫画にもならない起と結、勧善懲悪、可愛い、気持ちい。バズの中心は一瞬で把握できる短い動画に移り、ネット上での炎上する事案は、日本昔ばなしよりもわかりやすいストーリーがついている。今更2024年にもなって言うことでもないが、知的なもののパフォーマンスはこれからいよいよ持って下がってくる。パフォーマンス、という言葉自体も「ノリ」を集められる、多くの人が共感出来ると言う意味合いだ。
誰が悪いと言うわけでもない。ただただ、時代の変遷であると思う。そこまで深刻にならずとも、ノリと勢いでこなしていけるのが人生だと言うのなら、それはそれで悪くないのかもしれない。短く簡易化されるコンテンツ群に、不必要に長くなっていく人生。この対比はしばらく続きそうだし、AIも加わり、全ての領域がより民主的になるのだろう。
主人公不在の時代を歓迎すべきディストピアと考えるべきなのだろうか。僕はいまだにわからずにいる。