今更ではあるのだけれど、朝井リョウ氏の『正欲』を読んだ。
こんなにも「自分が読むべき本と出会えた」 と感じたのは久々だったと思う。以下、その感想と僕なりにどうこの作品と向き合うのかという話になるけれども、ストーリーについての露骨なネタバレはしないつもりでいる。ただ、それなりに触れてはしまうので、最終的には自己判断で。
加えて、 おこがましいのだけれど、 僕がこの10年程、 同人活動でやりたかった事が、この作中でほぼ示されていると思う。というのも、僕自身。ちょっと特殊な性癖具有者の一人として、同人誌やこのブログにおいて、世間一般が規定する「正しい欲」 を抱えられなかったことへの恨み節と、この生きづらさを解消していく為の言葉を吐き出し続けて きたつもりである。
そこにきて朝井リョウ氏は見事なまでに、 こうした怨念じみた感情を、緻密な群像劇に仕上げてくれた。 正直に言えば、そのようなテーマにおいて見事な小説を書きあげたことへ嫉妬心もある。 それと共に、こうした怪作を世に出し、 多くの人へ届けてくれたことに対する感謝が混在しているというのが僕 が抱いた読後の素直な感情である。
内容について触れていくが、群像で描かれる登場人物の心理描写は実に巧みであり、 恐らくそうした方にインタビューをしたのだろうと確信が持てるほど、リアルな内省が散りばめられていたと思う。その中で 僕個人が最も共感した描写は、 それぞれの人物が自分の思いをさらけ出す場面というよりも、 随所で描写される、 気持ちが通じない相手への諦めを表すシーンだった。
物語序盤「 会話は出来ても、対話は出来ていない」 というセリフがそれを端的に表している。 価値観がまるで異なる相手とは、 相互に対話すること自体が不能となる。理解を期待するだけ無駄。 こうした感情は自分自身も幼少に強く実感したものであるし、 両親や友人に対して、 本心を閉ざしてきた過程そのものであると言える。
本作では、そうした「正常」と「異常」 のディスコミュニケーションが主たるテーマになる。 対話不可能なまでの断絶が、 実は思った以上に身近に存在していること。 この断絶にどう向かい合うべきなのか。当事者はどうすべきだったのか。周囲の人間はどう対応すればよかったのか。それら問いに対する具体的な処方箋は、本作において示唆はされているものの、明示されてはいない。果たして、 我々はどういった角度で本作を捉えるべきなのか。僕個人の視点から、それぞれ非当事者、当事者それぞれに向けて思った事を書いてみる。
以下、本作をあくまで一般の価値観から眺めた方にお伝えしたいことであ る。
この作品のレビューを読んでみると「マイノリティに含まれないマイノリティの存在を知る事が 出来た」「自分の理解外の存在に気付くことが出来た」 というような文言が多かった。詰まるところ「共感」や「多様性」 アップデートの為の道徳的フィクションとして本作を享受している 方が多いように感じる。
ただ、 あえて言うならば本作は単なる道徳的教材ではない。いわゆる「 性的マイノリティ」 になる資格のないマイノリティ達が抱く絶望感、 あるいは人生への諦観は、個人的にかなり重なるところがあり、 かなり実録といった印象だ。社会を風刺するフィクションでなく、 ドキュメンタリーとして読んでいただきたい、ラフに言えば「いや、 マジだからこれ」と思ったという話だ。
このブログの過去記事でも書いたことだが、性的異常性は、 往々にして当人に性の知識が与えられる前にやってくることも多い 。「性癖」と名前が付きながら、 その衝動が性に纏わっていると自覚するのはもっと後だったりする 。
よく世間やオタクとの会話で使われる「性癖」という言葉は「性的嗜好の選択肢のうちのひとつ」 という性質が強い。脚フェチだとか、固有のシチュエーションだとか、 余りある選択肢のうちの好みを指し示す事がほとんどだろう。 しかしながら、本作で示された通り、一部の人間にとっての「 性癖」はそもそも「それでしか興奮をしない」 という逃げ場のないものだ。
そして、そんな癖が根付いてしまうと、欲というより、いつか 衝動に襲われる。作中にも描写された通り、中学高校において男子・女子のコミュニティで下ネタが自然と笑いのネタになるのは、各々がその欲求が共通の話題であると確認したいからだ。「これおかしいことじゃないよね」という社会での承認を経て、欲求はコントロール可能な欲求の形を保つことが出来る。
