わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

徒党を組むことについて

以前も書いたが、恐らくヤフコメを人より熱心に読むようになってしまった。誠に遺憾である。

 

ヤフーニュースに付けられたコメント欄の意見、ヤフコメ。前々からしょうもない政治討論の場や、中高年のネット掲示板という形で揶揄されがちではあるものの、むしろ昨今のTwitterよりも真剣みがあって見ごたえがある。実社会ではどこにも発散する場所がない意見、時に陳情であり、政治への苦情であったり、また自分の人生に対する悲哀をただ書き連ねる人もいて、人間交差点といった趣をそこに感じる。

 

その中でも特にコメント数が多くなりがちな話題のひとつに、就職氷河期世代に関する話題がある。政府による遅きに失した支援プロジェクトなどが散発される度に、関連ニュースのコメント欄は各人、人生の語り場となる。就職活動の失敗から、家庭や子供とあらゆる幸福を捨てたこと、これまでどれだけツライ人生を歩んできたか、それに比べ今の新卒の扱いときたら、といった不平もチラホラ。また、資産形成が不足しており老後が不安、といった意見も目立つ。

 

そんな中で「努力不足」と断じるようなコメントがあろうものなら、苛烈なほどの「うーん(否定的リアクション)」がつけれらる。ある種、同じ境遇の人々が集まり、そこで良く言えば励まし合い、悪く言えば慰めあう、疑似的なコミュニティが形成されているようにも見受けられる。

 

自分自身、就職氷河期世代ではないが、その後のリーマンショック時の就職難世代ということもあり、就職難がその後の人生に大きく影を落とすであろうことは容易に想像がつく。そうした意味からも、やはり他人事ではなく、こうしたコメントの一つ一つを興味深く眺める中でふと感じた事がある。

 

彼ら・彼女らの意見は、過去の政権批判、また現在の政権に対する批判がメイントピックになるわけだが、そうした多くの当事者が発するコメントを読んでいても、こうした意見発信や「いいね」によるリアクション数が、特定の政党に対する支持基盤にはなりえないのだろうな、という印象を受ける。

 

かつて2000年代後半、Facebookが全盛であったころ、アメリカの大統領選においてオバマ当選にネット世論が影響を及ぼしたり、あるいは中東においてSNSでの民衆の高まりがアラブの春を引き起こしたり。ネットが社会のうねりを生み出した事例が世界各地で起こった。そうしたケースから、こと日本においてもネットにおける意見が民意形成のひとつとして重要な位置づけとなることが想定されたが、結局、局部的に影響が垣間見えただけに留まる。これまで企業団体、労組や宗教団体といったいわゆる中間団体が担っていた意見集約といった民主主義主体としての役割を、ネットは果たせないでいる。

 

ヤフコメでも実際、就職氷河期という話題に対して現状のツラさや、政府批判的な意見が多く集まっているにもかかわらず、民意形成の地盤になり得ないというのは、なんだかもったいない。まして、それぞれの境遇にはお互い共感が集まっているにも関わらずだ。

 

では、こうした意見が本当にひとつの社会的な力になりうるのはどのタイミングなのか、といえば、やはり人が直接会う時なのだろうと思う。試しに、こうした氷河期世代の自助・共助グループを検索してみると、チラホラはヒットするが、あまり数はない。そして地場で小さく行っている事例ばかりだ。もちろん、そうした地場の繋がりは重要だが、こと政策にまで影響を及ぼせるような何か当事者団体があるのかと言えば、決してそうではないというのが現状なのだろう。

 

そもそも、ヤフコメ民も自覚してはいるのだろうが、ネットで何を言った所で世の中はまるで変わらない。それがどれだけバズろうが、だ。実際にバズった事がある人なら分かるだろうが、バズりそのものに意味はない。インプレッションが増え、収入に繋がる人は別だが、数日間、暇なネット民のおもちゃになり、そして忘れられていくだけである。

 

やはり何かを変える、自分自身の思いの丈を事に起こす為には人と会わねばならないのだと思う。それはとても面倒で、リスクがある。自分の時間を使う事にもなるし、その出会いが良いものなのか保証してくれるものはない。それでも、誰かと会って思いを共有することでしか、何かを動かすことは出来ない。

 

やけに政治的な物言いだと思われるかもしれないが、ここで言いたいのはもっと初歩的な事だ。同じような境遇の人とは、会って話した方がいい。それだけである。愚痴でも良い、世間の恨みつらみでもいい。それを直接話が出来る人をお互いに探す、という点こそが大きな分岐のスタート地点になる。

 

インターネットはお手軽に自分の意見を投稿できるし、それに対する共感も可視化される素晴らしいツールだ。ただ、結局それだけなのだ。ちょっとでも現実を変えなければならない場合には、人と会う、その機会を作るコストを払わなければならない。当事者なのに、延々他人事のようなコメントばかりを吐き出す沼に陥ってしまう。なんなら、氷河期世代の問題を問わず、ネットで意見を漏らすことによってもったいない溜飲の下げ方をしている人がかなり多いのではないか。

 

徒党を組む、というと何か卑怯な事をしているように見えるが、今困っている人全般に必要なことは、この徒党を組むことではないかと思う。ネットというツールが出来て、人は繋がりやすくなったが、逆に徒党を組むことは難しくなった。ネットを通じて誰かを見る時、それはとても独りよがりな行為になる。だからなんでも言えてしまう。意味のない意見ばかりが飛び交う結果となる。

 

その目的を、もっと直接のコミュニケーションに向けた方が建設的なのではないだろうか。何かおせっかいのようだけれども、あれだけのエネルギーと人生に対する姿勢があるのに、正直それが政治的に反映されないのは非常にもったいない。自分の人生を肯定するためにも、人は匿名でない人間と話をすべきだし、多少のコストを払っても直接面と向かいあうべきなのだろうと、最近よく思うので書き連ねてしまった次第。

 

何かそこに救いがあるとしたら、やはり連帯なのだと思う。詰まらない結論だけれども、徒党を組むという事をバカにしてはいけないと感じた日でした。