わがはじ!

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権利と承認の幸福論~Twitter10年を考える②~

今年でTwitterのアカウントを作って10年になる。その中で、ネットの情報と触れ合いながら考えたことなどを取りまとめ、あくまでも根暗ベースで書いていくシリーズ第2弾。あくまでも持論です。今回はGW10連休の最終日に書き出したということもあって、いつもより2割増しくらい、暗い話を漏らしてみたい。

 

・「子供嫌い」という権利

今年に入って読んだ記事の中で、しばらく引っかかっていたものがあった。

president.jp

 

話題として特段新しいものではない。「NIMBY(Not In My Backyard)=うちの裏庭に~を建てるな」的発想に纏わるエッセイ的記事だ。ごみの焼却炉など、住民と自治体との間でいさかいになるような施設建築の話である。その中でも、最近ネットで往々にして炎上事案になるのが、この記事が取り上げるような「保育所問題」だ。

 

少子化にも関わらず、待機児童が問題となる今の時代。更に拍車をかけるような「近所に保育所を作らないで」という地元住民からの意見は、時たまネットニュースになり、色んな声が向けられやすい。本記事もバズっており「身勝手ではないか」「子供を地域で育てるという発想がない」などという反応を見かけた。

 

昨年末、青山で児童相談所建設に地元住民が反対したという記事も記憶に新しい。この手のニュースを見た際、普段そんなこと考えない僕でさえ住民に対して「子供のためだろ。身勝手なんじゃねえの」と憤りを感じていた。しかしながら、なんとなくクリティカルな反駁が出てこない。歯に何か挟まってるような感覚。「他人の子供のため我慢しろ」・・・果たしてそう言えば済むのか。

 

そんな違和感を抱えつつ。ここで、ちょっと違う話題を思い出してみたい。例えば、昨今の労働に纏わる話。昭和から続いてきた「24時間働けますか」的発想に対するカウンターは「サビ残必要なし」「飲みニケーションへの疑問」「ブラック企業は滅べ」という声が挙がっているように、もはやネット上では通念として定着しかけている。勿論、自分も含めた労働者にとっては良い潮流であり、働きやすい職場、そして生産性の向上という考え方は時代に適したものと言える。

 

では、こうした考えの本質は何か。端的に言えば、それらは権利意識の表れのひとつであろう。雇用関係において、労働者にも認められた権利がある。それを忖度なく行使できる雰囲気を作ることは、確実に悪いことではない。だって、職業選択もプライベートな時間も、れっきとした自分の権利なのだから。

 

そして、冒頭の話に戻ろう。保育所建設反対の意見だ。旧態依然とした「寄合的コミュニティ」を脱した都市部での生活。そこにおいて住む人が、忖度なく自らの権利を主張すること、それもなんら不自然ではないのではないか。

 

プライバシー権日照権など大学での憲法の授業のようだが、保育所拒否を訴える権利。それは、我々の感情論で一方的にはく奪されるべきものでない。いかに「自分勝手な」意見に見えても、彼ら住民が「フェア」なルールに則っているという前提で話を始めなければならない。そして、こうした住民の反対意見に憤っている自分こそ、さっきまで「労働者の権利を」と語っていたのに、その権利という視点を無視するような「ダブスタ」的スタンスにあったことを自覚しなければならないと思う。

 

・不快さを取り除くという幸福追求

苦手な人や嫌いなもの。そうしたものから遠ざかる、遠ざけるのは自然な行為だと思われており、その風潮は昨今強まっている。ブラックなら辞めればいい、いやな飲み会は無理に行く必要はない。そう声を挙げる傍らで、保育所は甘んじて受け入れろ、なのだ。僕がこの問題に反駁したいが、モヤっと感じていたのは、なんとなく「そうすべき」という感情のみで僕自身、自分の理屈を守っていたからだろう。

 

保育所問題から離れて、すこし根本的な話を考えてみたい。つまりは労働をはじめ自らの「権利」を主張する重要性に気付いたネット市民。その「権利」の主張を掲げた末、我々はどこに行こうとしているのかについて軽く語ってみよう。つまるところ、現代の幸福論だ。先日ツイッターで身の丈に合わない主語を使うヤツは信じるなと言っておきながら、これである。ということなので、あくまでも僕周辺の感覚をベースに考えたい。

 

唐突だが、GW久々に母方の叔父に会った。なかなか破天荒な人柄で、バブル期にシカゴで寿司屋を経営。破綻した後、結婚詐欺にあい、心臓を病み、今は近所で生活保護を受けながら過ごしている。その口癖は「とにかく面倒だ」というもの。いや、確かにそんだけの人生を送ってきたら、何かを始めることを厭う気持ちも分かる。

 

最近スマホを持ったものの、競馬情報を見るか電話の二択。何か新しい趣味でもと言えば「新しいことは不快な思いが付きまとうから」と言う。んー頑固なもんだ、と聞いていたが、その言葉からふと感じたことがある。普段、人間というものは趣味だったりそれこそ食欲だったり、基本的に「快楽」を求め、それを種々生活や活動の意欲にする生き物だとなんとなく思っていた。

 

