わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

いまネットに文字を書くこととは

小島アジコ先生が「はてなから人がいなくなってる、というかネットで「はてな」って見なくなったよね」というタイトルの記事を上げられていた。

orangestar.hatenadiary.jp

その通りだと思う。今日は特段何があったわけでもないけれど、ふと2021年というこの時代においてネットで文章を残すことについて、考えてみようと思った。

 

 

ブログって一度、更新が止まると見事に書き出せなくなるもので。前回3月はエヴァの完結という大きなお題目があって、感想などをダラダラと書けたのだけれど、こう日常で続けてみるかというのがまた難しい。それにしても、いよいよ個人で淡々とブログをやる理由ってのも本当に薄くなってきたなと思う。

 

何故かって、ネットで流れる情報で140字以上の文章なんてわざわざ読まんしょ。という話だ。ゲーム配信にとどまらず、個人の意思発信自体、こんな長ったらしい文字よりも、瞬時に伝わる音声だったり映像というのが主流の時代になってしまった。まぁ、いずれはそうなるだろうなと感じていた以上にその推移は早かったように思う。

 

そうなると、うんうん言いながら文字を生み出し続けるよりも、ハローYouTubeなんて視聴者に語り掛けつつ、自分のやりたいことで生きていった方が見る人にも伝わるし、諸々コスパもいい気がする。(動画編集とか大変なのも理解しているので僕には難しいと思う)こんな事を言っているうちに、いよいよTwitterの140字を吐き出すことすら面倒になってきていたりしている。

 

このブログも数年前までは時事ネタ社会ネタ、ライブやイベントレポまで好き勝手書き綴りまくった結果、その頻度が月に5本ペースを保っていた時期もあるというのだから自分ながらに驚く。絶対に今は無理だ。このモチベーションの変化は一体なんなのか。これが歳に伴う意欲低下では、とか安易に言うと上の世代からめちゃくちゃお叱りを受けるので、また違う理由を考えねばならない。

 

以下、僕が勝手に考えているぼんやりとした意見なので、適当に残してみたいのだけれど。今「ネット」で文章として意見や意思を残すことは、何を書いてもとても陳腐な感じがする。この陳腐な感じこそ、ブログという文化自体が不要になってきた根本的な原因だと思う。陳腐化の理由は二つあると思うので好き勝手書いてみる。

 

まず一つ、露出と情報強度の比例関係だ。ネットはいわゆるメディアの一つだ。誰かに何か情報を届けるための枠組みである。さっきも書いた通り、扱えるデータの容量も格段に増えたことで音声や動画といった配信手段が拡充して、ミニブログと呼ばれたTwitterですら今では画像付き、動画付きの方が主流だろう。

 

つまり人の表情や声という直接的な個人情報を晒しながら情報発信をすることが主流になったわけだ。先日も著名YouTuberらの自粛無視パーティが週刊誌ですっぱ抜かれるなど(誰一人知らず凹んだけど)配信者には社会的リスクが伴う。しかしながら、そうしたリスクを背負いながらでも情報を発信することは、情報の信頼度や影響度、つまり強度を増すのに役立つ。

 

最近、中年世代がふとYoutubeを見て突然陰謀論を信じ込んだり、極右化するというのが社会問題になっているらしいけれど、その要因の一つがこれなんじゃないかと思っている。今まで書籍や新聞でしか得られないと思っていた尖った情報が顔出しメディアで垂れ流されている。情報提供者の顔が見えると、案外信じてしまったりする。これが情報強度の差だ。

 

ネット上に文章のみで強い主張をしたところで、ここまで露出がスタンダードになった今、文字には自然と匿名性が付随する。そうすると文字で表す、ということ自体が陳腐になってしまうというのが今の現状なんじゃないか。逆に増田の投稿などがたまに盛り上るけれど、あれは自白や独白に近い。情報発信とも違うジャンルなので、匿名性とは異なるベクトルで情報を補強するんじゃないかと思う。

 

そして、もう一つの理由。ネットにおけるというより社会全般における「バーリトゥード」な風潮だ。リベラルという言葉が機能しているのかもわからないのだけれど、今はどんな主張であろうと「多様性」が守ってくれる建前が存在している。どんな人でも「取り残されることは」許されないのだ。

 

例えば、ここ数年でLGBTを掲げることの意味合いは変化しているし、その議論を行う角度も「多様性は確保されるべき」というのがスタンダードになる。また引き合いに出すべきではないかもしれないけれど、NHKをぶっ壊すなんて名前を掲げた団体も政治活動を積極的に行い、ネット世論から賛否を同時に引き起こしている。昭和には多分あり得ない出来事だろう。

 

様々なものがネット世論に晒され、批判も肯定も「みんな違って、みんないい。」存在にまで昇華される。そして、ここ数年では新型コロナが旧態依然とした考え方すべてに疑問を投げつける。「今の常識を疑え」「昭和を完全に終わらせろ」という風潮が完全に支配的だ。つまるところ「なんでもあり」なのだ。

 

そして、こんなところ、はてななんかで延々文章を書きなぐるような人間は、社会に対して何らかの恨みつらみを抱えたような捻くれた人間か、人間には無限の可能性があると信じている意識高めな方が多い。だって、仕事場でふと同僚に10年近くブログを続けていますなんて言ったら、確実に何か過激な思想でもお持ちで?という目が向けられるだろう。そしてそれはあながち間違いでなかったりする。

 

時代はスマートになって、正義と悪の二軸なんてものはないという論調が一般論になっている。世の中がなんでもありとなってしまえば、いくら尖った発想を持とうとしても、すべては陳腐の海に飲み込まれる。90年代遺恨しか残さなかったエヴァだって、監督含めたキャラ全員の精神分析の末、大団円を迎えたのだ。こうしたある意味で優しい世界も、ネットにおいて個人が文章を残す意味を死滅させる一因になっているように思ったりするわけで。

 

 

と、文章を書かなくなった理由を文章にしてみたのだけれど。

 

多分、こんな場末のブログで、これまでのように肩肘に力入れて「社会の問題」チックな文章を書こうとすると、空振りして余計に虚無に放り投げられる気がする。そんな意思自体、成立しないのだと思う。

 

だからこそ、簡単に。ふと、思ったことでも、こんな感じでぼやいていければと思うのだけれど。何とか、続けられるタイミングでは続けてみたいものです。