読みながら、改めて自分が生まれてきたことが正しい事だったのか、そんな思いを巡らせてしまった。丁寧に練られた登場人物とそのバックボーン、その上で自身の出自を踏まえて、生まれることと生きることをどう解釈するかという思考実験が延々と読者に提供される。以下、そんな川上未映子著『夏物語』を読んでの感想文章である。
ネタバレあるので気にする方はスルーで。
本書は川上未映子氏流の反出生主義に対するアンサーであり、ラストは産むことへの肯定に至るものの、そこまでの反対意見の掬い上げは見事としか言いようがない。主張の角度も、温度も様々。人には色々な主義主張があって、そこで生じる分断があって、決して分かり合えない点も存在する。そして、反出生主義を最も明確に掲げた登場人物、善百合子の内省や自分語りから垣間見える「反出生主義者の精神分析」は実に的確だったように思う。「自分の生を否定しないと生きていけない」と語った、この言い回しは取材の賜物か、筆者の鋭い感性分析によるものか。思わず唸った。
ただ、最後は誰もが一律の価値観で生きておらず、それぞれに決断がある、という当たり前ながら、そこにしか答えはない極地に還ってくるわけだけれども、人間そこに至るには、色々な回り道が必要なのだと改めて感じさせられる。
ここで僕個人の考えを書いておくと、反出生主義という思想にはかなり同調している。誰かに産んでくれと頼んだ訳でもなく、人は物心ついた時に真に出現する存在だ。キリスト教において知恵が原罪とされるのも、改めて考えればとてもクリティカルな指摘だろう。知能が他の動物と一線を画してしまったおかげで、わざわざ自らの人生の意味を考えるようになり、あるいは生殖行為を娯楽化させ、動物が生きる上での様々必要な要素を「文化」と捉え、消費可能な形に変換した。
文化の消費全般が大衆的な行為であるように、当然いつか飽和状態となり、生殖も一種の「オワコン」化する恐れがあるということだ。それに警鐘を鳴らす意味で、原罪思想はとても正しい。消費の末に発生する生殖に正義があるかと言えば、僕個人はそう思えない。
作中でもこのことについてたくさん議論されていた通り、知性ある人間にとっての出生の肯定は「産む人間」のエゴでしかないと僕も思う。登場人物らも憤っていたが、出生に対して謎の物語を勝手に紡ぐ人間には違和感すら感じる。「子は親を選んで生まれてくる」だったり「縁があって生まれてくる」といった言説は全て、出生を前向きに捉えるための詭弁に過ぎない。子がどう思うか、など何一つ考慮されていない。
ある種、残酷な選択だと僕自身も思ってしまうからこそ、冒頭に挙げた善百合子と同様に子を持つということに後ろめたさを感じる。
ただ、そんな思考を経た上でも、本作主人公の夏目夏子は子供を欲しがり、悩みに悩み、それがエゴであると認めた上で敢えて「間違える」ことを選択した。最終盤、子を孕んだ状態において「何も怖くない」と自然体で語る彼女の精神は、ある種の覚悟を決めた姿のように映る。子を持つことが自然な摂理であると考えることに対するカウンターこそが反出生主義であった訳だが、そこを踏まえた更なるカウンターとしての出産を描く事は、本当の意味での人生讃歌を示すことなのだろう。
なんなら人生の幸福というものは、その覚悟あるところに訪れるというようにも受け取ることができる。例えば僕が先ほど示した反出生的な理屈、その他にもあるのだけれど、子を持たない理由なんていくらでも挙げられる。そして、現代の世の中は多様性を保持しようとしているおかげもあって、こうした思想も一つの人格として認めてくれる。度量の深い世の中になってきたように感じるし、僕はそうやって生きていくつもりだ。
でも、そうした多様性は本来、僕みたいにある種逃避的、過去に対する自己肯定として使われるべきものでなく、真に将来に向けた覚悟を決めた人間が勝ち取るべきものではないかとも思う。怪我するリスクもない場所から、ネット上のみで延々と自分の正しさの擁護を行う人間に付与される「多様性」なんてものは、ある意味で優しいだけの、安っぽい精神安定剤ではないだろうか。
実際、この出生に関する話題に限らず、人の幸福について本当の正解は分からない。僕自身の出生に関する考えについて、自分としては正しいと思う。理屈も通っているし、感情もそれに沿っている。でも、人間を幸福に導く為の正解は「敢えて間違える」ことなのかもしれない。倫理的ではない、賛同は得られない、社会的に見て間違っていても、それを恐れずに受け入れる事。当然に限度はあるだろうが、こうした発想自体、自分にあまり存在していなかったので新鮮な心地を得た。
間違える、ということを極度に恐れ、蔑む現代だからこそ、そもそも自分自身が生まれてきたこと自体の「誤り」について、思いめぐらせるのも良いと思う。
かなり長かったけれども読んでよかった。