しかしながら、むしろ叔父の発想のように「不快な状況をなくす」つまり「快適さ」を得たいという願望の方が、人としてはより自然な感情なのではないかと思ったのだ。思えば、自動車や家電の発明、種々テクノロジーの進歩はそうした不快さをなくすことを原動力にした営みである。そして一人一人の生活も、居住であれば、住まいがいかに駅から近いか、近くにスーパーはあるか、など「快適さ」が幸福値を表すバロメーターのひとつになっているのは確かだろう。

 

ひいては会社や家族、こうした組織体においても、上司との飲みや、ご近所の付き合いなど、面倒なしがらみをなるだけなくし、個の快適さを優先しようというのが今のトレンドではないだろうか。つまるところ、自分の人生。思うように生きた方がいいでしょ、という話で、この手の発想に頷く人は多い。

 

・承認というローカルブレーキの限界

では、そのように上司やご近所づきあいといった他から煩わされることない快適な生活こそが、現代の「幸福観」なのだろうか。

 

ここで、もう一つ大きな要因を占めるものがある。相反するようだが、それこそ他人から得る承認欲だ。この「権利的快適さ」と「他人からの承認」というセットこそが、今の幸福観に纏わるリアルな温度感ではないかと思う。

 

面白いのは、先に挙げた「権利的快適さ」は人との関係性を薄くしたほうが求めやすい代物だが、ブレーキのように「他からの承認」は存在する。一人でいれば好き勝手に振舞える。社会の中では規律が息苦しい。しかし、一人では得られない「人から承認される」感情を得ることが可能になる。わざわざ言い立てるほどのジレンマでもないが、このバランス感覚こそ、今という時代における人の幸福観と言っても差し支えない気がしている。もちろん、人によってその偏りは大きい。「快適さ」を優先させる人もいれば、「承認」に全振りする人もいる。

 

では、そろそろ本題に移る。何を言いたいかといえば、インターネットの時代において、この「個」と「承認」という対立軸に変化が生じているということだ。「個」における権利追及は先述の通り、加速している中で「承認」の場が、ローカルだけではなくむしろネットワーク上に移ってきているように感じる。会社の上司から承認をされなくても、フォロワーから認められる。家族が疎ましい時にはネット上の意見が自分を守ってくれる。という具合だ。

 

例えば、一人で好き勝手に振舞った反動は大抵、友人や家族など周辺の人のリアクションとして帰ってくる。周辺の人がそれを咎めた結果、承認を失わないよう行動を調整する。しかし、そうした言動をネットに呟けば、様々な第三者がいきさつに評価を与える。「自分の自由に振舞った行動のほうが正しいよ」「周囲を気にするな」など、意見が投げかけられる。

 

当然メリットもある。顕著な例としては、いじめや家庭内暴力が存在する閉鎖状況において。ネット上の第三者からの意見は、明らかに偏った環境に対して修正を行える力を持つ。また広く周知されることによって問題解決の可能性が生じるという意味では、ローカルを超える承認を得る過程は効果的だ。

 

反面。こうした構図に慣れ親しむと、ローカルにおける承認を気にしないで済むようになる。要は「個人の快適さ」の追求に対して、周辺のリアルな関係性に対する相対的な価値を下げてしまうということだ。親と折り合わなくとも、ご近所付き合いなどしなくても、ネットには自分の意見を認める人がいる、と。

 

・今ある快適さと、自覚と。

ネット上における実際の利害を伴わない、ゆるく繋がる承認の輪。自我や個の主張を守る上では有効だろうが、果たして本当にその輪が自分を救ってくれるのかという疑問が立ち上がる。「個の快適さを優先させる」人たちがそう主張し合い、同調する中、ここで醸成されるのは「自己責任」の感覚だ。

 

あくまでも、自分の人生は自分の人生だから。そして、自分を縛るローカルな関係性に重みはない。その主張を掲げながら、いざという時に面倒な人生の中で、本当にツライ状況に置かれた際、一体誰と在るべきなのか。はたまた一人で乗り越えられるのか。昨今の社会問題は往々にして、こうした空気感、あるいは諦観が横たわっている気がする。

 

労働の効率化、晩婚化、独り身での生活、少子化、そして保育所建設の拒絶。案外、これらの清濁双方を含む事象やそれに関連する発想は地続きだ。昨今、人それぞれの異なる幸福感は、それぞれに尊重されるべきという風潮の中、自らの不快さはなるだけ排してよいという発想が定着してきている。もちろん手放しに賛同出来るメリットもあれば、疑問も生じたりする。

 

権利を主張することは決して悪くない。ただ、僕らが得たいと望む幸福観の先に一体何があるのか。この問いを自覚的に自問しなければ、恐らく足元にあるローカルという土壌すら消失させている可能性もある。この保育所反対の問題についても、住民の感情は理解出来る。いや、誰であろうとまず「理解しなければならない」時代なのだ。

 

その上で、ようやく失われるものについて、何を犠牲にするのかについて。そこからようやく倫理観を含めてお互い考えていくべき対話のスタートが切れる。すべてがモラルの問題と捉える人、感情で反駁を行い続けていると、自分が欲しているものすらわからなくなる。

 

そんな不安を文字にしてみた、という具合でした。令和という年号を迎え、新しい時代の幕開けに。まぁ、案の定という暗い内省記事。まだ、このシリーズは続きます。