一方で、欲求を誰とも共有できず、自分の中だけで育て続けると、それは衝動になっていく。自分が異常であることを自覚すればするほどに、その衝動は強まっていく。 その願望の事しか考えられない、といった時期すらある。 世間一般と、全く異なる事に興奮を得てしまい、世間での「正しい欲」 に添えない恐怖は、なかなか自身で体験しないと分からない。
僕個人の場合で言えば、トータルエンクロージャーと言われるような全身を包まれる事に対する異常な願望が幼少からあった。着ぐるみや全身タイツといったモノに対する衝動は、小学生低学年の頃からやはり抑える事が出来なかった。そして、中学生になり普通のAVにまるで興味が抱けず絶望するのだけれど、まさにそれは本作にもあるような社会や人間としての生活への諦観にも繋がる。
先にも書いたが『正欲』におけるキャラクターは、イフで生み出された存在ではない。そこにいる。今YouTubeを何の気なく検索しても、どこがエロいのか分からないエロ動画は数多く存在している。多様性から漏れ出た多様性は確かに存在しているのだ。それらに対して理解してくれとは言わない、無理なので。この小説を通して、そうした存在を実際のモノと認知し、社会において隣にいる存在と思っていただければそれで充分である。
その上で。 反対に本作を僕と同じように当事者として読んだ方にもお伝えした い事がある。
完全に上記と矛盾するのだが、本作はあくまでもエンタメであり、フィクションである。 ということだ。フェチを抱えながら既に年も重ね、社会の中で巧みに生きている紳士淑女であれば何もいう事はないのだけれども、若い世代でこうした他との異常性に悩みながらこれを読んだ人は、そう思ってほしい。
こうした露骨な形で異常性癖の内面に深く寄り添い、また突き放した作品というのは過去あまりなかったように思う。だからこそ、読んでいて共感してしまう気持ちは強いし、自分の悩みが外部化される感動を覚えた方もいたかもしれない。それだけに、作中で描かれる一般社会との隔絶や、社会に対する絶望の描き方は鋭く刺さってしまう。
世間との隔絶を実感してしまうと、案外人間は「生きるか、死ぬか」という安易な二択を選ぼうとしたりする。本作でもそうした葛藤は描かれている通りだ。僕も経験している。ただし、実際の現実社会はそれだけでない。白か黒かで描ききれない、グレーであり他の色も沢山存在いている集合体こそが実際の社会だ。
同好の志は確実にいるし、もっと笑える、バカな話題も出てくる。それを楽しみとし、自分の異常性を糧にして創作に向かったり、前向きなエネルギーとして捉える人間も多い。作中では少し哀しい形でその末路が描かれるものの、社会と上手く折り合いを付けながら自分の衝動や異常性と向かい合っている大人たちは沢山いる。
小説は所詮小説である。全てが端的で、登場人物が歩む道筋は綺麗に舗装されてしまっている。そして人間の思考は往々にして、そうしたシンプルな回路で物事を考えやすい。だからこそ、現実では実際に会って、実際に話して、少しでも安心をしていく。心を複雑化させていく。単純ではあるけれどもこうした直接的な会話や、互助会を通して、人は自らの安定を求めるしかない。
社会的規範に反するような欲求、衝動についても同様である。創作においてそうした表現を規制するのは上記の通り逆効果である。マイノリティにもなれないマイノリティが生きるには、まず心理的安全が大前提である。どれだけ異常な欲求であろうと、それがコントロールできる欲求であることを当事者間で共有する。そうした丁寧なアプローチがあれば、現実はそこまで残酷でないものに変わっていくと思う。
非当事者が思うよりも、現実は悲壮かつ深刻であり、 当事者が思うよりも、現実は楽観していい。『正欲』は「異常性癖」というテーマを扱って、このコントラストを巧みに示してくれている。この件に限らず、恐らく世間一般で言われる「生きづらさ」を解消する為のアイデアも、非当事者の認知、当事者のポジティブさというこの二律の狭間にあるものではないか。僕は本作から、そんな事を思ってしまった。
と、諸々まくし立ててきたが、このような小説が世に出ていたこと、しっかりと売れ、文庫化までされたこと。そして映画化も予定されているようで。
我々のような、少し変わった性にまつわる生き方を強いられている人間の人権ってなかなか見逃されがちなわけで。ケアしたところで社会的メリットがないから、自ら生き方を見出していくしかないんですよね。ただ、そういう人もいるんだ程度の認知が広がってくれれば、多少は呼吸のしやすい世の中になるんじゃなかろうかと一人考え事が捗ってしまった残暑の朝でした。
良い小説だったので、是非皆さんも読んでみて下さい。